釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:咳をしても一人

2013-07-07 12:35:46 | その他の雑談

有名な尾崎放哉の俳句ですね。

以下はWikpediaに掲載されている尾崎放哉の人物像です。

『吉村昭によると、性格に甘えたところがあり、酒がやめられず、勤務態度も気ままなため、会社を退職に追い込まれたという。(中略) 吉村が1976年に取材のため島を訪ねた時、地元の人たちから、「なぜあんな人間を小説にするのか?」と言われたほどで、「金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける、といった迷惑な人物で、もし今、彼が生きていたら、自分なら絶対に付き合わない」と、吉村自身が語っている。』

貴方は此のような人物と関りをもちたいですか?
たぶん、NOでしょう。私だって後免こうむりたい。

しかし掲題の俳句に私は惹かれるのは事実です。此の寂寥感は、たった5文字なのに、いや、たった5文字であるが故に、おそらく全ての人が共感するであろう普遍性をもっていると私は思います。

そのような、おそらく時空を超えた普遍性を持つ俳句というより芸術を生み出す代償が上記のような人物であらねばならぬとしたら、芸術とは何と皮肉で残酷なものでしょう。

私たちは、概して、芸術の果実を飽食しながら、その芸術を生み出した人たちの惨憺たる苦渋を忘れがちです。しかし、それがイケナイということではない。
芸術というものは本来そういうものでしょうから。

ただ私はここで芥川龍之介の以下の警句を思い出さざるを得ないのです。

『天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩をの千里であることを理解しない。後代は又この千里の一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。後代は又その為に天才の前に香を焚いてゐる。』

この警句の極端な例が尾崎放哉であり、種田山頭火でしょう。
いや、彼らほどでなくとも、私たちが現在『香を焚いてゐる』芸術たちの果実を、私たちは無邪気に飽食している。

繰り返しますが、其れがイケナイということではない。
芸術というものは、所詮、そういうものでしょうから。

ただ、私たちは其の飽食の途中での一瞬でも、その作者達の苦悩に思いを馳せることも決して無益なことではありますまい。

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