釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

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雑談:山本陽子の詩

2012-03-09 11:48:54 | その他の雑談
山本陽子の詩
山本陽子という詩人をご存知でしょうか。俳優さんの人ではありませんよ。
私は詩には全く疎い人間ですが、今から20年ほど前、ある人から、この人を教えられました。いわゆる現代詩を書いていた詩人だったそうです。

私は、彼女について教えられ、大変興味をもちました。詩そのものもそうでしたが、
まず彼女の生きざまに関心がいったのでした。
彼女は1943生まれで亡くなったのは1984年。肝硬変で死亡。

その直前までの彼女の生活は午前中安田生命ビルの掃除婦をし、午後は読書、その後は一人住まいの目白の公団自室で酒にくれるという日々を九年間続け、その中から意味を拒絶する言葉の連なりをつむぎ出していたそうです。

彼女は自室には誰も入れなかったそうです。時折、母親が訪ねてきても戸口での立ち話ですませていたそうです。ある日、近所の人が彼女の異様に気付き部屋に入ろうとしたが鍵がかかっていて入れない。そこでレスキュー隊が駆けつけ部屋を突き破り、彼女を強引に病院へ連行。その数日後にその病院で死亡した。病院で死亡と言っても実態は限りなく自殺に近かったのでしょう。41歳だったそうです。

彼女の部屋に残されていたものは、おびただしいメモ類とフライパン一個だったそうです。
メモ類は彼女の家族によって全て焼却されたそうです。

彼女の詩を、ある人は以下のように解説しています。

『一般の常識からは作品と呼ぶべきかどうかも戸惑わせるような、不可解な
ものであるが、彼女が言語の根底に触れ、その言語の現代における分裂と
危機を、非常な深度で生きた稀有な詩人であったことはまぎれもない事実
である。

彼女の、ただ一点を見凝め、そこへ自己の全精力をそそぎ込んで
炸裂する、巨大な自己解体のエネルギーは、言語の状況の赤裸々な姿態を
ひきずり出し、語は破片のように、いまだ知られたことのないシンタックス
と韻(ひびき)の流動の海を流れ、舞い、飛びちる』

言葉から意味の剥奪。これがどんなものか、彼女の詩の一部を紹介しますが、現代詩の全くの門外漢である私は奇妙にも何ゆえか、その詩に惹かれるのです。
以下は『遥るかする、するするながら3』の最初の一節です。
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純みめ、くるっく/くるっく/くるっくぱちり、とおとおみひらきとおり むく/ふくらみとおりながら、わおみひらきとおり、くらっ/らっく/らっく/くらっく とおり、かいてん/りらっく/りらっく/りらっく ゆくゆく、とおりながら、あきすみの、ゆっ/ゆっ/ゆっ/ゆっ/ とおり、微っ、凝っ/まっ/じろ きき すき//きえ/あおあおすきとおみ とおり//しじゅんとおとおひらり//むじゅうしむすろしかつしすいし、まわりたち 芯がく すき/つむりうち/とおり//むしゅう かぎたのしみとおりながら たくと/ちっく/ちっく すみ、とおり、くりっ/くりっ/くりっ\とみ|とおり、さっくる/さっく ちっく/るちっく すみ、とおりながら
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この調子で延々と数百行も続くのです。

言葉から意味を剥奪する・・・私にはそれは実に新鮮というか、実験的というか、独創とは、こういうものであろうと思うのです。

確かに難解です。当然です。言葉から意味を剥奪しているのですから。
こういう詩が今の世で受けられるか?商業ベースに毒された文学と言う名の商売に受けられるか? 当然、否でしょう。

彼女は生前まわりに、「百年か二百年たったら、わかってもらえる」と洩していたそうです。もしかしたら、そうかも知れません。

時代を先取りした独創性というものは同時代人には理解されないものです。
山本陽子という稀有の天才(と断言してもよいでしょう)の、このような稀有な実験が果たして「百年か二百年たったら、わかってもらえる」という保証はありません。

しかし、人間という存在に価値があるとすれば・・・その価値とは彼女の詩のような・独創性にあるのではないでしょうか。

詩を理解するとは? ここでも理解とはいかなるものであるか、が問題となってきます。山本陽子の詩を理解するとは、一体、どういうことか?

私の現在での彼女の詩の理解は・・・全くの素人の理解ですが・・・呪文です。

ちょうど古代の民族が天に向かって唱える呪文。
そういう意味での呪文が彼女の詩だと、私は思っています。

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