萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第58話 双璧act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2012-11-30 23:43:24 | 陽はまた昇るanother,side story
明日へ、最高峰に約束を 



第58話 双璧act.4―another,side story「陽はまた昇る」

夏の陽ふる梢の向こう、蒼い富士が聳え立つ。
その山を肩にのぞかせて、雪白の貌は涙ひとつと微笑んだ。

「周太、聴かせてよ?俺が英二とえっちすること、本気で君は喜んでくれるってコト?…それが君の幸せになるって、本気で言えるの?」
「ん、幸せだよ?」

真直ぐ見上げて微笑んで、白い頬から涙を指で拭ってあげる。
そっと指へと絡まる温かな雫、その温もり微笑んだとき白い指が掌をくるんだ。

「ほんとうに君は綺麗だね?強くて眩しい…なにも変わってないんだね、初めて逢ったときから君は…本当にドリアードなんだね…」

涙とこぼれるテノールの声、微笑んだ唇が掌ふれてキスをくれる。
白い指にくるまれ薄紅のキスふれていく掌、その温もりと輝く涙に周太は微笑んだ。

「ん、そうだね…きっと光一の山桜のドリアードだよ?だから言うこと聴いて、俺のこと大切だったら言うこと聴いて?」
「何でも聴く、君と山と、あいつから離れること以外なら何でも…だから言って、ドリアード?」

ドリアード、そう「山の秘密」にくれた名前で呼んで、光一は泣いている。
その涙に15年の時を見つめて周太は、素直な祝福に微笑んだ。

「お願い、光一。英二との夜は、ずっと幸せでいて?大好きな人に抱きしめてもらう幸せを、一瞬でも無駄にしないで幸せでいて?」

どうか幸せでいて?
もし幸せでいてくれるなら、自分の今も泣けない涙は無駄にならない。
その想いごと真直ぐに透明な瞳と涙を見つめて、周太は綺麗に笑いかけた。

「最初の時はね、確かに怖くて不安で、痛いかもしれない…それでも幸せだけを見つめて?痛くても大好きな人を見て、信じて?
大好きな人に体ごと愛してもらう幸せ、少しも逃さないように、ずっと見つめて感じてほしい…お願い、光一。その夜はずっと幸せでいて?」

もし夜を幸せに過ごしてくれるなら、自分の傷みも意味があると想える。だから幸せに過ごしてほしい。
本当は今もう心は痛くて、英二に愛されるのは自分だけじゃなくなる現実が哀しい、独り占めが終わる瞬間が切ない。
そんな我儘な痛みがある。けれどもし2人が幸せで笑ってくれるなら、我儘も痛みも納得ができる、これで良かったと心から笑える。
どうかお願い、この祈りを叶えて?そう笑いかけ見上げた先で、秀麗な泣顔は頷いてくれた。

「うん、ありがとう周太…ごめんね、ゆるしてとか言えない、でも俺、どうしても英二が良い…ごめん、ね…っ、周太」

透明な言葉が泣いて、微笑んでくれる。
白い手に包んだ掌にキスをして、薄紅の唇は想いを言ってくれた。

「惚れた相手と見つめ合って、ふれあって、この体と心だけで繋がりたい…そういうこと本気で想えたの、あいつが初めてなんだ。
肩書も立場も無い、性別だって関係ない、生きた人間同士ってだけで愛し合ってみたい。ただお互いの体温を知りたい、融け合いたい。
本当はされるのって怖い、体のこと不安で…だけど英二が北壁で実績つけたら、そしたら俺の体すこし壊れても大丈夫って想って…だから、ね」

男同士で愛し合う事は、受身の方のリスクが大きい。
この身体的リスクはトップクライマーを嘱望される光一にとって、決して容易くないハードルだろう。
それを超えても光一は英二に愛されたいと望んでいる、その覚悟と切なさに周太は穏やかに微笑んだ。

「大丈夫、光一の体は壊れたりしない。英二は優しいよ、ちゃんと体も大切にしてくれるから、怖がらないで、ね?」
「うん…わかった、不安にならないようにする。それでね周太、…聴いて?…っ、」

