徳川家と豊臣家が戦った慶長19(1614)年の大坂冬の陣で、豊臣方の真田信繁(幸村)がこもった「真田丸」の攻略に参加した彦根藩の激戦の様子が分かる史料が、彦根城博物館(彦根市金亀町)で初公開される。他藩との先陣争いを制しようと果敢に攻めたものの撃退され、先鋒(せんぽう)隊を指揮した武将も負傷するなど彦根藩にとって厳しい戦いだったことがうかがえるという。
史料は、負傷した彦根藩の武将、木俣守安をかつての同僚がねぎらった書状「庵原三郎右衛門書状」と、木俣の子孫がまとめたとされる「井伊氏家伝書」。同市教委が木俣の子孫から入手していた。
「井伊氏家伝書」は、彦根藩が福井藩と先陣を争い、真田丸の空堀まで進んだが反撃を受けて退却、100人強の死傷者を出し、木俣自身も負傷したと記している。同博物館によると、木俣は命令を受ける前に出撃する「勇み足」だったが、勇猛な先鋒隊としての面目を保ったとして幕府からたたえられたという。
また「庵原三郎右衛門書状」は、木俣と彦根藩の同僚だった庵原三郎右衛門が書き送った。日付は木俣の負傷から約1カ月後の慶長20年1月5日。「(真田丸の堀まで突き進んだ)手柄は将軍(徳川秀忠)もお喜びで、みんなもほめている。傷を治して復帰を」などと励ましている。
同博物館学芸史料課の渡辺恒一課長は「真田丸での彦根藩の戦いが分かる貴重な史料。敗れたが、将軍から評価され喜んでいたことが分かる」と話している。
書状と井伊氏家伝書は、同博物館で開催中の「井伊家と大阪の陣」で12月1日から公開される。
井伊直虎
直虎ゆかり「井伊谷城」構造判明 3次元地形図公表
(2016/10/27 07:42)
井伊谷城の地形を捉えた地図。南側の土塁や北側の岩盤が分かる(浜松市提供)
井伊谷城のある城山(手前)全体を南東側から捉えた3次元地形図(浜松市提供)
浜松市は26日、平安時代から戦国時代に北区引佐町周辺を治めた井伊氏の居城とされる市指定史跡「井伊谷城」の測量調査を基に作成した3次元地形図を公表した。南側に方形の土塁が組まれ、北側は自然の地形と一体化した独特の構造が判明。南北朝時代の14世紀中頃から戦国時代初期の16世紀中頃までに見られる原初的な詰城であることが分かった。
市文化財課によると、井伊谷城は城山(115メートル)山頂を切り開いた横幅65メートル、縦長57メートルの小規模な単郭式城館。南側には幅2・5メートル、高さ2メートルの土塁が、出入り口(大手口)に向かう敵を側方から攻撃する「横矢掛け」で築かれ、北側は岩盤に囲まれていた。北東に位置する三岳城と異なり、堀などの無い簡素な構造だった。
麓の居館のある南東を向いた大手口や土塁は、城と居館の密接な関係を裏付けていて、普段は麓で暮らし、井伊谷城と行き来していたとみられるという。市文化財課の担当者は「古い形をとどめた城で、詰城と居館が対になっていることが明確になった。直虎の時代も機能していたはず」と話した。
初の測量は来年放映の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で関心が高まる井伊谷城の姿を明らかにするのが目的。上空からの3次元レーザー測量で地形データを計測し3次元地形図などを作成した。
市は来年1月に旧引佐協働センターに開設する地域遺産センターで3次元地形図や模型を公開する。今月29日には現地見学会を開き一般向けに解説する。見学会の問い合わせは市埋蔵文化財調査事務所<電053(542)3660>へ。
史料は、負傷した彦根藩の武将、木俣守安をかつての同僚がねぎらった書状「庵原三郎右衛門書状」と、木俣の子孫がまとめたとされる「井伊氏家伝書」。同市教委が木俣の子孫から入手していた。
「井伊氏家伝書」は、彦根藩が福井藩と先陣を争い、真田丸の空堀まで進んだが反撃を受けて退却、100人強の死傷者を出し、木俣自身も負傷したと記している。同博物館によると、木俣は命令を受ける前に出撃する「勇み足」だったが、勇猛な先鋒隊としての面目を保ったとして幕府からたたえられたという。
また「庵原三郎右衛門書状」は、木俣と彦根藩の同僚だった庵原三郎右衛門が書き送った。日付は木俣の負傷から約1カ月後の慶長20年1月5日。「(真田丸の堀まで突き進んだ)手柄は将軍(徳川秀忠)もお喜びで、みんなもほめている。傷を治して復帰を」などと励ましている。
同博物館学芸史料課の渡辺恒一課長は「真田丸での彦根藩の戦いが分かる貴重な史料。敗れたが、将軍から評価され喜んでいたことが分かる」と話している。
書状と井伊氏家伝書は、同博物館で開催中の「井伊家と大阪の陣」で12月1日から公開される。
井伊直虎
直虎ゆかり「井伊谷城」構造判明 3次元地形図公表
(2016/10/27 07:42)
井伊谷城の地形を捉えた地図。南側の土塁や北側の岩盤が分かる(浜松市提供)
井伊谷城のある城山(手前)全体を南東側から捉えた3次元地形図(浜松市提供)
浜松市は26日、平安時代から戦国時代に北区引佐町周辺を治めた井伊氏の居城とされる市指定史跡「井伊谷城」の測量調査を基に作成した3次元地形図を公表した。南側に方形の土塁が組まれ、北側は自然の地形と一体化した独特の構造が判明。南北朝時代の14世紀中頃から戦国時代初期の16世紀中頃までに見られる原初的な詰城であることが分かった。
市文化財課によると、井伊谷城は城山(115メートル)山頂を切り開いた横幅65メートル、縦長57メートルの小規模な単郭式城館。南側には幅2・5メートル、高さ2メートルの土塁が、出入り口(大手口)に向かう敵を側方から攻撃する「横矢掛け」で築かれ、北側は岩盤に囲まれていた。北東に位置する三岳城と異なり、堀などの無い簡素な構造だった。
麓の居館のある南東を向いた大手口や土塁は、城と居館の密接な関係を裏付けていて、普段は麓で暮らし、井伊谷城と行き来していたとみられるという。市文化財課の担当者は「古い形をとどめた城で、詰城と居館が対になっていることが明確になった。直虎の時代も機能していたはず」と話した。
初の測量は来年放映の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で関心が高まる井伊谷城の姿を明らかにするのが目的。上空からの3次元レーザー測量で地形データを計測し3次元地形図などを作成した。
市は来年1月に旧引佐協働センターに開設する地域遺産センターで3次元地形図や模型を公開する。今月29日には現地見学会を開き一般向けに解説する。見学会の問い合わせは市埋蔵文化財調査事務所<電053(542)3660>へ。