碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

陶芸展の開催

2019-10-29 09:04:08 | 日記風雑感

このたび個展を開催することになりました。11月23日から12月10日まで、チェンマイのバーントゥックアートセンターでCLLのフォトクラブの発表会と同時開催というかたちになりました。いままで適当な大きさの会場が決まらずいろいろ探していましたが、ようやくフォトクラブのご尽力に寄りまして、バーントゥックアートセンターの一室を使うことができました。感謝申し上げます。長い間自分の課題として、あるいは目標として個展を開催するということを決めて、あれから4年たちました。チェンマイに来た当時から、個展をやるぞと人々に公言して、自らの退路を断って実行する決意を表明したのですが、自分自身を信用しているわけではなく、身体的に精神的に揺れ動く葦のごとくに日々の移ろいがありました。思えば、いままで、目標をたててそれを達成することができたのは、持続する決意があればこそというふうに考えていたが、本当はそうではないのだということを感じた日々でした。話せば長いメナム河で、作品をつくることに関して誰しも悩むのですが、お前は何を作り出せるのかという問いが常にあり、それは、作る主体である自己に目を向けざるを得ないわけで、これは若いころに自分さがしをするような漠然としたものではなく、この齢でそれを考えると、当然死というものを考慮にいれて考えるわけです。つまり死の側からみた生というような、仏さんに近い見方が出てくる。それは幻想なんだけれど、人は幻想性と現実性の両面を行き来するわけで、いままで、現実性こそ真理の根拠であるということが相対化されてくるわけです。人は齢をとると保守的になるというのは正確ではない。現実に対して観念的な相対化をするようになるのです。よりラジカルになるという意味です。ラジカル老人はチェンマイの特産です。みんな生き急いでいる。

ここからは作品論です。チェンマイにきてタイにきてもっとも印象的なことは装飾性です。日本のミニマリズムや侘びや寂びといった美意識になれたものから見れば、異質な世界です。ほんとうはこちらが世界標準であって日本が異質なのだけれど、装飾になれていなかった日本人の美意識というと語弊があるかもしれないが、日本の美意識の本流ではなかった装飾性は実は時代の反映でしかないのではないかと考えたのです。明治以降の政治的な意図のもとに抑えられたのが昭和の時代までは続いていたのではないかと推察するのです。もちろん近代ヨーロッパの影響は大きいのですがゴシックやバロックの影響は大きくない。たぶんそれを受け入れる美意識が乏しかったのかと思う。しかし工芸品はちょっと事情が違うのです。明治の工芸品と言えば、スーパーウルトラ技巧主義というか、装飾こそ命というような作品が多くつくられたのです。今ではもう作れないだろうという作品が多く誕生したのです。なぜかと言えば、それは日本を相手にしていない西洋向けの作品であったのです。当時の重要な輸出品でありました。外貨を稼ぐ産業でありました。そのころに世界市場に出たのは侘び寂びではなく、超絶技巧の装飾性でした。焼き物でいえば薩摩焼や京焼や九谷焼など絵画的な要素の強い装飾性を持ったものでした。ワシの家は九谷焼を稼業としていたので装飾性に対して免疫性があるのですが、日本の美意識の主流ではないという意識は常にあって、(伊藤若冲なんてゲテモノだと)やっていることと思っていることが違うじゃないかという自己矛盾を感じてはいたのです。それはだれでも持っている職業上の矛盾であるぐらいのとらえ方でいたのですが、心のどこかに引っかかっていたらしいのです。それを思いだ出させてくれたのがタイの装飾性です。装飾性についてもう一度考えてみたわけです。結論的に言うと、死の側から見ると装飾性の意味がガラッと変わるのですね。タイの寺院がなぜあんなに装飾を施されてあるのか、宗教的な施設建築というのは、なぜ装飾性をもっているのか。それはそこをおとずれる人々の内面に変化があるからです。拝むという行為は、自己否定なんですね。自分を無にして神に頼る時、すがる時、幻想の中ではあるが、自己が無くなり、一瞬の虚無の中に身ををゆだねるわけです。大きな仏寺は大きな虚無の空間になる。虚無を飾ることは、装飾こそ主体を表現している。つまりあの世とこの世をつないでいるのが装飾性なのだと。大胆にいうと我々の行為は虚無にたいする装飾だ。なにを言っているのかわからないかもしれませんが、装飾というものに一つの偏見をもちこんだと思ってください。てなわけで、作品作りにどのような影響が出たかと言えば、作るという意識をなくしてしまおうと考えたわけです。無心に粘土をこねて、飄々と風景を眺め、黙々として酒をすすり楽を聞く山中の独居人のごとくに。あるいは山中に牛を探す牧童のごとくそして、あの世とこの世をつなぐ三途の川に船を浮かべて月を眺める心境になってみようと思ったのです。そうすると、作品は作るものではなく成るものであって、自分は主体ではなく、装飾だ。主語ではなく形容詞さ。ものをつくる時は主語にはなるな形容詞として装飾としてふるまう。これが、東洋の神秘を生む秘訣です。そうやってみると、実に楽しい、鼻歌がでてくる、時間があっという間にすぎる。これがタイ的作陶術であった。

インクレイという陶房で、西洋人のおばちゃんが、ワシの作りかけの作品を見て、ゼン、ゼンというのでよく聞けば、禅的な作品ですねという意味だった。西洋人の禅の理解がどの程度かは知らないが、自分的には西洋的な意識が強いと思っている。オートマチズム的な作品だと思っております。ぜひご高覧のほど・・

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 表現の問題 | トップ | 個展が終わって »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記風雑感」カテゴリの最新記事