言って、涙こぼれて声がつまる。
その涙と声に周太は歩み寄って、長身の幼馴染を抱きしめた。

「ん、聴くよ?ちゃんと全部聴くから、安心して話して?」
「うん…ね、信じて、ね…ぅっ、」

涙こぼし透明な瞳が笑ってくれる。
ひとつ息吐いて花の香こぼれだす、そして光一は15年の想いを告げた。

「初めて逢ったときからずっと、君を愛してる、今もだよ…ずっと君を待ってた、だから俺、えっちだって本当は一回しかしてない、
その一回はね、初めて同士じゃ君を傷付けるって思って、それで初体験を済ませただけなんだ…俺、君と結婚したかったんだ、本気で。
でも君は女の子じゃない、それでも君への想いは変わらない。だけど、男の君とは結婚できない、悔しいけど俺にはそれが赦されない。
だから、君の相手が英二で良かった、本当にそう心から想ってる…でも君が女だったら俺は、何をしたって君のこと取り戻してた、絶対、」

真直ぐに見つめてくれる瞳から、ゆっくり涙は止まずふる。
旧家の一人っ子長男に生まれて、早くに両親を亡くし祖父母に育てられた光一は「家」を捨てられない。
その責任感と痛みに光一は「男とは結婚できない」と隠さず告げてくれる、その誠実な真摯が愛しくなる。
愛しさに見上げる頬に涙ふる、その涙に濡れるまま見つめる周太へと、無垢の瞳は微笑んで真実を語りだした。

「君の山桜はね、雅樹さんが見つけて俺に教えてくれたんだ…小さい頃に雅樹さん、あの森で迷ってね。そのとき君に出逢ったんだ。
雅樹さん、あの山桜はドリアードが住んでるって本気で信じてたよ。その話をしながら赤ん坊の頃から俺を、一緒に連れて行ってくれた。
あの場所は俺と雅樹さんの秘密の場所なんだ。君の山桜を雅樹さんは本当に愛してた、あの木に逢う為にいつも奥多摩に来てたんだ。
だからね、雅樹さんが死んで、哀しくて逢いたくて、あの森に毎日通ってたんだ…あそこに行けば雅樹さん、来てくれるって想ったから」

告げられた真実に、そっと心が頷いて納得する。
なぜ光一が山桜に逢いたいのか、その二重の想いが伝わる。

…雅樹さんが、あの山桜を見つけて愛してた。だから光一は、あの木が大切で大好きで、護りたいんだね

光一が初めてアンザイレンパートナーに選んだ、美しい山ヤの医学生。
彼を光一は心から慕って、ずっと想い続けている。その想いは恋愛という言葉だけでは尽せない。
もう亡くなって16年、それでも尽きせぬ深い想いのなか、透明な声は懐かしむよう切ない幸せに笑いかけた。

「雅樹さんに逢えなくても、雅樹さんが恋した山桜のドリアードに逢えるかも?そう思って俺、毎日いつも山桜に逢いに行ってたんだ。
下草を刈ったり、幹の蔓を外したりしてね、山桜を手入れして可愛がって。そうしたらドリアードが俺に逢ってくれるって信じてたよ?
そして1年が過ぎて冬が来て、山桜に花芽がついた時だった、君があの山桜の下にいたのは。雅樹さんが教えてくれた通りの姿で、ね」

緑に輝く短い髪、あわい水色の服、小柄で華奢な少女の姿。
それが樹木の精霊ドリアードだと言われている、そしてあの時、自分は水色のウェアを着ていた。
あの頃の自分は女の子と間違われていた、その懐旧にすこし微笑んだ周太に光一は笑いかけた。

「俺ね、雅樹さんが亡くなって哀しくて苦しくて、もう人間のこと好きになり過ぎないって決めてたんだ。だから君に逢えて嬉しかった。
山桜の精霊なら、山の神さまなら、雅樹さんみたいに死んでいなくならない。たとえ普段は見えなくても生きてる、いつか逢ってくれる、
そう信じられるから俺は、君に恋したんだ。君は生身の人間だって解ってる、でも本当は山桜のドリアードだ、死んで離れることは無い。
だから離れている14年間も信じられたんだ、山桜が元気に花を咲かせるたびに君は生きてるって、いつか逢いに来るって信じられた、」

まだ9歳だった、自分も光一も。
まだ9歳の子供が14年を待ち続け大人になった、それは決して短い時間じゃない。
いま24歳を迎える自分たちにとって、14年と言う歳月は人生の半分以上を占めている。
その長い時を独り待ち続けていた光一の「雅樹」にまつわる想い、その一途な恋慕が周太のことも救おうとしてくれる。
生きて会ったことのない人、けれど自分を護ってくれる。そんな不思議な縁に微笑んで、周太は山っ子に問いかけた。

