十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

北海道 十勝の深掘り 紫竹ガーデン

2021-04-30 05:00:00 | 投稿

北海道 十勝の深掘り

全国の読者の皆様に、「北海道十勝ってどんなところ?」の疑問に深掘りしてお伝えしてまいります。


紫竹ガーデン

60歳を過ぎてコツコツとガーデニングを始め、今では18,000坪に約2,500種にも及ぶ花々が咲き誇る美しい庭へと成長させた紫竹昭葉さん。紫竹ガーデンでは完全無農薬で消毒もしない、オーガニックな庭づくりがモットーなのだそう。敷地の奥で作られる有機肥料で育ったさまざまな植物は、健康で大きく、活気にあふれています。庭園にたたずむだけで元気を分けてもらえるような、そんな強い生命力を感じさせる庭園です。GoodDay北海道

http://shichikugarden.com/

 

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“対雁の碑”~樺太アイヌ強制移住の歴史~

2021-04-29 05:00:00 | 投稿

 

先日、樺太アイヌ史研究会編「対雁の碑~樺太アイヌ強制移住の歴史~」の本を読んだ。この本は、悲惨と苦悩を極めた樺太アイヌの知られざる強制移住を書いており、その一部を抜粋する。なお、私の従兄の奥さんは、昭和12年に対雁で生まれ、すぐに樺太にわたって終戦まで住んでいたという。

『 1875年(明治8年)57日、日本とロシアの間に、「樺太千島交換条約」が締結されたことによって、同年9月樺太から841名の樺太アイヌの人たちが宗谷に移住させられた。そしてさらに翌年の1876年、彼らは日本政府の一方的な国策から、札幌近郊の対雁(現在の江別市)に強制移住させられた。

元来、漁労採集生活を行ない、他の北方千十民族との交易交流を作った樺太アイヌの暮らしは、北海道アイヌがそうであったように、自然との調和に満ちた伸びやかなものであった。

しかし、この1世紀余の間に近代国家のつばぜり合いの舞台として、北の島々・北の大地は一方的な力関係によって、大きく塗り替えられていったのである。樺太アイヌ841名が辿らされた史実は、現在もなお、北海道やサハリンに在住するその末裔たちの上に、複雑な問題を投げかけている。

日本という国が、真に人権と平和を尊ぶ国として21世紀へ向かうためには、先住民族問題を解決していくことが急務であるし、私たち一人一人が史実の検証者であらねばならない。明治初期に行なわれた樺太アイヌ強制移住という暴挙を、専門家ではない我々が調査を続け一冊の本にまとめたかった真意はここにある。

(後略)』

樺太アイヌの問題は、このような歴史上のことを知る必要があります。また、アイヌ関係の説明は、『ウィキペディア』を見れば分かると思いますが、アイヌと言われる前はエミシと言われていました。エミシについては、次のとおりです。

古代の蝦夷(エミシ)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指していました。その中で、積極的に朝廷に接近する集団もあれば、敵対した集団もあったと考えられています。

しかし、エミシは次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていき、蝦夷(エミシ)と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は和人につながったと考えられています。

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北海道 十勝の深掘り ビート資料館

2021-04-28 05:00:00 | 投稿

北海道 十勝の深掘り

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ビート(甜菜)ってなんだろな?

テンサイ(甜菜、学名:Beta vulgaris ssp. vulgaris)は、ヒユ科アカザ亜科フダンソウ属の二年生の植物。別名サトウダイコン(砂糖大根)ともいうが形が似ているだけで、アブラナ科のダイコンとは縁が遠い。

ビートの砂糖用品種群である。寒さに強く、寒冷地作物として中高緯度地域で栽培されている。サトウキビとならんで砂糖の主要原料であり、根を搾ってその汁を煮詰めると砂糖がとれる。 アンセルム・ペイアンが脱色法を発明してからは原料として好まれるようになり、全世界の砂糖生産量のうち約35%を占める。なお、葉と搾りかす(ビートパルプ)は、家畜の飼料として利用される。

