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作家司馬遼太郎氏は、「胡蝶の夢」の中で、松本良順、島倉伊之助と並び関寛斎に強い思い入れを持ってその足跡を描いている。その心情を「私事」として、あとがき風に吐露している部分を引用したい。
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司馬遼太郎著 「胡蝶の夢」(四) 新潮文庫
『ふたたび私事になる。
この小説は私の印象の世界を流れている潮のようなものを描こうとした。自然、主人公は登場した人間の群れのなかのたれであってもよかったのだが、しかしこの流れにとってもっとも象徴的な良順と伊之助、それに関寛斎の足音と息づかいに気をとられることが多かった。とくに寛斎が登場したころ、「私は北海道陸別町の出身で」 という初老の僧侶の来訪をうけたことが、その土地を拓いて死んだ寛斎についての想いを、血の泡だつような感じのなかで深められてしまうはめになった。
「寛斎さんについては、よく存じません。ただ私どもが生れた陸別という人口五千の小さな土地を拓いてくださった人として感謝しています。故郷への想いと寛斎さんへの敬愛の気持が一つのものになっています」
一九一四年うまれというこの真宗僧侶は戦中戦後アメリカにいたひとで、いまも宗門の地方での職についておられ、故郷から遠い。故郷の寺は弟さんが住職をされているという。
「陸別の冬は零下三十五度までさがって、北海道では旭川とならんで最極寒の地です。私どもの少年のころ、家の中の酒も醤油も凍りまして、朝、目がさめると掛けぶとんの襟に、息で真白に霜がつもっていました」と、寛斎のころ斗満(トマム)といったその地の自然の話をきくにつれ、そこで最晩年の十年をすごした寛斎の影がいよいよ濃くなってくるような気がする。
「寒冷がひどくて米は穫れません。こんにち五千人の人口は酪農と木材で食べています」
「寛斎さんが入植した当時(1902年)の北海道は、開拓するならどんな土地でも二足三文でころがっていたはずですが、わざわざあの寒い斗満を選ばれたのはどういうおつもりだったのでしょう」
と、品のいい微笑とともに言われたが、この件については簡単に説明がつく。
北海道開拓に関心のあった寛斎は、四男の又一を札幌農学校に入れた。又一が卒業後、父とともに開拓すべくさがしたのがこの地であった。明治三十四年(1901)に同校を卒業するにあたって学校に提出したかれの卒業論文は『十勝国牧場設計』というもので、斗満を牧場にするための具体的な立案書そのものが論文になっている。
「寛斎さんが七十三という歳であの土地を開拓するというのは、自分の力が堪えうる極限まで試してみようとされたのではないでしょうか」
寛斎のころむろん鉄道は陸別にきていない。
この奥地に入るには、川から川をさかのぼってやってきたのであろう。陸路を歩行するには原生林がまだ多く、たとえ跋渉(ばっしょう)できるにしても、大荷物の運搬が困難であり、それに途中、野獣に襲われる危険性が十分あった<<後略>>』
札幌農学校(さっぽろのうがっこう)とは、明治初期に北海道札幌に置かれた教育機関であり、現在の北海道大学の前身である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
関又一卒業論文「十勝國牧場設計」
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七男又一は札幌農学校へ進み、米国流の農業経営を学んだ。同期には有島武朗などのちの有名人もいたが、ほとんどは北海道開拓使の役人になる中で、父寛斎の意を汲み又一自身も強い野望を持って牧場開拓の実践を目指していた。
「十勝の活性化を考える会」会員 K