「雅樹さんのお蔭で俺は、光一と逢えたんだね?」
「だね…だからね、俺にとって君は救いなんだ、」

問いかけに、透明な声は応えて微笑む。
大らかな優しい笑顔で光一は、真直ぐ瞳を見つめて言ってくれた。

「出逢った日も君は、本当に楽しそうに俺の話を聴いてくれた。あの綺麗な笑顔が嬉しかった、純粋で温かで本気で好きになった。
見つめてくれる目が優しくて、寛げて。短い時間だったけど俺は救われたんだよ…だから俺、本当に精霊で神さまだって信じてる、今も。
君は山桜の化身ってヤツだ、ドリアードだけど人間の姿で今は生きている。いつか人間の命を終えても君は、あの山桜に還るだけ。そうだよね?」

真直ぐな言葉と見つめてくれる、この笑顔こそ美しく優しい。
そう見上げてしまう真中で、涙ゆっくり伝わせながら光一は困ったよう笑ってくれた。

「だから俺、英二が周太のこと愛しちゃってるの、納得なんだよね?だって英二はね、雅樹さんと全然違うくせに同じなんだよ。
英二って根暗だけど、雅樹さんは物静かでも明るかったんだ。でもね、真面目で思慮深くって優しくて、絶世の別嬪ってとこ同じでさ。
ふたりとも山を愛して、人の命を援けることに誇りを懸けてさ?同じように俺のこと支えて傍にいて、きれいな貌で笑ってくれるんだ。
そういう英二だからね、雅樹さんが恋した山桜のドリアードに恋して、惚れぬいちゃうの当然なんだ。相思相愛なのも当たり前だね、」

英二と雅樹、ふたりは似ていると誰もが言う。
いつも吉村医師のデスクで雅樹の写真を見る、そのたび自分もそれは感じる。
だから光一の言うことは頷けてしまう、そんな素直な肯定に微笑んだ周太に透明なテノールは告げた。

「雅樹さんのファーストキスは俺だよ、寝てる雅樹さんに俺が勝手にしちゃたんだ。でね、雅樹さん山の神さまとキスした夢見たんだよ?
それが俺にとって初めてのキスだ、その次は君だよ?今年の1月、あのときなんだ。初体験は済ませてもキスはとっておいたんだよ。
それくらい俺、本気で君を待ってたんだ。でも、もう終わらせるよ?…それでも、ずっと君を好きで、ずっと君を護ることは変わらない、」

想いを告げながら長い腕を伸ばし、そっと周太の背中に回してくれる。
ふわり高雅な花の香が頬撫でて、透明な瞳は無垢なまま綺麗に笑った。

「だから信じてよ?俺は英二に抱かれても、ずっと君を想い続ける。山の神と同じに山桜のドリアードを愛して、護り続けるよ?
人間としての恋愛は俺にとって英二だ、でも君は特別だよ。俺にとって君は救いで、いちばん綺麗で、いちばん護りたい大切な存在だ、」

そんなふうに自分を言ってくれる、そのことが素直に嬉しい。
けれど1つ確かめたくて、静かに見つめて周太は問いかけた。

「ありがとう、光一。俺にとっても光一は大切だよ、だから英二を任せたいって想えるんだ…でも、1つ訊かせて?」
「なに、周太?」

素直に笑いかけてくれる眼差しが綺麗、そう見つめながら周太は白い頬に掌を伸ばした。
ゆっくり伝う涙を拭いながら、微笑んでくれる透明な瞳へと周太は穏やかに笑いかけた。

「光一にとって、英二と雅樹さんは、同じ存在なの?」

ふたりは似ている、そう光一は言う。
だから確かめておきたい、英二は雅樹の「身代わり」なのだろうか?
それとも違う別箇の存在として、光一の心にあるのだろうか?それを聴きたい、そう見つめた先で透明な瞳は綺麗に笑った。

「全然違うね。雅樹さんは俺の最初のアンザイレンパートナーだ。そして英二は、俺の最愛で最後のアンザイレンパートナーだよ、」

ふたりは全く別だよ?
そう告げて底抜けに明るい目が笑い、光一は教えてくれた。

「雅樹さんは俺に山の夢を最初にくれた人なんだ。先生で、保護者でもあってね?憧れで大好きで、誰よりも尊敬して愛してるよ。
だけど英二は逆だね、俺があいつの先生だ。同じ世界に生きて、援けあっていく共犯者で…体ひとつで愛し合いたい、唯ひとりだ」

