山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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平尾城④

2018-11-04 20:14:03 | 山城ー信州
東尾根から南斜面の段曲輪群へ


東尾根に立って、曲輪4の城壁を見返しています。

東尾根

南斜面を下り、段曲輪1

段曲輪2

段曲輪3

段曲輪4

曲輪4の南下、土塁のように斜面を仕切っています。竪堀ではありません。

西から土塁を見下ろしています。

竪に構築した土塁を越えて西側に腰曲輪1

土塁に沿って曲輪2

段曲輪3

横堀

次回 本丸南下の段曲輪群から南西尾根へ

戦国期の依田氏①
依田庄から芦田郷に入部した依田右衛門経光の子、備前守光徳から芦田姓を称するようになった[17]。その子右衛門太夫光玄には二子があり、前妻との間の子どもである長子の左衛門太夫孝玄のほか、後妻との間に第二子の義玄がいた。後妻は、わが子義玄の家督相続を企て、孝玄を御嶽堂城に移したうえで、乳母と家臣の布施、小平両氏の手で、文明9年(1477年)に謀殺した[18]。芦田城内における相次ぐ事件を受け[19][注釈 10]。義玄は、孝玄の霊を供養するため、芦田、御嶽堂2つの領内に依田大明神を建立したうえで[20][注釈 11]、剃髪し仏門に入り玄栄済と称した[21]。
義玄が没した天文6年(1537年)に、家督を相続した長子、信守は10歳に満たない幼少の身だった[22]。天文10年(1541年)5月、武田信虎は諏訪頼重とともに小県に入り、海野平に祢津、海野を討ち真田氏を追った[23][注釈 12]>。武田信虎は大軍を率いて佐久郡に侵入し、土豪や武将を降伏させた。諏訪頼重は帰途、芦田城を攻略し、幼少の信守を諏訪に連れ去ったうえで臣従させた[24]。翌年の天文11年(1542年)、諏訪頼重は、信虎を退けた武田晴信によって滅ぼされた。
信守は、天文18年(1549年)、居城を芦田城から春日城に移し、永禄3年(1560年)に武田氏へ正式に臣従した[25]。武田氏は、佐久郡平定後に東北信濃を制圧し、さらに西上野に進出した。武田信玄は、永禄9年(1566年)、北条氏に備えるために、武蔵国堺にある上野国の浄法寺を芦田信守に与え周辺を知行地とした[26]。「武田三代軍記」等[27][注釈 13]が示す通り、下野守信守は、武田氏の有力な信濃先方衆[28][注釈 14]となった。武田氏は、躑躅ヶ崎館の周辺に有力な國人(土豪)を屋敷地を与えて住まわせており[29][注釈 15]、下野守信守も屋敷を構えていた[30][注釈 16]。その他の依田流の武家では、相木(依田)市兵衛も屋敷を与えられていた[31]。ウィキペディアより