十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

文は人なり

2020-02-24 05:00:00 | 投稿

文は人なり」である。

文章は、その人の価値観や人柄、性格が反映されてしまう。「人柄」自体が歪んでいたら、その歪みが文章に出てしまうのである。美辞麗句でどんなに飾っても、人間の本質がにじみ出る。だから、文章は怖いのである。だから、「文章道は人間道である」とも言える。

なお、札幌市で「文章教室 ゆう」を主宰する藤本研一氏は、次のように言っている。

 

<藤本研一氏の文章に対する考え方>

 

『私が文章の書き方をお伝えしているのは、高校教員時代に人柄もいいし、元気なのに全く進路が決まらない生徒と出会ったからです。

 明るくて真面目なのに、「書く力」が無くて履歴書もエントリーシートも書くことができない。結局そのまま卒業することになるのですが、卒業式の後、個別で作文の添削やアドバイスを続けた結果、無事就職が決まったのです。

 

 そこから、文章が書けるかどうかで人生が変わるということを実感しました。また、どんなに人柄が良かったとしても、それを文章に表せなければ自分の想いを伝えることができないことにも気付きました。 だからこそ、文章が書けるようになることで人生を変える人を一人でも増やしたいとの思いから文章の塾を開いているのです。』

「十勝の活性化を考える会」会長

 

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狩勝峠と十勝小唄

2020-02-23 05:00:00 | 投稿

        

狩勝とは、「石狩国」と「十勝国」から1文字ずつ取ってなづけられたものである。峠の頂上(644m)には、十勝毎日新聞社の初代社長である林豊洲氏が作詞した「十勝小唄」の歌碑が建っている。

 

「ランランラントセ金が降る十勝の平野に金が降る」で始まる十勝小唄は、十勝を象徴している民謡で、金が降るとは雨が降ることにより豆が育ち、十勝に潤いをもたらすからである。林豊州氏にとって降る雨が、お金のように見えたのであろう。

 

大正時代、「あずき相場」と言って十勝産のあずき価格が相場をけん引した。日本のあずき(小豆)は約8割以上が北海道産、そのうち3割が十勝産である。

関西で売られている“十勝大福”のあずきも十勝産のあずきが使われているそうである。十勝小唄は1927年、狩勝峠が「日本新八景」に入選したのを記念に作られました。

 

 「十勝の活性化を考える会」会長

 

 

注)日本新八景

 

日本新八景とは、1927年に、大阪毎日新聞社東京日日新聞社主催、鉄道省後援で、一般からの投票をもとに、最終的に当時の名士により審査選定された、日本を代表する8つの景勝地。

 

 

山岳、渓谷、瀑布、温泉、湖沼、河川、海岸、平原の8部門について、まず、一般からのハガキ投票を募り(410 - 520[1])、各部門の投票数10位までが候補地として選抜された。

なお、紙面の見出しに書かれた「投票注意」として、既に世間で認知されている日本三景富士山や、人工的名勝(例として後楽園錦帯橋が挙げられた)は対象から除外することが提示されていた。

その後、文人、画家、学者、政治家等の名士による審査で八景を決定した。

ちょうど一般の国民が観光に目を向けるようになった時期に行われた日本新八景の選定は、広く国民の関心を集め、投票総数は当時の日本の総人口の1.5倍にもなる約9,300万通に及んだ。

ハガキ投票の渓谷部門で1位となったものの八景の選に漏れた天竜峡日本二十五勝には選ばれた)の地元では、審査の不公正を訴える形で、東京日日新聞の不買運動も起こったという。

【日本新八景】

 

(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

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「自分への手紙」

2020-02-22 05:00:00 | 投稿

 

千葉県の当時小学4年生だった栗原心愛(みあ)さんが、昨年1月に父親の虐待により彼岸に渡りました。昨日のニュースで、祖母が、心愛さんが小学校で書いた「自分への手紙」を公表したことを知りました。ご覧になられた方も多いと思いますが、私は、強い心痛と落涙を余儀なくされました。3人の孫娘への思いや高齢による涙もろさもあるのでしょう。手紙をご紹介します。

 

『栗原心愛さんへ』

三月の終業式の日。あなたは漢字もできて、理科や社会も完ペキだと思います。十月をめあてに、もうたっせいできましたか。自学ノート、( )さつめまで終わりましたか。五年生になってもそのままのあなたでいてください。

 未来のあなたを見たいです。あきらめないで下さい。

4年1組 くりはらみあより

 

 なぜ、このようなことが起こるのか、どうすれば、このようなことが防げるのかを、みんなで考え、できることから実行していかねばなりません。

 科学技術の進歩で生活は便利かもしれませんが、現在の世情をみると、人のこころ、自然が置き去りになっているような気がしてなりません。心愛ちゃんが教えてくれたことをこころに刻み、改めてご冥福を祈りたいと思います。

 

東井義雄先生の「子どもは星」を添付します。

 

