釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

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雑談:能の楽器の「偏屈な」個性

2013-04-09 10:36:11 | その他の雑談
先日、書いた『能の表現(逆説の美学)』に、能楽に使われる楽器の「逆説」が書かれている。私は此の楽器の方面も全くの素人だが、この本によると---
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・能管は合奏ができない。楽器によってピッチが異なり、調律ができない。同じ能管でも吹き方の微妙な差で半音ほどの差はすぐ出てしまう。

・小太鼓は湿度に大変影響される。乾燥した空気の中では調子が出ないばかりか、皮がそってしまう。能楽堂の演奏でも裏皮に息をかけ、あるいは唾液によって常に振動を調整する必要がある。名手の手にかかると、この世で一番音色の美しい打楽器とも言われるが概して鳴りにくい。

・大太鼓は鋭い衝撃音を出すために、その都度炭火で皮を焙じるから数回の使用に耐えない消耗品で、一曲の能の中でも、何回か楽器を変える必要がある。

・太鼓は締め上げてバチで打つから能では一番安定した楽器だが、能で担当するのは主として最終部分だけで全曲では使用されない。能の曲目によっては参加することはない。
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能は、いつも同じ音の出る安定した楽器をはじめから求めなかった、と著者は言う。
どうして能は、こんな気まぐれな楽器を愛し続けたのだろうか、と。

著者の、その一つ解答は、私流に換言して言うと、能の公演は一回限りなものであり (一期一会の重視) 、その一回限りの演奏の瞬時の燃焼をすべく、あえて、かくも個性が際立った楽器を使用した、ということらしい。一回限りという緊張感を保つべく、『いつも同じ音の出る安定した楽器』を、あえて使用しなかった、ということらしい。(但し、現在の能の現状は此の限りではないかも知れない。私は、その当たりの事情は知らない。) 

ここらへんの事情は本質的には西洋音楽を含め全ての音楽に共通しているのだろうが、それにしても、能の楽器への偏屈とも言えそうな個性重視は極端に見える。

能の楽器の此の「逆説」は、少し、おおげさに言うと、今日、多方面に見られる『ものの画一化』への蔑視とも受けとれる。能が現在も先鋭的に見える一つの所以は此の「逆説」に拠るのかも知れない。

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