体ひとつで愛し合いたい、そう告げてくれる。
その願いが大切な伴侶のために嬉しくて、そっと周太は幼馴染を抱きしめた。

「ありがとう、光一。それならきっと大丈夫、英二と幸せになれるよ?…でね、ちょっと教えてくれる?」

嬉しくて、けれど気掛りなことがある。
そう見上げた先で明るい目が「なに?」と訊いてくれる、その素直な眼差しへ周太は率直に尋ねた。

「あのね、光一は男同士でするのに何が必要とか、ちゃんと解かってる?買ったりして揃えてあるの?」
「え、ないけど、ね?」

短く言って、雪白の貌が困ったよう首傾げこむ。
やっぱり準備はしていないらしい、微笑んで周太は幼馴染を四駆へと引っ張った。

「光一、お願い。薬局に連れて行って?ちょっと大きいお店の方が良いと思う、行こう?」

笑いかけ車に乗せて、カーナビで検索をしていく。
その隣、運転席で途惑った顔のまま光一は、ハンドルを捌き始めた。

「あのさ?薬局って…もしかしてえっち用品を買いに行くワケ?」

幾らか途惑った声で訊いてくれる、そんな様子がすこし意外で可愛い。
いつも大人の話で周太を転がして光一は愉しんでいる、それなのに初心な素顔が今、隠せない。
それが不思議にも想えて、気恥ずかしさと答えながら周太は訊いてみた。

「だって光一だけで行っても、英二の好みとか解からないでしょ?…ね、光一ってえっちな話が好きだけどえっちじゃないんだね?」
「ばれちゃったね、俺は耳年増なダケだよ?体は綺麗なモンだ、」

質問に、雪白の横顔が困ったよう笑って白状した。
やっぱり図星かな?そう見ながらカーナビのセッティングを終えると光一は口を開いた。

「山と畑で暇も無いしね?さっきも言った通り、俺は君にえっちすること楽しみにしてたけど、他は興味無かったんだ。
今だから言っちゃうけどね、君が男でも本当はえっちしたかったよ?周太だったらタチもネコもしたいなって、思ってたんだからね、
だから俺、一応は男同士でもナニするって解ってるし、前も言ったけど自分の指でちょっとしてみたしさ。周太のだったら平気だと思うよ、」

いま、すごいことを言われてるんじゃないのかな?

そう雰囲気で解かるけれど、単語の意味が途中よく解らない。
よく解からないままにも恥ずかしくて首筋は熱くなる、困りながらも周太はこの際、思い切って訊いてみた。

「そんなに想ってくれてありがとね?…でも、だったらなんで英二とするのは、そんなに考え込んでたの?」
「そりゃ決ってるよね、あいつがデカいからだね、」

さらっと答えてくれたトーンが、いつもの軽妙なトーンになる。
その楽しげな空気にすこし困らされそう?そっとパーカーのフードで衿元を隠した隣、綺麗なテノールは正直に訊いてきた。

「いつも風呂で見るだろ、でね、あんなデカいの入れられたらキツイだろって思ってさ。周太よく平気だなって思ってたんだよね。
あんなの入れるコツってある?あったら教えてよ、ほんと俺ちょっと自信なくって怖いんだよね。あのサイズでヤられるのは想定外だしさ、」

言われる言葉に頬までもう熱い、きっと耳も熱くなるだろう。
そんな自分に困りながら、幼馴染の元気になった横顔へと周太はすこし拗ねた。

「あのね、光一?ほんとうに訊きたいのもあるっておもうけど、半分以上は俺のこと転がして面白がってない?」
「違うね、真剣が2/3で悪ふざけが1/3ってトコだよね、」

しれっと訂正して、底抜けに明るい目が周太を見た。
その瞳の明るさに隠れた涙がある、そう感じとって周太は素直なまま笑いかけた。

「今はふざけて良いよ?でもね、英二と抱きあう時は100%真剣になって?英二を大好きって想って、いっぱい幸せを感じたら大丈夫、
英二のこと信じて、愛されたいって想えたら自然と体が緊張しなくなるから、ちゃんと英二のこと受容れられるよ?それがコツだと想う、」

