That after many wanderings
第86話 建巳 act.37 another,side story「陽はまた昇る」
窓明るむ青、薄紅かぐわしい。
ほら花が舞う、すこし開いたガラス通ってしのびこむ。
「お、桜の花びら?」
「…ん、」
友だちの言葉に肯いて、目の前ふわり花が舞う。
つい伸ばした掌ひとひら降りて、廊下のかたすみ立ちどまった。
「ここ、きれいに見えるんだよ。毎年さ、」
朗らかな声が教えてくれる、自分が知らなかった時間のことだ。
まだ去年の春は知らなかった場所で、周太はそっと微笑んだ。
「よかった、毎年ちゃんと咲いてて…」
立ちどまった窓の桜たち、ひとつは古木でひとつは若い。
窓すぐ伸ばされた梢は大らかな繊細ひろやかで、あわい薄紅ふさふさ華やがす。
その隣まだ朱い芽吹きの若木は樹齢30年ほど、花ひらくのは半月より後だろう。
「あのさ、周太?違ったらアレなんだけど…」
隣が口ひらいて、けれど言いよどむ。
なんだろう?珍しい友人の貌ちょっと見て、気づいて笑いかけた。
「もしかして賢弥、この桜を誰が植えたか気づいたの?」
問いかけて、ほら、チタンフレームの底の眼すこし泣きそう?
この聡明な学友なら辿りつくだろうな、納得の隣は口ひらいた。
「きのう周太が言ってくれたろ、僕たちが植えるなら何の木がいいと思う?って。それでさ…田嶋先生もこの桜よく眺めてるな、思って、」
気づいてくれる、この友人は。
『ウチの大学も文科の学生は学徒出陣してるだろ?その桜も文学部の学生だったらしいよ、』
昨日そんなふう賢弥は話してくれた、あの時に自分が言ったこと。
それから恩師の姿も思いだしたのだろう、たどってくれた想いに微笑んだ。
「祖父が植えたから、田嶋先生と父も植えたんだって…僕も昨日、田嶋先生に教えてもらったんだ、」
祖父が植えた染井吉野、父と恩師が植えた山桜。
この桜ふたつに想ってしまう、ずっと昔と、今と、そして昨日のこと。
この隣に今いてくれて、昨日も共にこの桜を見て、こんなふうに父も祖父もその時を生きたろうか?
そして祖母も、この学舎で。
「だからね、賢弥?僕、今、幸せなんだ、」
ほら?想い声になる、だって今日もまた会えた。
この友人と昨日も、そして今日も、この場所で。
「友だちと一緒にね、この桜を見られて幸せなんだ。昨日も、今日も、僕にとっては、」
こんなの当たりまえかもしれない、でも自分には当たり前じゃなかった。
それでも今ここから先は日常になって、いつか、当たりまえに想えたら?
それこそが、幸せなのかもしれない。
「俺も幸せだよ、周太と見られてさ、」
ほら?笑ってくれる、チタンフレームの眼が快活ほころぶ。
こんなふう率直なことは珍しいだろう、だからこそ安堵できる学友に笑いかけた。
「ありがと、賢弥、」
ありがとう、こんな自分を受けとめてくれて?
