山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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真田丸攻略、彦根藩の戦い・直虎ゆかりの井伊谷城

2016-11-18 22:41:33 | 歴史資料
徳川家と豊臣家が戦った慶長19(1614)年の大坂冬の陣で、豊臣方の真田信繁(幸村)がこもった「真田丸」の攻略に参加した彦根藩の激戦の様子が分かる史料が、彦根城博物館(彦根市金亀町)で初公開される。他藩との先陣争いを制しようと果敢に攻めたものの撃退され、先鋒(せんぽう)隊を指揮した武将も負傷するなど彦根藩にとって厳しい戦いだったことがうかがえるという。
 史料は、負傷した彦根藩の武将、木俣守安をかつての同僚がねぎらった書状「庵原三郎右衛門書状」と、木俣の子孫がまとめたとされる「井伊氏家伝書」。同市教委が木俣の子孫から入手していた。
 「井伊氏家伝書」は、彦根藩が福井藩と先陣を争い、真田丸の空堀まで進んだが反撃を受けて退却、100人強の死傷者を出し、木俣自身も負傷したと記している。同博物館によると、木俣は命令を受ける前に出撃する「勇み足」だったが、勇猛な先鋒隊としての面目を保ったとして幕府からたたえられたという。
 また「庵原三郎右衛門書状」は、木俣と彦根藩の同僚だった庵原三郎右衛門が書き送った。日付は木俣の負傷から約1カ月後の慶長20年1月5日。「(真田丸の堀まで突き進んだ)手柄は将軍(徳川秀忠)もお喜びで、みんなもほめている。傷を治して復帰を」などと励ましている。
 同博物館学芸史料課の渡辺恒一課長は「真田丸での彦根藩の戦いが分かる貴重な史料。敗れたが、将軍から評価され喜んでいたことが分かる」と話している。
 書状と井伊氏家伝書は、同博物館で開催中の「井伊家と大阪の陣」で12月1日から公開される。


井伊直虎
直虎ゆかり「井伊谷城」構造判明 3次元地形図公表
(2016/10/27 07:42)
井伊谷城の地形を捉えた地図。南側の土塁や北側の岩盤が分かる(浜松市提供)
井伊谷城のある城山(手前)全体を南東側から捉えた3次元地形図(浜松市提供)
 浜松市は26日、平安時代から戦国時代に北区引佐町周辺を治めた井伊氏の居城とされる市指定史跡「井伊谷城」の測量調査を基に作成した3次元地形図を公表した。南側に方形の土塁が組まれ、北側は自然の地形と一体化した独特の構造が判明。南北朝時代の14世紀中頃から戦国時代初期の16世紀中頃までに見られる原初的な詰城であることが分かった。
 市文化財課によると、井伊谷城は城山(115メートル)山頂を切り開いた横幅65メートル、縦長57メートルの小規模な単郭式城館。南側には幅2・5メートル、高さ2メートルの土塁が、出入り口(大手口)に向かう敵を側方から攻撃する「横矢掛け」で築かれ、北側は岩盤に囲まれていた。北東に位置する三岳城と異なり、堀などの無い簡素な構造だった。
 麓の居館のある南東を向いた大手口や土塁は、城と居館の密接な関係を裏付けていて、普段は麓で暮らし、井伊谷城と行き来していたとみられるという。市文化財課の担当者は「古い形をとどめた城で、詰城と居館が対になっていることが明確になった。直虎の時代も機能していたはず」と話した。
 初の測量は来年放映の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で関心が高まる井伊谷城の姿を明らかにするのが目的。上空からの3次元レーザー測量で地形データを計測し3次元地形図などを作成した。
 市は来年1月に旧引佐協働センターに開設する地域遺産センターで3次元地形図や模型を公開する。今月29日には現地見学会を開き一般向けに解説する。見学会の問い合わせは市埋蔵文化財調査事務所<電053(542)3660>へ。