告げた言葉に、底抜けに明るい目が笑ってくれる。
綺麗な笑顔だな?そう見惚れた雪白の頬にひとつ涙こぼれて、透明なテノールが微笑んだ。

「いっぱい幸せを感じるね、俺。周太、やっぱり君のこと大好きだよ?俺のドリアード、」

そっと頬伝う涙に、フロントガラスを透かして夏の陽がきらめいていく。
その輝きに微笑んで、周太は綺麗に笑いかけた。

「ん、俺も光一のこと大好きだよ?見て、富士山すごく綺麗だね。あれより高い所に行くんでしょ?気を付けてね、」

言葉と一緒に見上げた秀峰は、蒼穹に白雲を靡かせて優雅に佇む。
フロントガラス拡がらす雄渾な蒼い山、その姿へと山っ子は綺麗に笑ってくれた。

「うん、気を付けて登るよ。心配しないでね、俺が英二のこと絶対に無事に登らせて、連れて帰ってくるから。信じて待っててね、」

ほら、英二の無事を約束してくれる。
この約束を光一は何があっても護るだろう、英二への深い想いのままに。
そうやって2人助けあって夢を叶えてくれたら、それが自分にとって希望の明りになる。

…俺の明日は解からない、でも2人が輝いてくれるなら、幸せに笑ってくれるなら本当に嬉しい、

大切な幼馴染で恩人の光一、そのひとが英二を支えてくれる。
もう大切なひとの幸せは約束された、それが自分を励まして温かいと今、素直に嬉しい。
この信頼と安らぎがあるから今、明日に怯えず微笑める。この勇気ひとつ嬉しいまま周太は、最高峰へと微笑んだ。



夜21時、やさしい旋律が流れだす。
赤い着信ランプの光に微笑んで携帯電話を開く、すぐ繋がる通話に大好きな声が微笑んだ。

「こんばんは、周太。今日は何してた?」

綺麗な低い声が問いかける、そのトーンはいつものよう優しい。
穏やかな深い声に微笑んで、秘密をふたつ隠しながら周太は答えた。

「こんばんは、英二…今日はね、買物に行って、荷物の片づけしてたよ?英二は今日は、どんなことあったの?」

今はまだ逢いに来たことは内緒にして欲しい、そう光一と約束をした。
今の英二は北壁の登攀を控えている、そこへ集中させてあげたいから言わない。
アルパインクライミングで最も必要なのは集中、だから今、余計なことを英二には話さない方が良い。
そう光一と決めて、むしろ話さなくて良いとも言ってある。なるべく英二の邪魔になりたくないと、愛情と意地が秘密を望むから。

…だから昨日と今朝のことも言わないでおこう、今は

昨日と今朝、現れた「あの男」のことも、今は言わない方が良い。
この話こそ最も英二の集中を散らしてしまうだろう、きっと心配をかける。
だから光一にも何も言わなかった、この秘匿の向こうから綺麗な低い声が笑いかけてくれた。

「今日は遭難事故も無くて、静かだったよ。久しぶりに岩崎さんと自主トレしたんだ、光一が用事でいなかったからさ。
あとな、秀介が夏休みの宿題を持って来たよ?周太に会いたいって、って伝言を預ったんだ。自由研究のこと聴きたいらしいよ、」

聴かせてくれる言葉から、懐かしい奥多摩の風景が見えてくる。
きらめく水の流れと静かな森、青い空と紺青色の星空、温かい笑顔。
どれにも会いたい、それに吉村医師に訊きたいこともある、そんな想いに周太は微笑んだ。

「俺も会いたいって伝えてね、休暇の予定が出たら行きたい…ね、英二は訓練の支度は出来た?」
「うん、さっき終わったとこだよ。あと携帯電話、スイスでもメールと電話と両方使えるから。ただ料金が高いんだ、」
「ん、下山の連絡は貰えたら嬉しいな、短い文で良いからね?…あとは帰国してからで、ね?」

これからの話をする電話の向こう、きっと心はアルプスの山を見ているだろう。
そんな想いと話す手許には、2冊の古い本と1冊の新しい本がデスクに置かれている。

Edward Whymper『アルプス登攀記』
Heinrich Harrer『白い蜘蛛』

この2冊は家の書斎から借りてきた、読み古された父の本。
この2冊には、これから英二と光一が向かう山を登頂した記録が綴られている。
ふたりが岩壁を登っていく時、この記録を読んで自分も心を重ねていたい。そんな願いに持ち帰ってきた。

…無事に夢の場所へ立って笑ってね、どうか幸せでいて…ふたり助けあって想いあって、

そっと心に祈りながら話す繋がれた電話の向こうへと、どうか「幸運」を贈りたい。






(to be continued)

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