本丸から南尾根へ
本丸を北から見て、南尾根に進みます。
本丸を南から見ています。奥の土塁と虎口は二の丸へ通じています。
本丸南にある瘤
瘤には虚空蔵菩薩が祭られています。
全体ではなくて、下方に半月状の腰曲輪が見えます。
堀切ウ、土橋
細い尾根が20mほど南に伸びて
尾根は広がり浅い堀切が確認できます。
さらに南尾根を下って堀切イ
平地があり、曲輪5とします。
曲輪5の先に土橋と堀切ア
縄張り図を再度掲載します。北は右手
東筑摩郡誌には「寛元の頃(1243から46)服部伊賀守の次男大倉佐渡守の築くところ也、また一説に村上氏がこれを築き属将に守らしめたる塁柵なり。」と記述されていますが、この遺構は宮坂氏の指摘通り、戦国期の遺構であり、村上氏の築城と考えたほうが正しいと思います。
次回 長野県の戸隠栃原まで出かけて三つの山城を攻略してきました。以後お楽しみに
本丸を北から見て、南尾根に進みます。
本丸を南から見ています。奥の土塁と虎口は二の丸へ通じています。
本丸南にある瘤
瘤には虚空蔵菩薩が祭られています。
全体ではなくて、下方に半月状の腰曲輪が見えます。
堀切ウ、土橋
細い尾根が20mほど南に伸びて
尾根は広がり浅い堀切が確認できます。
さらに南尾根を下って堀切イ
平地があり、曲輪5とします。
曲輪5の先に土橋と堀切ア
縄張り図を再度掲載します。北は右手
東筑摩郡誌には「寛元の頃(1243から46)服部伊賀守の次男大倉佐渡守の築くところ也、また一説に村上氏がこれを築き属将に守らしめたる塁柵なり。」と記述されていますが、この遺構は宮坂氏の指摘通り、戦国期の遺構であり、村上氏の築城と考えたほうが正しいと思います。
次回 長野県の戸隠栃原まで出かけて三つの山城を攻略してきました。以後お楽しみに