真田丸

2016-11-18 22:33:06 | 歴史資料
真田丸の新しい史料が発見され話題になっています。つい最近NHKの「ぶらタモリ」で紹介され、実際大阪の街を歩き、この新発見の絵図の通りに歩き検証していました。



[PR] 1614年の大坂冬の陣で豊臣方の武将・真田信繁(幸村)が築き、徳川方に大打撃を与えた大坂城の出丸「真田丸」。タイトルになったNHK大河ドラマがクライマックスを迎える中、その真田丸を描いた新たな絵図が相次いで発見され、大阪市と松江市でそれぞれ11月6日まで公開されている。
• 特集:真田太平記
 大阪歴史博物館(大阪市中央区)での特別展「真田丸」で初公開されたのは、冬の陣で真田丸を南から攻めた加賀藩主・前田家の文書から見つかった「大坂御陣真田丸之図」。大坂城下の南端を区画する堀「惣構(そうがまえ)」に面した門と土橋でつながった半円形の曲輪(くるわ)として描かれている。周りを囲む空堀の中に柵を設け、堀の周囲に「ヒシ(まきびし)」をまいて防御を固めた様子が細かく描写されているほか、真田丸と前田軍の陣地との距離が「百八十足」だったことも記されている。
 特別展の準備のために前田家の文書目録を調べていた同館の学芸員が、真田丸の絵図があるのを見つけて文書を管理する前田育徳会に問い合わせたところ、それとは別のこれまで知られていなかった絵図が見つかったという。豊臣期の大坂城を研究している松尾信裕・研究主幹は「真田丸と前田軍の距離を実測するなど、冬の陣の講和から真田丸が破壊されるまでの間に前田家の人間が調査した記録が元になっているとみられ、信頼性はかなり高い」と話す。
 一方、全く異なる真田丸の姿を描いた絵図が今年7月、松江歴史館(松江市)が所蔵する「極秘諸国城図」の中に新たに見つかったと発表された。その絵図「大坂 真田丸」は、同館で開催中の特別展「松江藩主 松平直政の生涯」で展示されている。
 今まで知られている真田丸の絵図は、大多数が前田家の「真田丸之図」のように半円形に描かれるが、松江の絵図では四角に近い。四角い真田丸は広島藩主・浅野家に伝わった「諸国古城之図」の「摂津真田丸」が知られるが、松江の絵図には広島のものでは省略されている小さな曲輪がみられるなど、細部がより丁寧に描かれている。
 注目されるのは、真田丸を半円形に描く絵図では大坂城と橋でつながっているのに対し、冬の陣から数十年後の真田丸を描いたとみられる松江の絵図では、大坂城との間に田畑になった広大な惣構堀跡が描かれ、真田丸が半ば独立しているように見える点だ。
 「極秘諸国城図」の包み紙には「元禄(1688~1704)」の元号があり、1690年ごろに作成されたとみられる。城郭の考古学が専門の千田嘉博・奈良大教授は「破壊された数十年後とはいえ、実際に現地を歩いて写実的に描かれている。真田丸が大坂城から独立した攻撃的な出城だったことを示す資料だ」と指摘している。
 大阪歴史博物館(06・6946・5728)の「真田丸」展では、真田信繁が討ち取られたときに持っていたとされる采配など、大坂の陣を巡る資料を多数展示。一般1300円など。松江歴史館(0852・32・1607)の「松江藩主 松平直政の生涯」展は、真田丸攻めで初陣を飾り、藩主として松江藩の基礎を作った松平直正ゆかりの資料を紹介。一般500円など。(編集委員・今井邦彦)