『 どの子も子どもは星

どの子も子どもは星

みんなそれぞれがそれぞれの光をいただいてまばたきしている

ぼくの光を見てくださいとまばたきしている

わたしの光を見てくださいとまばたきしている

光をみてやろう

まばたきに応えてやろう

光をみてもらえない子どもの星は光を消す まばたきをやめる

まばたきをやめようとしている星はないか

光を消してしまおうとしはじめている星はないか

光を見てやろう 瞬きに応えてやろう

そして天いっぱいに子どもの星をかがやかせよう 』

             「十勝の活性化を考える会」会員

 

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連載:関寛斎翁 その20 阿波を発ち原生林を踏破して陸別へ

2020-02-21 05:00:00 | 投稿

 

世の中を渡りくらべて今ぞ知る
    阿波の鳴門は浪風ぞなき



寛斎は、感傷に浸る性癖は薄いほうだが、穏やかな鳴門の海を進む船縁に立って、苦節の皺が目立ちはじめたアイの横顔と、遠ざかり行く阿波の山々を眺めると、しばし感慨を覚えるのであった。
途次、東京をはじめ再度の上総の訪問などを経て、一ヵ月後の五月十八日、札幌に到着した。
寛斎は斗満開拓の前進基地として、又一に「樽川農場」を経営させていたが、さらに慎重を期し家族の便を考え、札幌に居を構えて連絡の足場にした。そこは、屯田兵の本拠地である郊外の山鼻(現・札幌南区四条西十二丁目)住宅である。
因みに樽川は札幌から北に五里(約二十キロ)石狩湾に注ぐ石狩川の河口付近に位置していることから、此処は、格好の足場であると云える。

寛斎は聴診器を鍬に替え、妻・アイは機織りの筬の代わりに鎌を手に、葉もの野菜、根菜、豆類、粟黍稗の雑穀など、自給自足に励んだものの腰は突っ張り、萎えた手は上がらず、節々がポキポキと鳴るように痛み、全身が疲労の塊である。
寛斎は「幸いにして儂は健康なり」と、自負していたが、意識と肉体とは必ずしも一致せず「筋必合和」(きんひつあいわする)には至らなかった。
一方、妻・アイは、大家族の主婦としての多年の苦労、とくに辛苦と心労のためか、心臓がかなり弱っていた。気丈のゆえ、苦痛などを訴えなかったが、医師の寛斎には、彼女の心の臓の衰えがはっきりと診み取れた。

寛斎が札幌に着くと、入れ替わるように、片山八重蔵・ウタ夫妻が先達として、斗満に向った。
この片山なる人物は、徳島時代からの旧知で、明治二十五年、又一の札幌農学校入学に同行して徳島より札幌に移住。又一が貸付許可の樽川農場を、彼とともに開拓開墾し実務を担当し、さらに斗満関農場の開設にあたっては、調査・申請を行い関農場管理の責任者として働いた得がたい仲間であり、同志である。(「関農場の考察」より)
八月五日、寛斎の一行は札幌を発して牧場へ向った。この先遣隊が、現地で受け入れ準備が整った頃合を見計らっての出発である。妻アイは一同を送り出し札幌に残ることになった。いかに「偕老同穴」(かいろうどうけつ)とはいえ、この心の臓の衰弱では、当初の開拓は無理である。厳しい気候に対処できる住居が整い、そこで、くつろいだ生活ができるまでは、別居も止むを得ない。寛斎にとっては、別れて暮らしても「夫婦は輪廻の絆」の思いである。

 札幌から落合までは、開通間もない鉄道に乗りそれからは徒歩。現在は新狩勝トンネルを快適に通過出来るが、一行は国境の峠を歩行し、清水に降り一泊。翌日は帯広に出、又一に合流して一泊。さらに高島、利別に宿泊、五泊目は足寄に宿。
翌日の早朝、アイヌ一名を道案内として雇い、乗馬を調達して出発。ほどなく十伏川を渡ると、おりから鉄道建設工事のための、測量の天幕があるのみで、人跡未踏の密林。川沿いに山間の道を行くのだが、寛斎の眼には何処が道だか皆目見当がつかぬ所を進んでいる。
数回、川を渡り峻坂を登り、密樹の繁茂する間をくぐるときには、鞍にかじり付いてもなお危く、木の枝に帽子が引っ掛かったり、或は袖が枝にからまり危うく馬から転げ落ちそうになった事が、一度ならず二度三度、数回にもおよんだのである。
そのうえ、原生の大樹のために昼なお暗く、案内人アイヌの後を追うのがすこぶる困難で、何度も見失いそうになり、後に続くのに必死の思いである。
無事に川を渡り平坦の原野に出、やれやれと思いきや、再び密林に入ると、到るところ倒れた大樹が横たわり、その上を飛び越え、或は曲がり、或は迂回するなど、さすがの寛斎も、「筆舌を以って尽くすべからずあり」と、彼にしては珍しく弱音を吐いている。
 いやいやまだ続く。
 斧が入らぬまま風化して朽ち果てた大樹の上に丸くなったが五六匹、行く先々で、固まってとぐろを巻き、赤い舌をチョロチョロさせているので、ゾクとして全身が粟起したのである。


