先日、樺太アイヌ史研究会編「対雁の碑~樺太アイヌ強制移住の歴史~」の本を読んだ。この本は、悲惨と苦悩を極めた樺太アイヌの知られざる強制移住を書いており、その一部を抜粋する。なお、私の従兄の奥さんは、昭和12年に対雁で生まれ、すぐに樺太にわたって終戦まで住んでいたという。
『 1875年(明治8年)5月7日、日本とロシアの間に、「樺太千島交換条約」が締結されたことによって、同年9月樺太から841名の樺太アイヌの人たちが宗谷に移住させられた。そしてさらに翌年の1876年、彼らは日本政府の一方的な国策から、札幌近郊の対雁(現在の江別市)に強制移住させられた。
元来、漁労採集生活を行ない、他の北方千十民族との交易交流を作った樺太アイヌの暮らしは、北海道アイヌがそうであったように、自然との調和に満ちた伸びやかなものであった。
しかし、この1世紀余の間に近代国家のつばぜり合いの舞台として、北の島々・北の大地は一方的な力関係によって、大きく塗り替えられていったのである。樺太アイヌ841名が辿らされた史実は、現在もなお、北海道やサハリンに在住するその末裔たちの上に、複雑な問題を投げかけている。
日本という国が、真に人権と平和を尊ぶ国として21世紀へ向かうためには、先住民族問題を解決していくことが急務であるし、私たち一人一人が史実の検証者であらねばならない。明治初期に行なわれた“樺太アイヌ強制移住”という暴挙を、専門家ではない我々が調査を続け一冊の本にまとめたかった真意はここにある。
(後略)』
樺太アイヌの問題は、このような歴史上のことを知る必要があります。また、アイヌ関係の説明は、『ウィキペディア』を見れば分かると思いますが、アイヌと言われる前はエミシと言われていました。エミシについては、次のとおりです。
古代の蝦夷(エミシ)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指していました。その中で、積極的に朝廷に接近する集団もあれば、敵対した集団もあったと考えられています。
しかし、エミシは次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていき、蝦夷(エミシ)と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は和人につながったと考えられています。
「十勝の活性化を考える会」会員T