本丸南下段曲輪群から南西尾根へ
曲輪3から南虎口を下り
また段曲輪を下ってゆきます。
段曲輪が続き
100mほどの長い段曲輪が中段辺りに伸びています。南側から登って来る敵にこの曲輪で守りきる構でしょうか。
本丸南下の斜面には数えきれないほどの曲輪群が構築されていますが、省略します。100mほどの段曲輪を西先端まで歩くと南西尾根にぶつかります。
岩尾根が南西尾根を断ち切っています。
南西尾根第一曲輪
南西尾根第二曲輪
第三曲輪
第四曲輪
第五曲輪
第六曲輪、この先は断崖です。
岩尾根に戻り
本丸に向かい南西尾根を登ってゆきますが、次回とします。
俯瞰図は「余湖君のお城のページ」より
戦国時代の依田氏②
2万5千の兵を率いた武田信玄は元亀3年(1572年)、信州経由で徳川家康所領の遠江へ攻め込んだ。武田信玄の別働隊は、美濃に侵入し、織田信長方の要衝である岩村城に迫った[32]。別働隊の将であった秋山信友は、城将遠山景任を退けた後、景任の未亡人を妻にした。未亡人は信長の叔母であったため、これを聞いた信長は激昂し、1万の兵を率いて出陣した[33]。うち5千を岩村城奪還のために向かわしたが、将である遠山景行は、7百の寡勢の芦田信守・芦田信蕃親子の前に破れた。芦田親子は景行の首級を上げた[34]。
信守の子・信蕃の代に武田氏が滅亡、当時駿河国の田中城に居た信蕃は城を明け渡し、徳川氏の庇護下に身を寄せる。本能寺の変により信濃の織田勢力が瓦解し、旧武田領が徳川・北条・上杉の争奪地となると(天正壬午の乱)、信蕃は当初は後北条氏に属し、その後徳川氏に属して佐久地方で活躍。当初北条方であった真田昌幸を徳川方に寝返らせる等の功績で、佐久・諏訪の二郡を与えられ小諸城代となる。しかし、佐久で唯一残った北条方の岩村田大井氏が立て篭もる岩尾城攻めで、弟・信幸と共に戦死を遂げる。ウィキペディアより
曲輪3から南虎口を下り
また段曲輪を下ってゆきます。
段曲輪が続き
100mほどの長い段曲輪が中段辺りに伸びています。南側から登って来る敵にこの曲輪で守りきる構でしょうか。
本丸南下の斜面には数えきれないほどの曲輪群が構築されていますが、省略します。100mほどの段曲輪を西先端まで歩くと南西尾根にぶつかります。
岩尾根が南西尾根を断ち切っています。
南西尾根第一曲輪
南西尾根第二曲輪
第三曲輪
第四曲輪
第五曲輪
第六曲輪、この先は断崖です。
岩尾根に戻り
本丸に向かい南西尾根を登ってゆきますが、次回とします。
俯瞰図は「余湖君のお城のページ」より
戦国時代の依田氏②
2万5千の兵を率いた武田信玄は元亀3年(1572年)、信州経由で徳川家康所領の遠江へ攻め込んだ。武田信玄の別働隊は、美濃に侵入し、織田信長方の要衝である岩村城に迫った[32]。別働隊の将であった秋山信友は、城将遠山景任を退けた後、景任の未亡人を妻にした。未亡人は信長の叔母であったため、これを聞いた信長は激昂し、1万の兵を率いて出陣した[33]。うち5千を岩村城奪還のために向かわしたが、将である遠山景行は、7百の寡勢の芦田信守・芦田信蕃親子の前に破れた。芦田親子は景行の首級を上げた[34]。
信守の子・信蕃の代に武田氏が滅亡、当時駿河国の田中城に居た信蕃は城を明け渡し、徳川氏の庇護下に身を寄せる。本能寺の変により信濃の織田勢力が瓦解し、旧武田領が徳川・北条・上杉の争奪地となると(天正壬午の乱)、信蕃は当初は後北条氏に属し、その後徳川氏に属して佐久地方で活躍。当初北条方であった真田昌幸を徳川方に寝返らせる等の功績で、佐久・諏訪の二郡を与えられ小諸城代となる。しかし、佐久で唯一残った北条方の岩村田大井氏が立て篭もる岩尾城攻めで、弟・信幸と共に戦死を遂げる。ウィキペディアより