平瀬城は多くのサイトで取り上げられて、、登られた方も多いのではないかと思います。平瀬城は従来の本城とされるところから北の頂部のところに遺構があり、さらに南支尾根に、たくさんの曲輪が構築されています。実は「信濃の山城と館4 松本・塩尻・筑摩編」」に宮坂武男氏は俯瞰図に於いて、この北平瀬城を描いております。
宮坂氏がこの俯瞰図を上記の著書に載せているにも拘らず、縄張り図には描いておりません。今回、この俯瞰図を信じて登ったところ事実見つけられました。この平瀬城は本城・北平瀬城・南平瀬城と三つの尾根から成り立っており、大規模な山城であると再認識いたしました。
平瀬城地図
国道19号線で高架をくぐると島内集落となり、高架をくぐって左の道から
登り口となります。
碑の脇には説明板があり、平瀬城跡一口城主会のパンフがあります。一口1000円以上で一口城主に成れるそうです。このお金は平瀬城の整備保存資金となるそうです。
パンフと一緒に縄張り図が入っています。本城縄張り図
南平瀬城縄張り図、そして今回紹介する北平瀬城も新たに加えてもらえるよう一口城主会に働きかけてゆきます。
碑のあったところから15分で、縄張り図にある曲輪1が迎えます。
南に曲輪2
曲輪2の南支尾根に腰曲輪が二段と構えています。
曲輪3
曲輪4
曲輪4を上から見ています。
曲輪5、これらの曲輪は屋敷であったと思います。
次回 本城主郭部へ
平瀬城について
平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。小笠原長時は天文19年(1550年)、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。砥石崩れにより武田氏は村上方に敗れたが、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。天文20年(1552年)平瀬城は武田晴信により落城し、城主の平瀬義兼は自刃した。晴信は平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。天文22年(1553年)、筑摩郡は武田氏がほぼ平定したため、平瀬城は廃城となった。
宮坂氏がこの俯瞰図を上記の著書に載せているにも拘らず、縄張り図には描いておりません。今回、この俯瞰図を信じて登ったところ事実見つけられました。この平瀬城は本城・北平瀬城・南平瀬城と三つの尾根から成り立っており、大規模な山城であると再認識いたしました。
平瀬城地図
国道19号線で高架をくぐると島内集落となり、高架をくぐって左の道から
登り口となります。
碑の脇には説明板があり、平瀬城跡一口城主会のパンフがあります。一口1000円以上で一口城主に成れるそうです。このお金は平瀬城の整備保存資金となるそうです。
パンフと一緒に縄張り図が入っています。本城縄張り図
南平瀬城縄張り図、そして今回紹介する北平瀬城も新たに加えてもらえるよう一口城主会に働きかけてゆきます。
碑のあったところから15分で、縄張り図にある曲輪1が迎えます。
南に曲輪2
曲輪2の南支尾根に腰曲輪が二段と構えています。
曲輪3
曲輪4
曲輪4を上から見ています。
曲輪5、これらの曲輪は屋敷であったと思います。
次回 本城主郭部へ
平瀬城について
平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。小笠原長時は天文19年(1550年)、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。砥石崩れにより武田氏は村上方に敗れたが、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。天文20年(1552年)平瀬城は武田晴信により落城し、城主の平瀬義兼は自刃した。晴信は平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。天文22年(1553年)、筑摩郡は武田氏がほぼ平定したため、平瀬城は廃城となった。
麓にあった、パンフの中に、一口城主の参加には協力させてもらいました。
お年寄りが中心ですので働きかけられても無理があります。地域の実状を鑑みて記事を書いて頂けたらと思います。
それよりお手伝いください。