武田氏の西上州への侵攻(下仁田町史)⑧

2016-11-12 20:55:44 | 歴史資料
関東幕注文と高田小次郎
「関東八州古戦録」では上杉景虎は永禄二年に、近衛前久公とともに下られた。同二年十月中旬に平井城へ入るが、城の不備から桐生城へ移るとある。小田原の攻撃が永禄三年と四年とされ、景虎の呼びかけに応じた人々の陣幕の一覧に「関東幕注文」があるが、この幕注文の成立を永禄三年から四年と推定される。その中の上州諸将を「衆」という軍事集団単位で分類している。白井衆、惣社衆、箕輪衆、厩橋衆、沼田衆、岩下衆、足利衆、桐生衆の集団があり、高田小次郎は箕輪衆の中に入れられている。
 高田小次郎は憲頼、繁頼、信頼の三名とも小次郎と称している。「関東幕注文」に入っているのは高田大膳亮憲頼でなく、既に天文十六年の志賀城陥落の時か、その後に戦死しているからである。当然その子の高田大和守繁頼の時代であるり、上杉景虎に与した者であろう。武田信玄に降ったのが、永禄四年十一月十八日であるから、永禄三年頃にはいない。またその弟の高田兵庫介信頼は武田勝頼に従うとあるからこの人でもない。
 高田系譜
源頼政ー頼兼ー頼茂ー高園(僧)-盛員(もりかず)
源頼政は、清和源氏の中の一つの系統である多田源氏と言われている。清和天皇ー貞純親王ー源経基の子満仲は、摂津守の任が終わって摂津国河辺郡多田村に土着し、その長子頼光も摂津守として家を継ぎ、摂津源氏または多田源氏を称えた。その子孫は代々この地に居住して多田氏を称したと言われている。源頼政は、兵士追討の事が漏れて宇治平等院に遁れたが、治承四年(1180)五月二十六日、三人の子と共に奮戦自刃した。頼政の孫光国が美濃国土岐郡に住し、光国の子光信の代から土岐氏を称した。土岐氏は美濃国の守護職であり、後裔には斎藤道三に滅ぼされた土岐頼芸がいる。
 源頼政の四男頼兼の孫、武者所高田太郎盛員は美濃国から甘楽郡一宮野庄に下向し、後に妙義菅根庄の地に移り、この地を領有するようになり後裔に高田小次郎が出た。菅根庄の名は天歴四年(950)二月天沼の里、菅根の庄を菅原村と名付ける。盛員は美濃国から一宮野庄を経て、甘楽郡菅野庄高田の郷に移ってから、この地の高田を家号として高田を名乗ったと思われる。

富岡市高田地図 

武田氏の西上州への侵攻(下仁田町史)⑦

2016-11-07 19:18:35 | 歴史資料
武田起請文と高田小次郎

箕輪の長野業盛(業政の嫡男)の城が落城したのは、永禄九年九月二十九日であり、信玄は西上州一帯を攻略し、武田の勢力圏に入れられた。幕下将士の武田起請文を信州の生島足島神社に捧げさせ忠誠を誓わせ、精神的結束を固めて、甲斐・信濃・西上州の一体化を図ったものである。著名には花押に添えて血判を押したものであり、信州小県の生島足島神社に奉納された。

生島足島神社地図
訪れたところ、武田起請文専用の建物があり、起請文がずらりと掲載されています。

これは武田家臣全部から徴収されたものでなく、永禄九年、十年(1567)頃信州小県方面に結集した武士に限られたものであろうと言われている。その中には甲州系諸将の多くの名が見られない。この起請文中には、高田大和守繁頼の名があり、この時には武田信玄に与していたことがわかる。
 信玄の箕輪攻略の時には、二万五千ないし一万五千の兵力で箕輪城攻撃に加わったが、これに対して箕輪勢は三千に過ぎなかったという。甲州勢は余地峠を越え、小幡勢・高田勢・丹生勢を併せ、箕輪攻略に向かったとあることから高田繁頼は当然に永禄八年頃にはすでに甲州勢に与していたのである。
 高田小次郎大和守繁頼は、小次郎大膳亮憲頼の子であり、天文十六年(1547)八月の志賀城の落城の時、或は信玄の高田領土攻撃の時も無事に切り抜けることができたばかりでなく、その後も長く武田信玄に敵対行動を続けていたが、ついに永禄四年(1561)十一月に西牧・高田・菅原の領主繁頼は信玄に降伏した。
 「加沢記」に「三年(永禄)春の条に収む、翌年(永禄四年)十一月、西上州へ出張の節、鎌原へ御書有、調略故、其許時宣可然様に候哉、本望候、此の表追日任存分候、就中昨日高田降参、今日は休馬、明日向干国峰可及行候。近日分人数、その筋へ可遣候条、弥相(いよいよ)調候様、無油断計策専一候、恐々謹言  永禄四年十一月十九日 信玄判」

