望月城は長野県佐久市望月にあります。
望月城地図
国道142号線の信号布施から西に600mくらいで県道152号線の望月トンネルに入ります。信号望月を右折し県道166号線を900mほど右折して御桐谷橋を渡って、城光院を目指します。この裏山が城址です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/fa/8abbe30f132395d4920b1390d8ad2d35.jpg)
城光院本門
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/06/30d6c5f5745dd5335089ba15e14b01b0.jpg)
駐車場にある説明版、望月氏の菩提寺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/88/5e4597a3da4f7578c695b3b69e15a4d9.jpg)
本堂
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/05/5840cfa1ca96cf78bbbf6bb74ffc273f.jpg)
寺から東に100mくらいに登り道があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/a4/e4ddc3b53bbf850bc059b1ab59b999be.jpg)
これを登れば
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/67/0f1c536ee8197170899d80671194032e.jpg)
二の丸西側に着きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/3b/d6809a6bfd770b18014460a1eeaed733.jpg)
西から見ています。左手上が本丸です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/b9/46a4ce7bb46262b7e28b8b4100024626.jpg)
望月市街地
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/e5/f7c411848d8c5b4f4efa80531aeb20c8.jpg)
二の丸を南から見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/32/227c0b5a1ce76de4392345f284fe3aab.jpg)
本丸城壁を東から見ています。二の丸は本丸をL字形に囲んでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/c8/8e77862125de55e9ccc60b778b0cf0b4.jpg)
三の丸は畑です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/91/d73e46f00e742f9583c598643d33303e.jpg)
縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編、宮坂氏は本丸を2とし、二の丸を3として番号を振っています。現地では宮坂氏が1としている曲輪を本丸内としていますが、私も宮坂氏の番号通りと思います。
望月氏
鎌倉時代
望月氏の全盛期は、治承4年(1180年)の木曾義仲挙兵に従軍した望月国親・望月重隆父子の時代と考えられ、国親は後に源義仲の従臣として侍大将の一人として仕える。当時の望月氏は佐久郡から隣接する小県郡にも勢力を伸ばしていたとされる。義仲が越後の平家方を迎撃した寿永元年(1182年)9月の横田河原の戦いでは、木曾衆と上州衆(甲斐衆とあるが、甲斐衆は頼朝・北条時政方として黄瀬川に参陣しているため誤記と思われる)と共に佐久衆が中核となったとする記録があり、この佐久衆の中心が古来より日本一の牧とも言われる「望月の牧」で育んだ強力な騎馬軍団を擁する望月氏であったと想定されている。また、義仲の四天王といわれた根井光親も望月氏傍流である。
義仲の没落後は鎌倉幕府の御家人となり、重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれるほどの弓の名手として知られた。文治4年(1188年)、奥州藤原征伐に従い、建久5年(1194年)の安田義定・義資父子の謀反を、幕命により追討している。さらに建保元年(1213年)の和田合戦に際しても和田軍と戦い、重隆の孫・望月盛重は鎌倉若宮大路にて和田義氏の子・次郎太郎義光を討ち、信濃国和田を恩賞として賜っている。幕府滅亡直後の元弘3年(1333年)10月には建武政権の国司清原氏から改めて所領を安堵されている。
室町時代
鎌倉幕府滅亡後の中先代の乱では、望月重信が諏訪氏や海野氏・根津氏と共に北条高時の遺児北条時行を擁して挙兵、足利側の信濃守護小笠原貞宗の攻撃を受け本拠地の望月城(現:佐久市望月町)を失うが、間もなく同城を再建し勢力を維持した。続く南北朝の争いでは一族の多くが南朝にくみして戦った。応永7年(1400年)の大塔合戦では、伴野氏、平賀氏ら佐久郡の国衆とともに参戦し、守護方と戦った。ウィキペディアより
望月城地図
国道142号線の信号布施から西に600mくらいで県道152号線の望月トンネルに入ります。信号望月を右折し県道166号線を900mほど右折して御桐谷橋を渡って、城光院を目指します。この裏山が城址です。
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城光院本門
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駐車場にある説明版、望月氏の菩提寺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/88/5e4597a3da4f7578c695b3b69e15a4d9.jpg)
本堂
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寺から東に100mくらいに登り道があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/a4/e4ddc3b53bbf850bc059b1ab59b999be.jpg)
これを登れば
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二の丸西側に着きます。
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西から見ています。左手上が本丸です。
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望月市街地
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二の丸を南から見ています。
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本丸城壁を東から見ています。二の丸は本丸をL字形に囲んでいます。
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三の丸は畑です。
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縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編、宮坂氏は本丸を2とし、二の丸を3として番号を振っています。現地では宮坂氏が1としている曲輪を本丸内としていますが、私も宮坂氏の番号通りと思います。
望月氏
鎌倉時代
望月氏の全盛期は、治承4年(1180年)の木曾義仲挙兵に従軍した望月国親・望月重隆父子の時代と考えられ、国親は後に源義仲の従臣として侍大将の一人として仕える。当時の望月氏は佐久郡から隣接する小県郡にも勢力を伸ばしていたとされる。義仲が越後の平家方を迎撃した寿永元年(1182年)9月の横田河原の戦いでは、木曾衆と上州衆(甲斐衆とあるが、甲斐衆は頼朝・北条時政方として黄瀬川に参陣しているため誤記と思われる)と共に佐久衆が中核となったとする記録があり、この佐久衆の中心が古来より日本一の牧とも言われる「望月の牧」で育んだ強力な騎馬軍団を擁する望月氏であったと想定されている。また、義仲の四天王といわれた根井光親も望月氏傍流である。
義仲の没落後は鎌倉幕府の御家人となり、重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれるほどの弓の名手として知られた。文治4年(1188年)、奥州藤原征伐に従い、建久5年(1194年)の安田義定・義資父子の謀反を、幕命により追討している。さらに建保元年(1213年)の和田合戦に際しても和田軍と戦い、重隆の孫・望月盛重は鎌倉若宮大路にて和田義氏の子・次郎太郎義光を討ち、信濃国和田を恩賞として賜っている。幕府滅亡直後の元弘3年(1333年)10月には建武政権の国司清原氏から改めて所領を安堵されている。
室町時代
鎌倉幕府滅亡後の中先代の乱では、望月重信が諏訪氏や海野氏・根津氏と共に北条高時の遺児北条時行を擁して挙兵、足利側の信濃守護小笠原貞宗の攻撃を受け本拠地の望月城(現:佐久市望月町)を失うが、間もなく同城を再建し勢力を維持した。続く南北朝の争いでは一族の多くが南朝にくみして戦った。応永7年(1400年)の大塔合戦では、伴野氏、平賀氏ら佐久郡の国衆とともに参戦し、守護方と戦った。ウィキペディアより