平坦地を通り過ぎると、密林あり、湿地あり、小川あり、その傍らに蕗の繁茂した所がある。
この蕗は直径六七尺(約ニメートル)高さは一丈余(約三メートル)、驚くことに、跨がった馬の上からでも手が届かない高さで、寛斎が携えた傘で比べると、倍以上の大きさなので思わず感嘆。
それから十丁行くと湿地である。進むうちに馬脚が水没し、深さが馬の腹に達し、寛斎の足も膝まで水に浸ったままの前進である。ふと川岸を見ると、近傍の葦は、彼の身の丈以上の高さである
やっとの思いで川を渡り、また、平坦地に出で再び湿地に入ったが、今回は馬脚は膝を没するも馬腹までには至らず、八月十日に出発以来、目指す陸別に五日がかり、やっとの思いで到着した

寛斎は、この間の苦闘の行程について、「此処(陸別)に至りては、予は実にうれしくて、一種言ふべからざるの感にうたれて、知らず識らず震慄して且つ一身萎えるるが如きを覚えたり。
此時たるや精神上に言うべからざるの感を為すは、これ終身忘るる事能はわざるべきなり。
故に今日に於ても時存思い出す事あり。ああ此現状に遇するに、於ては大満足たるや、如何なる憂苦困難を重ねたるも、此れにて満難を打消すべきを感じたり。
ああ世人は斯くの如きの実境を得る事を知らず、只空しく、一身一家を固守するの人にては、自ら誇るのみ其人をあはれに思うなり。
夜、アイヌが鱒二匹捕りたるを調理して晩飯を食して眠につけり。此夜は恰も慈母の懐に抱かれたる心地して大安堵せり」と述べている。

渡辺 勲 「関寛斎伝」陸別町関寛斎翁顕彰会編

「十勝の活性化を考える会」会員 K

 

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十勝のお酒

2020-02-20 05:00:00 | 投稿

    

 お酒は、神代の昔から造られてきました。

酒蔵で造られ、その蔵数は全国で昭和初期には7,000以上、平成のはじめには2,500ほどの蔵がありました。それから30年、今は1,400以上の蔵で1万以上の銘柄の日本酒が造られています。

 十勝では広尾で寛政の頃(1790年頃)から醸造されたようです。明治10年代には十勝漁業組合が醸造を手がけ、13年組合解散後は若松忠次郎、山崎金蔵等が酒造に当たつた。その後広尾酒造組合を経て林寅太郎個人の経営になり、林家での醸造は昭和18年まで続いた。大津村では明治20年代初期から熊谷泰蔵が10年程醸造。帯広では明治28年白浜忠吉が酒造始めで明治40年に廃業。   白浜酒造店で杜氏をして働いていた小川富吉(後に晃邦に改名)が明治33年酒造工場を建てる昭和39年に廃業。明治41年には戸井田島吉(1年のみ)、三井徳寶が操業開始して大正8年に廃業。 

大正6年愛須梅次郎と宮本富次郎が共同出資で帯広酒造合資会社を創業して昭和54年廃業。明治42年坂井啓太郎開業、その後妻トクが相続する。昭和3年日本清酒株式会社の企業合同に参加し帯広工場として操業するが昭和21年火災で焼失、休造した。昭和41年幕別町札内に工場を新設して操業を再開、昭和59年に操業をやめる 明治37年加藤廣吉は幕別村白人で操業、妻カネオが相続後加藤登に譲渡する昭和19年企業整備令が施行された頃廃業。井上政之丞は太樹村で明治38年前より操業して、明治38年酒造年度限りで廃業。

本別の新津繁松は大正4年に酒造を始め、昭和13年に廃業。

芽室の山本外次郎は明治43年創業、昭和23年十勝酒造合資会社にして運営、昭和56年廃業。

清水酒造株式会社は大正12年、松山金次郎が代表で設立。昭和29年松山酒造株式会社に組織変更、昭和56年廃業。

新得酒造株式会社は昭和3年操業、昭和18年頃廃業。

名門酒造株式会社は昭和32年に松山酒造、十勝酒造、小川銘醸の三社で設立する。小川酒造廃業に伴い、昭和39年に北の鶴酒造株式会社と社名変更、昭和56年製造を終える。

「ふるさとの想い出 写真集」

 十勝のお酒が消えてから25年後、平成24(2012)年に

とかち酒が誕生、音更の酒造好適米「彗星」と深層地下水を仕込み水に使用し小樽の田中酒造で醸造されたお酒「十勝晴れ」です。

 北海道では幕末から今までに清酒、濁酒は製造した者は550名程いたそうです。

 今は北海道には12の酒蔵があります。今年は東川町に13番目の蔵ができ、十勝にも酒蔵が誕生します。帯広畜産大学に「碧雲蔵」の開設です。新米収穫後の秋以降に醸造される予定のこと。

十勝で醸造される36年ぶりのお酒を楽しみながら十勝の活性を語るのはいかがですか。

「十勝の活性化を考える会」会員Y

 

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