私が子供の頃、北京オリンピックで金メダルをとった高木美帆選手の出身地である幕別町札内地区に2軒、隣の千住地区に数軒のアイヌの方々が住んでいました。千住地区の方々は、農家として自立していたようですが、札内地区の2軒は既に農地を手放してしまい、日雇として近隣農家の手伝いをするなどして生計を立てていました。
これが、私の子供の頃の白人アイヌコタンの状況でした。
札内地区の2軒は、正確には西側は7号道路、東側は8号道路、北側は札内川、南側は3線道路に囲まれた30町歩強の新北区と呼ばれる区域にあり、私の実家も同じ新北区にありました。
新北区は、開拓当初の土地区画では、原則通りアイヌの方の2軒を含め6軒に割当てられたハズですが、子供の頃には紆余曲折を経て農家が6軒、農家以外が3軒(内2軒がアイヌの方)の9軒の家となっていました。
なお、私の実家の北隣は、北大のY名誉教授の実家でした。
新北区のアイヌの方の1軒は、小学校・中学校の友人Y君の家(母と姉の母子家庭)で、母親が周辺農家の手伝いや農協の雑用等で生計を維持していました。Y君とは途中まで帰路が同じため何時も一諸に帰りました。彼は中学卒業後一家で東京に引越し、その後、西濃運輸の運転手になりましたが、暫くして岐阜の方に転居して音信不通となりました。
もう一軒のアイヌの方の家は、父と子(男・女・男)の4人家族で、長男の方が工事現場等で働き、父親が時々兎や川魚を捕ったりしていましたが、生計を維持するには足らず、時々我が家に何か手伝わせて欲しいと頼みに来ていました。私が中学・高校の頃は、自分より少し年長で聾唖者の二男の方がよく手伝いに来て、彼とは仕事が終わると必ず相撲をし、キャツチボールして遊びましたが、残念ながら、彼は、私が大学生の時、山の事故で命を落としてしまいました。
千住地区のアイヌの方々のことについては、中学の時に千住地区から通学してきた友人S君以外のことはよく分かりません。
記憶に残るのは、蝦夷文化考古館の吉田菊太郎さんのことと、同じ千住地区のリーダーのような立場の方で、時々我家に来ていたクラーク・ゲーブルに似た方のことぐらいです。私は、その人の印象のためか、アイヌ白人起源説を永く信じていました。
S君とは、最初はそれほど親しくありませんでしたが、1年生の時のある出来事が契機となって友人となり、良く世の中の事とか人生について語りあいました。S君とは、彼が上京して暫くして音信不通となりました。
札内・千住地区は、農地の多くが宅地に変わり、最近ではチロットアイヌコタンの記憶を辿るのも困難となりました。
「十勝の活性化を考える会」会員