この中によると高田の降参は永禄四年十一月十九日以前のことであろう。永禄四年十一月二日上州進出を図った武田信玄が松原明神に治めた祈願文には、西牧・高田・諏訪(松井田城)の三城を二十日ほどで落城することを祈願して出陣したとある。この時、信玄は内山峠を越え西牧城にて小幡憲重・信実父子と上州攻略について相談し、小幡信実に作戦を開始させた。「加沢記」にある十一月十九日の武田信玄の書状によると、前日の十八日に高田氏は降伏し、二十日には国峰城に向かい、小幡図書之助景定を追って国峰を奪還したとある。

松原明神地図
松原諏訪神社は松原湖北に下社、南に上社があります。ちなみに下社の裏山に松原城があります。

武田氏の西上州への侵攻(下仁田町史)⑥

2016-11-02 20:56:07 | 歴史資料
志賀城の戦い
小田井原、碓氷峠の合戦に大勝した武田勢は、討取った首三千を、志賀城の前面にさらして、城兵に示したので、上杉勢主力の惨敗を知り孤立無援に陥った城兵は志気阻喪し、戦意を失い脱走する者も多かったものと思われる。また武田勢も、首を城外にさらして降伏を迫ったが。笠原、高田両将は聞き入れようとしなかったため、怒った晴信は徹底攻撃を命じる。
 勝ちに乗じた武田方は強攻また強攻、十日正午から総攻撃を開始し、南麓にある曲輪を攻め落とし、その夜半十二時から午前二時の間に、夜襲を仕掛けて頂上の二の丸を奪取し、十一日の正午には遂に本丸を占領する。佐久の豪族依田の主従、高田憲頼父子、笠原清繁父子、その家老平六左衛門尉兄弟八人と以下三百の城兵を討取ったとある。
 「妙法寺記」は次のように伝えている。志賀城主笠原清繁は城外で戦死しており(志賀城の南にある田んぼにお墓が今でも存在しています。上州の高田憲頼父子、依田一族、笠原城の将兵の大半は戦死した。捕えられた笠原夫人は笠原一族の女・子供百人余りは競売にされ、美人の笠原夫人は郡内領主の小山田信有が二十貫で買い求めて、甲斐の岩殿城の駒場の館に伴い寵愛した。親類縁者など身寄りのないものは黒川金山に送られ、遊女や下男下女にされ、奴隷のように扱われたとある。反抗者の見せしめとして残酷無残にも報復が加えられたが、その冷酷な仕打ちに対し、佐久の人々に深い遺恨を残すことになる。
 天文十六年八月十一日志賀城は遂に陥落したが、続いて武田勢は内山峠を越えて上州へ侵入し、下仁田の西牧・小坂の属城を蹂躙した。また和田記には「天文十八年八月十八日巳の刻、武田信玄は急に甲府を発ち、当寺降参した上州の先手を案内人として兵を進め、甘楽郡南牧を押し通り、同郡八木連まで焼き払う。」とあり、志賀城を落としてから、その余勢をかって高田の本拠に進撃したのである。下仁田の小坂小学校のある字春日田に春日田城址があり、別に匿久保の城とも呼ばれているが、高田小次郎憲頼は志賀城を脱出して属城であるこの城で敗死されたとも伝えられている。真偽は不明である。

下仁田 小坂周辺地図
小坂小を地図では小坂社会体育館としています。