令和5年1月18日付け読売新聞の18面に、アイヌの世界的木彫家「貝沢徹氏」の記事が載っていた。その中の記事に、アイヌの「アイデンティティ」のことが書かれていた。
彼はアイヌであることを隠す人、アイヌとしてのアイデンティティ(誇り)を持っている人、北海道白老町の国立アイヌ博物館(ウポポイ)で働いている若者のようにアイヌとして生きている人の三つのアイヌがいるというのである。私の母方の先祖は北東北地方であるから、アイヌの血が流れていることになるが、私のような場合には「アイヌ系日本人」となるのであろうか。
初めて“アイヌ系日本人”という言葉を使ったのは、第一高等学校に150人中12位の成績で合格し、東京帝大を卒業して北大教授になった知里真志保氏(享年54歳)であった。彼は、『分類アイヌ語辞典』などの作成で有名であるが、彼もアイヌ系日本人だったと思っている。
なぜなら彼も我々も縄文人で、アイヌとの混血で生まれたからである。もっとも、知人のアイヌ学者によれば、日本人はすべて縄文人と弥生人の混血で、「和人」と言われた人もアイヌ(エミシ)との混血であるそうだ。
アイヌと言われ始めたのは18世紀前後で、古くは“エミシ”、その後にエビス、エゾ、アイノ、カイノ、エンチュウなどと呼ばれていた。エミシとは荒ぶる人の意味であって、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東国(現在の関東地方と東北地方)や、現在の北海道や樺太などに住んでいた人々の呼称である。
多くの日本人に、アイヌは北海道のみに住んでいたと思われがちであるが、全国に住んでいたのである。なお、終戦直後、樺太には約27万人の日本人が住んでいて、その中に従兄の奥さん(樺太アイヌ)の5人家族も含まれていた。
「十勝の活性化を考える会」会員