日本では、北海道を中心に栽培されている。テンサイから作られた砂糖は甜菜糖と呼ばれ、国内原料による日本の砂糖生産量の約75%、日本における砂糖消費量の25%を占める。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

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てん菜の歴史が総合的に分かる、日本甜菜製糖株式会社の資料館。

てん菜の歴史が総合的に分かる、日本甜菜製糖株式会社の資料館

 

 

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北海道 十勝の深掘り 「とかちエテケカンパの会」

2021-04-27 05:00:00 | 投稿

北海道 十勝の深掘り

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アイヌの子どもを支えて30年:文化奨励賞を受賞した「とかちエテケカンパの会」物語(前編)

 

帯広市でアイヌの子どもたちに教育支援を行う「とかちエテケカンパの会」が2020年に設立30年を迎え、アイヌ民族文化財団の文化奨励賞を受賞した。「貧困と差別を次の世代に残さない」と懸命に活動してきた、これまでの歩みを追った。
(nippon.com)より

 

アイヌの子どもを支えて30年:文化奨励賞を受賞した「とかちエテケカンパの会」物語(前編)

帯広市でアイヌの子どもたちに教育支援を行う「とかちエテケカンパの会」が2020年に設立30年を迎え、アイヌ民族文化財団の文化奨励賞を受賞した...

nippon.com

 

 

差別と闘う中で社会の変化も実感:アイヌ文化奨励賞を受賞した「とかちエテケカンパの会」物語(後編)

 

差別と闘う中で社会の変化も実感:アイヌ文化奨励賞を受賞した「とかちエテケカンパの会」物語(後編)

テレビの情報番組でひどい「差別事件」が発生するなど、アイヌの人たちを取り巻く環境はまだまだ厳しい。一方、最前線で差別と闘ってきた同会の芦澤満...

nippon.com

 

 

 

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“対雁の碑”~樺太アイヌ強制移住の歴史~

2021-04-26 05:00:00 | 投稿

 

先日、樺太アイヌ史研究会編「対雁の碑~樺太アイヌ強制移住の歴史~」の本を読んだ。この本は、悲惨と苦悩を極めた樺太アイヌの知られざる強制移住を書いており、その一部を抜粋する。なお、私の従兄の奥さんは、昭和12年に対雁で生まれ、すぐに樺太にわたって終戦まで住んでいたという。

『 1875年(明治8年)57日、日本とロシアの間に、「樺太千島交換条約」が締結されたことによって、同年9月樺太から841名の樺太アイヌの人たちが宗谷に移住させられた。そしてさらに翌年の1876年、彼らは日本政府の一方的な国策から、札幌近郊の対雁(現在の江別市)に強制移住させられた。

元来、漁労採集生活を行ない、他の北方千十民族との交易交流を作った樺太アイヌの暮らしは、北海道アイヌがそうであったように、自然との調和に満ちた伸びやかなものであった。

しかし、この1世紀余の間に近代国家のつばぜり合いの舞台として、北の島々・北の大地は一方的な力関係によって、大きく塗り替えられていったのである。樺太アイヌ841名が辿らされた史実は、現在もなお、北海道やサハリンに在住するその末裔たちの上に、複雑な問題を投げかけている。

日本という国が、真に人権と平和を尊ぶ国として21世紀へ向かうためには、先住民族問題を解決していくことが急務であるし、私たち一人一人が史実の検証者であらねばならない。明治初期に行なわれた樺太アイヌ強制移住という暴挙を、専門家ではない我々が調査を続け一冊の本にまとめたかった真意はここにある。

(後略)』

樺太アイヌの問題は、このような歴史上のことを知る必要があります。また、アイヌ関係の説明は、『ウィキペディア』を見れば分かると思いますが、アイヌと言われる前はエミシと言われていました。エミシについては、次のとおりです。

古代の蝦夷(エミシ)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指していました。その中で、積極的に朝廷に接近する集団もあれば、敵対した集団もあったと考えられています。

しかし、エミシは次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていき、蝦夷(エミシ)と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は和人につながったと考えられています。

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