山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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和合城②

2018-12-21 20:49:05 | 山城ー信州
本丸へ


二の曲輪から本丸に

本丸、奥に狼煙台

二の曲輪を見下ろしています。

左手、手前の三角山が岩井堂山、出浦城です。

中央の左手側に葛尾城

左手奥、日が当たっている山に孤落城、最高峰に三水城

周辺の山城を眺めることができ、この狼煙台が、いかに要所にあったのかが分かります。

狼煙台西側に残る石垣

次回 虚空蔵山にある高津屋城

村上義清
信虎を追放した武田晴信(武田信玄)の攻勢を受け、天文17年(1548年)、小県南部へ侵攻した武田勢を上田原の戦いで撃退する。この戦いで義清は武田方の初鹿野伝右衛門を討ち取っている。また、村上方の安中一藤太の一槍で倒れた諏訪郡代・板垣信方は上条織部に討ち取られた。この他に武田方は、甘利虎泰・才間河内守などの家臣を失うことになった。
天文19年(1550年)、義清が高梨氏と戦っていて本領を留守にした隙に、晴信が小県の要衝砥石城に侵攻してくる。義清は高梨氏と和睦を結んで急遽反転し、晴信は義清の後詰に戦況不利を判断して退却を開始するが、義清は武田勢を追撃し、大勝をおさめた(砥石崩れ)。この戦いで武田方は足軽大将の横田高松や郡内衆の渡辺雲州を始め、1000名の死傷者を出したという。村上方の死者は193名ほどであったといわれる。
海野平合戦により上野に亡命していた真田幸綱は晴信への家督交代後に武田家に仕官し、幸綱は村上勢の武将切り崩し、調略を行う。その結果、天文20年(1551年)には幸綱により砥石城は攻略される。砥石城の足軽大将・矢沢薩摩守(幸綱の弟)が幸隆に内通していたためであった。これにより義清の影響力は一気に低下し、天文21年(1552年)の常田の戦いで勝利を収めるも、家臣団の動揺は抑え難く、天文22年(1553年)、武田氏に通じていた土豪・大須賀久兵衛尉が謀反し、また室賀氏、屋代氏、石川氏など村上方の諸将が武田氏に降伏したため、義清は4月9日葛尾城を一時脱出。再度体勢を整え、4月22日には奪還に成功している。武田晴信は深志城に後退し、5月11日には甲府に引き上げた。
しかし晴信は7月25日に大軍を率いて甲府を出発、8月に義清は窮地に追い詰められた。抗戦能力の無くなった義清は長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に落ち延びていった。北信濃の独立勢力であった村上氏の没落により、武田家の勢力が越後長尾氏と関係の深い善光寺平にまで及んだことが、この後に続く川中島の戦いへの導火線となった。
その後、義清は根知城主となり、嫡男の国清とともに上杉家臣となる。国清は謙信の養子に迎えられて山浦姓を名乗り、上杉家第2位の地位を与えられている。永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおいて、義清は信玄と名前を変えた晴信と再びまみえ、信玄の弟・武田信繁を討ち取ったとされる。[要出典]
元亀4年(1573年)1月1日、越後根知城にて病死。享年73。仇敵・信玄の死の5ヶ月前であった。日滝寺に葬られたというが、その墓所については根小屋地内の安福寺とも言われ、魚沼郡赤沢の説もある。坂城町田町の出浦家墓所中には後年(天正4年、慶長4年、没後百年など数説あり)分骨されたという墓所が残る。
天正10年(1582年)に武田勝頼が自害し、甲斐武田氏は滅亡する。義清の嫡男・国清は8月5日に海津城代に任命され、村上氏は旧領に復帰した。 ウィキペデアより



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