山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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土屋山城守高久伝説④(武田信勝の子孫)

2015-08-12 22:52:07 | 氏族の追跡
勝頼の嫡子、信勝が生き延びて、上州南牧村羽根沢の地で33年もの生涯を送っていたと市川家の古文書は語っています。その子信義の墓石(下仁田町安養山清泉寺)には、法休院花月蓮勝居士と記され、明暦元歳乙末八月一日と明確に記されている。この信義は、この墓地の入り口に(大桑原村)立派な観音堂を建立し、臨済宗黒滝派開祖の潮音道海禅師法嗣に、黒滝山不動寺より勧請していただいた。
 そして信義、その子信真、孫の信賢の代までは、法籍に身を置いて、専ら信勝をはじめ勝頼・晴信・信虎の後生を供養した。そのために、この観音堂に、黒滝山の僧侶に住んでもらっている。(黒滝山不動寺、大桑原村の観音堂を近日、訪問する予定です。)即ち、黒滝山三十五世の宝運元樹和尚、柏庭元宝和尚、夢大使と三代の僧の墓石が、この墓地に今も残されている。
 特に信賢は、師僧並びに先祖の大供養を行っている。即ち、師の元樹和尚の三年忌・祖父信義の五十七年・信勝の九十五年・勝頼の百二十七年・信玄の百三十七年・その他天目山義士高遠城戦死者の冥福のためにと、大年回を催した。時に宝永六年巳丑十月(1709)であった。
 このように、羽根沢村市川家の分家の如く装って、大桑原に居を構えて以来、偏に仏門に帰依し、世を忍びつつ八幡宮観音堂に冥福を祈り、優愁な日に、月に、年に代を送ったのである。

大桑原村の八幡宮も現存しています
八幡様の前と、番匠免より青倉方面への出口のところに下馬石というのがあった。この石は、市川家(武田)の屋敷前を通るときには、諸人馬を下り、必ず徒歩にて通行したもので、その区間を示すものであった。それは主に市川五郎兵衛真親一家が行ったようである。この人は市川四郎兵衛貞吉の子孫で、武田家に主従の恩義があったからだという。この五郎兵衛真親は、素槍を持って歩いていたが、この市川家の前を通るときには、必ず、この槍を倒して逆にしたそうである。即ち、主家武田(信勝・信義)に対する礼を示したものと言える。しかし、この下馬石も明治四十二年の新道改修の際、埋められてしまったそうである。「下仁田町史」より

羽根沢の旧小学校、元は羽根沢城跡地は現在資料館となっていますが、そこで管理人さんから市川家系図の資料をいただけます。この市川家系図を次回紹介します。