もう何もかも話して、それでも隣で笑ってくれる。こんなこと多分きっと得難い。
ただ感謝ほころぶ桜の窓辺、朝おだやかな廊下のかたすみ友だちが笑った。
「こっちこそありがと、ってさ?こういうの照れずに言える周太って、やっぱすげえや、」
ぱっと笑う日焼けの頬、かすかに赤らんで明るい。
照れてしまうものなんだ?こんなことも違っている自分また気恥ずかしくて、掌の花びら手帳にしまった。
「…はやくいこ?」
「おう、お待たせしちゃマズイな、」
つぶやいて歩きだして、すぐ隣も歩きだす。
ふたり並んでゆく廊下の風、かすかな甘い渋い香に古書が匂う。
ここも研究室ごと蔵書が多いのだろうな?そんな今の時間が嬉しくて、そして軋む。
『こうやって見つめると周太、前はなんか逃げるみたいな、迷うような眼をしたんだよ。でも今は違うんだな?』
昨日、あの公苑あのベンチ、あのひとが言ったこと。
その通りだと今歩く廊下に分かる、だって今こんなに楽しい。
それだけに軋む、あのひとだけ見つめていた時間が遠くて、愛しくて、遠すぎる。
「ここだよ、周太、」
ほら、呼んでくれる声こんなに明るい。
この場所で生きていく今に肯いて、目の前の扉ひとつ周太はノックした。
「はーい、どうぞ?」
やわらかで明るい声が応えてくれる。
思ったより若い声だな?少し驚いた隣、友だちが扉を開いた。
「おはよーございます丹治先生、おひさしぶりです!」
快活な声が開いた扉、ふわり甘い渋い香くゆる。
なつかしい古書の匂いたち、その向こう銀髪のショートカット振りむいた。
「まあ、手塚君じゃない。ホントおひさしぶりね、今日はどうしたの?」
「はい、田嶋先生のお使いできました、」
笑って友だちが応えながら、背中そっと押してくれる。
そっと呼吸ひとつ、踏み出して周太は頭を下げた。
「田嶋先生のご紹介で参りました、丹治先生のご講義を受けさせて頂きたくてお伺い致しました」
下げた視界、ローファーの爪先が光る。
スラックスの脇そえた手、袖はシャツとニット柔らかい。
こんな服装から今、新しい想いにメゾソプラノやわらかに笑った。
「あらまあ、田嶋君の紹介にしては真面目な学生さんねえ。そんな硬くならないでいいのよ、どうぞ?」
言われるまま背を押されて、研究室の扉をくぐる。
窓辺のデスク勧められて、座った前に湯呑そっと置かれた。
「ミツコ先生って呼んでね、丹治ってナンカ硬いでしょ?さ、お茶ひとくち飲んで寛いで、」
くるり大きな瞳が笑って、目元やわらかな皺が優しい。
親しみやすそうなひとだな?安堵ひとくち茶を啜ると、隣から友達が笑った。
「あいかわらず美味いですね、ミツコ先生のお茶、」
「手塚君もあいかわらず大らかねえ、お友達くんは優しい繊細な雰囲気だけど、お名前なんておっしゃるの?」
大きな瞳が瞬いて、胸に提げた眼鏡をかける。
まっすぐ見つめられるまま迂闊に気がついて、周太は背を正し頭下げた。
「申し遅れて失礼いたしました、今日から田嶋先生の秘書を勤めます、湯原と申します。」
先に用件だけ告げて名乗っていなかった、こんな迂闊が気恥ずかしい。
もう耳もと熱くなる前、眼鏡ごし大きな瞳ゆっくり瞬いた。
「田嶋君のとこで、湯原って…斗貴子さんのお孫さんなの?この大学の学生だった、」
祖母のことを知っている?
