曲輪3から東尾根へ
曲輪3から空堀越しに曲輪4を見下ろしています。
曲輪4に立って、曲輪3側を見ています。
曲輪A
曲輪Aからは土橋が50mくらい東に下っています。
土橋の南下に曲輪6
土橋の東下に大きな平地
平地は縄張り図には描かれていません。(縄張り図は「余湖くんのホームページ」より)
真下氏館
蛭川氏館より北西に約1kmに真下氏館の推定地はある。
最初に児玉党にゆかりの深い「金佐奈(金鑽)神社」を訪れる。しかし、境内は比較的狭くここを館跡と見る事はかなわない。その東隣の集落を歩く、すると明確な遺構ではないが古木がある方形型に生えているのが印象的で、南の小水路も不自然に迂回して流れている。また南から伸びてきた道が集落を西側に迂回する形でカーブしているが、その旧道がその集落の中心地を貫通して走っている。
これらを見ても当地が新しくても江戸期には名主屋敷として機能していた可能性を示しているように思える。
近くの龍泉寺の解説板には興味深い内容が記されていた。当寺が真下氏開祖である真下太郎基行(五郎大夫基行)の隠寮であったが、昭和十八年に児玉飛行場設置の際に境内が軍命に接して移設したと書かれる。
これから考えると遺構は残されていてもその飛行場設置時に喪失した可能性も高い。またこれは飛行場設置以前の地図を元に所在地の再確認をする必要がでてきた。 「赤服の日記帳」さんのサイトより
次回 信州 須坂市 大岩城
曲輪3から空堀越しに曲輪4を見下ろしています。
曲輪4に立って、曲輪3側を見ています。
曲輪A
曲輪Aからは土橋が50mくらい東に下っています。
土橋の南下に曲輪6
土橋の東下に大きな平地
平地は縄張り図には描かれていません。(縄張り図は「余湖くんのホームページ」より)
真下氏館
蛭川氏館より北西に約1kmに真下氏館の推定地はある。
最初に児玉党にゆかりの深い「金佐奈(金鑽)神社」を訪れる。しかし、境内は比較的狭くここを館跡と見る事はかなわない。その東隣の集落を歩く、すると明確な遺構ではないが古木がある方形型に生えているのが印象的で、南の小水路も不自然に迂回して流れている。また南から伸びてきた道が集落を西側に迂回する形でカーブしているが、その旧道がその集落の中心地を貫通して走っている。
これらを見ても当地が新しくても江戸期には名主屋敷として機能していた可能性を示しているように思える。
近くの龍泉寺の解説板には興味深い内容が記されていた。当寺が真下氏開祖である真下太郎基行(五郎大夫基行)の隠寮であったが、昭和十八年に児玉飛行場設置の際に境内が軍命に接して移設したと書かれる。
これから考えると遺構は残されていてもその飛行場設置時に喪失した可能性も高い。またこれは飛行場設置以前の地図を元に所在地の再確認をする必要がでてきた。 「赤服の日記帳」さんのサイトより
次回 信州 須坂市 大岩城