私は多趣味な方で、今回は将棋のイベントを紹介します。
お知らせ
臨江閣が対局場です。
〇11月4日(土)・5日(日) 第30期竜王戦七番勝負 第3局前橋対局が開催されます。挑戦者は羽生善治二冠・第29期竜王 渡辺明
臨江閣 前橋市大手町3-15-3 TEL 027-280-6511 費用その他を問い合わせてください。
臨江閣とは
臨江閣は近代和風の木造建築で、全体は本館・別館・茶室から成り、本館と茶室は県指定、別館は市指定の重要文化財となっています。
本館は明治17年9月、当時の群馬県令・楫取素彦(かとり もとひこ)や市内の有志らの協力と募金により迎賓館として建てられました。また茶室はわびに徹した草庵茶室で、京都の宮大工今井源兵衛によって明治17年11月に完成しました。
別館は明治43年一府十四県連合共進会の貴賓館として建てられた書院風建築です。
臨江閣地図
心念堂の砦
本丸から北尾根を下ります。
ここが砦であることを証明するため、細かく写真を紹介してゆき、これを文化財課に見てもらい、新たに縄張り図に加えてもらえるようお願いします。北曲輪と土塁
北曲輪の北虎口
北虎口の北下の土橋
細尾根がつづき城域、東斜面に畝状阻塞
本丸に戻って
尾根を下ると、土塁に囲まれた曲輪(本丸南下曲輪)であると発見しました。登ってきたときは分かりませんでした。
南下曲輪から西斜面に大きな竪堀
心念堂の砦、第二曲輪
前回記事と同じ、第一曲輪
分岐に向かうため戻ってきています。前回記事の土橋を下から見上げると景色が全く異なります。
第二土橋
北西尾根の虎口
尾根を戻って来て
第一土橋
この分岐に戻り、鉄塔へ向かいます。(南西尾根)
北西尾根から心念堂の砦、また南西尾根に歩かれた方は少ないと思います。秋も深まって登城してみてはいかがでしょうか。
備中三村氏と信濃三村氏
備中三村氏
発祥期~備中西遷
もともとは常陸国筑波郡三村郷の開発領主もしくはその縁者と思われ、鎌倉幕府の一御家人に過ぎなかった[3]。『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)に将軍藤原頼経上洛に隋兵した三村親泰や、建長5年(1253年)の椀飯行事で「四の御馬」を曳いた三村時親など、「親」を通し字とする数名の三村氏が既に確認できる。
伝承によれば、小笠原長経三男の長時(「長持」とする小笠原系図も一部にあるが、写本時の誤記であろう)が筑波郡三村郷に移り、その子・親時の頃より三村氏を称したという(とはいえ、三村氏を称した時期については諸説ある)。
三村郷には長時の叔父にあたる小田五郎清家がいたとされ、その関係で長時は三村郷に縁が出来たのではないかとも言われる。
三村郷を苗字発祥の地とする長時の子孫は、承久の乱後に信濃国筑摩郡洗馬郷(せばごう、せまごう)の地頭(いわゆる新補地頭)になったとされる(信濃三村氏)。この係累は後庁氏など分流を派生しつつ、以後小笠原氏家臣・武田氏家臣として、信濃を中心に一定の活躍をみた。
その信濃三村氏の一流が鎌倉時代後期までに備中星田郷の地頭(新補地頭)となって当地に移住したことにより、備中三村氏の歴史が始まる。weblio辞典より
お知らせ
臨江閣が対局場です。
〇11月4日(土)・5日(日) 第30期竜王戦七番勝負 第3局前橋対局が開催されます。挑戦者は羽生善治二冠・第29期竜王 渡辺明
臨江閣 前橋市大手町3-15-3 TEL 027-280-6511 費用その他を問い合わせてください。
臨江閣とは
臨江閣は近代和風の木造建築で、全体は本館・別館・茶室から成り、本館と茶室は県指定、別館は市指定の重要文化財となっています。
本館は明治17年9月、当時の群馬県令・楫取素彦(かとり もとひこ)や市内の有志らの協力と募金により迎賓館として建てられました。また茶室はわびに徹した草庵茶室で、京都の宮大工今井源兵衛によって明治17年11月に完成しました。
別館は明治43年一府十四県連合共進会の貴賓館として建てられた書院風建築です。
臨江閣地図
心念堂の砦
本丸から北尾根を下ります。
ここが砦であることを証明するため、細かく写真を紹介してゆき、これを文化財課に見てもらい、新たに縄張り図に加えてもらえるようお願いします。北曲輪と土塁
北曲輪の北虎口
北虎口の北下の土橋
細尾根がつづき城域、東斜面に畝状阻塞
本丸に戻って
尾根を下ると、土塁に囲まれた曲輪(本丸南下曲輪)であると発見しました。登ってきたときは分かりませんでした。
南下曲輪から西斜面に大きな竪堀
心念堂の砦、第二曲輪
前回記事と同じ、第一曲輪
分岐に向かうため戻ってきています。前回記事の土橋を下から見上げると景色が全く異なります。
第二土橋
北西尾根の虎口
尾根を戻って来て
第一土橋
この分岐に戻り、鉄塔へ向かいます。(南西尾根)
北西尾根から心念堂の砦、また南西尾根に歩かれた方は少ないと思います。秋も深まって登城してみてはいかがでしょうか。
備中三村氏と信濃三村氏
備中三村氏
発祥期~備中西遷
もともとは常陸国筑波郡三村郷の開発領主もしくはその縁者と思われ、鎌倉幕府の一御家人に過ぎなかった[3]。『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)に将軍藤原頼経上洛に隋兵した三村親泰や、建長5年(1253年)の椀飯行事で「四の御馬」を曳いた三村時親など、「親」を通し字とする数名の三村氏が既に確認できる。
伝承によれば、小笠原長経三男の長時(「長持」とする小笠原系図も一部にあるが、写本時の誤記であろう)が筑波郡三村郷に移り、その子・親時の頃より三村氏を称したという(とはいえ、三村氏を称した時期については諸説ある)。
三村郷には長時の叔父にあたる小田五郎清家がいたとされ、その関係で長時は三村郷に縁が出来たのではないかとも言われる。
三村郷を苗字発祥の地とする長時の子孫は、承久の乱後に信濃国筑摩郡洗馬郷(せばごう、せまごう)の地頭(いわゆる新補地頭)になったとされる(信濃三村氏)。この係累は後庁氏など分流を派生しつつ、以後小笠原氏家臣・武田氏家臣として、信濃を中心に一定の活躍をみた。
その信濃三村氏の一流が鎌倉時代後期までに備中星田郷の地頭(新補地頭)となって当地に移住したことにより、備中三村氏の歴史が始まる。weblio辞典より