問われた言葉ゆっくり瞬いて、周太は肯いた。
「はい、湯原斗貴子は僕の祖母です。仏文の学生でした、」
ありのまま答えて、かたん、目の前の学者が身を乗り出す。
鼈甲フレームやわらかな底、大きな瞳ゆっくり瞬いた。
「まあ…眼がよく似てるわ、黒目が大きくて、澄みきってて…」
真直ぐ見つめてくれる眼、ゆるやかな光にじみだす。
はたり、一滴こぼれた光滴って、老婦人の笑顔ほころんだ。
「うれしいわ…あなたに逢えるなんて。お名前、なんて仰るの?」
うれしい、そう告げて訊いてくれる。
もしかして祖母のこと教えてもらえるだろうか?鼓動ふくらんで口ひらいた。
「湯原周太です、あの、祖母のことご存知なのですか?」
「ええ、大好きなひとだもの、」
即答ふわり、声やわらかに笑ってくれる。
その見つめてくれる大きな瞳、目元やさしい皺がほころんだ。
「憧れで、恩人で、大好きな友だちよ。斗貴子さんがいてくれたから今、私はここにいるの、」
※校正中
(to be continued)
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kenshi―周太24歳4月
第86話 建巳 act.37 another,side story「陽はまた昇る」
窓明るむ青、薄紅かぐわしい。
ほら花が舞う、すこし開いたガラス通ってしのびこむ。
「お、桜の花びら?」
「…ん、」
友だちの言葉に肯いて、目の前ふわり花が舞う。
つい伸ばした掌ひとひら降りて、廊下のかたすみ立ちどまった。
「ここ、きれいに見えるんだよ。毎年さ、」
朗らかな声が教えてくれる、自分が知らなかった時間のことだ。
まだ去年の春は知らなかった場所で、周太はそっと微笑んだ。
「よかった、毎年ちゃんと咲いてて…」
立ちどまった窓の桜たち、ひとつは古木でひとつは若い。
窓すぐ伸ばされた梢は大らかな繊細ひろやかで、あわい薄紅ふさふさ華やがす。
その隣まだ朱い芽吹きの若木は樹齢30年ほど、花ひらくのは半月より後だろう。
「あのさ、周太?違ったらアレなんだけど…」
隣が口ひらいて、けれど言いよどむ。
なんだろう?珍しい友人の貌ちょっと見て、気づいて笑いかけた。
「もしかして賢弥、この桜を誰が植えたか気づいたの?」
問いかけて、ほら、チタンフレームの底の眼すこし泣きそう?
この聡明な学友なら辿りつくだろうな、納得の隣は口ひらいた。
「きのう周太が言ってくれたろ、僕たちが植えるなら何の木がいいと思う?って。それでさ…田嶋先生もこの桜よく眺めてるな、思って、」
気づいてくれる、この友人は。
『ウチの大学も文科の学生は学徒出陣してるだろ?その桜も文学部の学生だったらしいよ、』
昨日そんなふう賢弥は話してくれた、あの時に自分が言ったこと。
それから恩師の姿も思いだしたのだろう、たどってくれた想いに微笑んだ。
「祖父が植えたから、田嶋先生と父も植えたんだって…僕も昨日、田嶋先生に教えてもらったんだ、」
祖父が植えた染井吉野、父と恩師が植えた山桜。
この桜ふたつに想ってしまう、ずっと昔と、今と、そして昨日のこと。
この隣に今いてくれて、昨日も共にこの桜を見て、こんなふうに父も祖父もその時を生きたろうか?
そして祖母も、この学舎で。
「だからね、賢弥?僕、今、幸せなんだ、」
ほら?想い声になる、だって今日もまた会えた。
この友人と昨日も、そして今日も、この場所で。
「友だちと一緒にね、この桜を見られて幸せなんだ。昨日も、今日も、僕にとっては、」
こんなの当たりまえかもしれない、でも自分には当たり前じゃなかった。
それでも今ここから先は日常になって、いつか、当たりまえに想えたら?
それこそが、幸せなのかもしれない。
「俺も幸せだよ、周太と見られてさ、」
ほら?笑ってくれる、チタンフレームの眼が快活ほころぶ。
こんなふう率直なことは珍しいだろう、だからこそ安堵できる学友に笑いかけた。
「ありがと、賢弥、」
ありがとう、こんな自分を受けとめてくれて?
もう何もかも話して、それでも隣で笑ってくれる。こんなこと多分きっと得難い。
ただ感謝ほころぶ桜の窓辺、朝おだやかな廊下のかたすみ友だちが笑った。
「こっちこそありがと、ってさ?こういうの照れずに言える周太って、やっぱすげえや、」
ぱっと笑う日焼けの頬、かすかに赤らんで明るい。
照れてしまうものなんだ?こんなことも違っている自分また気恥ずかしくて、掌の花びら手帳にしまった。
「…はやくいこ?」
「おう、お待たせしちゃマズイな、」
つぶやいて歩きだして、すぐ隣も歩きだす。
ふたり並んでゆく廊下の風、かすかな甘い渋い香に古書が匂う。
ここも研究室ごと蔵書が多いのだろうな?そんな今の時間が嬉しくて、そして軋む。
『こうやって見つめると周太、前はなんか逃げるみたいな、迷うような眼をしたんだよ。でも今は違うんだな?』
昨日、あの公苑あのベンチ、あのひとが言ったこと。
その通りだと今歩く廊下に分かる、だって今こんなに楽しい。
それだけに軋む、あのひとだけ見つめていた時間が遠くて、愛しくて、遠すぎる。
「ここだよ、周太、」
ほら、呼んでくれる声こんなに明るい。
この場所で生きていく今に肯いて、目の前の扉ひとつ周太はノックした。
「はーい、どうぞ?」
やわらかで明るい声が応えてくれる。
思ったより若い声だな?少し驚いた隣、友だちが扉を開いた。
「おはよーございます丹治先生、おひさしぶりです!」
快活な声が開いた扉、ふわり甘い渋い香くゆる。
なつかしい古書の匂いたち、その向こう銀髪のショートカット振りむいた。
「まあ、手塚君じゃない。ホントおひさしぶりね、今日はどうしたの?」
「はい、田嶋先生のお使いできました、」
笑って友だちが応えながら、背中そっと押してくれる。
そっと呼吸ひとつ、踏み出して周太は頭を下げた。
「田嶋先生のご紹介で参りました、丹治先生のご講義を受けさせて頂きたくてお伺い致しました」
下げた視界、ローファーの爪先が光る。
スラックスの脇そえた手、袖はシャツとニット柔らかい。
こんな服装から今、新しい想いにメゾソプラノやわらかに笑った。
「あらまあ、田嶋君の紹介にしては真面目な学生さんねえ。そんな硬くならないでいいのよ、どうぞ?」
言われるまま背を押されて、研究室の扉をくぐる。
窓辺のデスク勧められて、座った前に湯呑そっと置かれた。
「ミツコ先生って呼んでね、丹治ってナンカ硬いでしょ?さ、お茶ひとくち飲んで寛いで、」
くるり大きな瞳が笑って、目元やわらかな皺が優しい。
親しみやすそうなひとだな?安堵ひとくち茶を啜ると、隣から友達が笑った。
「あいかわらず美味いですね、ミツコ先生のお茶、」
「手塚君もあいかわらず大らかねえ、お友達くんは優しい繊細な雰囲気だけど、お名前なんておっしゃるの?」
大きな瞳が瞬いて、胸に提げた眼鏡をかける。
まっすぐ見つめられるまま迂闊に気がついて、周太は背を正し頭下げた。
「申し遅れて失礼いたしました、今日から田嶋先生の秘書を勤めます、湯原と申します。」
先に用件だけ告げて名乗っていなかった、こんな迂闊が気恥ずかしい。
もう耳もと熱くなる前、眼鏡ごし大きな瞳ゆっくり瞬いた。
「田嶋君のとこで、湯原って…斗貴子さんのお孫さんなの?この大学の学生だった、」
祖母のことを知っている?
問われた言葉ゆっくり瞬いて、周太は肯いた。
「はい、湯原斗貴子は僕の祖母です。仏文の学生でした、」
ありのまま答えて、かたん、目の前の学者が身を乗り出す。
鼈甲フレームやわらかな底、大きな瞳ゆっくり瞬いた。
「まあ…眼がよく似てるわ、黒目が大きくて、澄みきってて…」
真直ぐ見つめてくれる眼、ゆるやかな光にじみだす。
はたり、一滴こぼれた光滴って、老婦人の笑顔ほころんだ。
「うれしいわ…あなたに逢えるなんて。お名前、なんて仰るの?」
うれしい、そう告げて訊いてくれる。
もしかして祖母のこと教えてもらえるだろうか?鼓動ふくらんで口ひらいた。
「湯原周太です、あの、祖母のことご存知なのですか?」
「ええ、大好きなひとだもの、」
即答ふわり、声やわらかに笑ってくれる。
その見つめてくれる大きな瞳、目元やさしい皺がほころんだ。
「憧れで、恩人で、大好きな友だちよ。斗貴子さんがいてくれたから今、私はここにいるの、」
※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」より抜粋】
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