碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

暗い日曜日続

2022-01-22 10:47:05 | 日記風雑感

しんしんと冷えてくる夜には夜咄をやろうてんで、今夜はお集まりいただきまして・・仕度も整いましたので始めさせてもらおうかと思います。にじり口に榊の枝がありますんで、それで雪を払ってお入りください。狭い茶室でして多勢来られても困るんですが、ずずっと奥へ詰めてもらって・・今夜はコロナ御免の席でしてマスクは懐にいれていただいてよろしゅうござんす。と言っても後で熱が出た咳が出たといわれましても自業自得ですので、なんせ毒食わば皿まで、虎穴にいらずんば虎子を得ずということでやらさせてもらっております・・あとは神様に祈るだけとなっておりますな・・はじめに厄払いにまずご祈祷をいたしたいとおもいます。「とうとうたらりた~りら~ たらりあがりららり~とう~」・・そいじゃどうぞお神酒をひとつ・・今日のお神酒は<翁>にちなんで<万歳楽>です。あとから出すお菓子は<千歳>となっております。掛け軸はQRコードであります。読み込んでいただきますと笛の音が聞こえてくるようになってまして、これぞ影笛でしてお試しを。花は侘び助花入れは芭蕉の葉を巻きまして漆で固めたものでして、オキナワ産の葉です。駄洒落です。・・それで咄(はなし)はどこまでいったかというと「暗がり坂」の謂れについてでしたが最後のほうにちょっとふれましたが、坂を下ればそこは花街で主計町(かずえまち)というのですが、もとはと言えば冨田主計という加賀藩の武家の屋敷があったというから花街になったのは比較的歴史が浅い。浅野川を挟んだ対岸には東の茶屋街があってそちらが本家というか、古いのですが、昔の金沢には二つの遊郭があった。ひとつは今いった東山にある東の遊郭でもうひとつは西の遊郭として犀川を渡ってすぐの石坂にあった。二つとも川のそばでしかも城下の外に位置している。どこでも昔は花街は城下の外側につまり外と内との境界に作られている。権力を統治すものにとっては、自然神の力は邪魔だったが必要でもあってその結果周辺の境界に追いやられてしまうわけです。当時は身分差別が当たり前にあった時代です。遊興や芸にかかわる者なんてまともな職業として扱われなかった。いまだにそれは残っていると思います。たぶんそれは古代からひきずってきた差別の系譜が意識的か無意識的に織り込まれていたものと想像するのです。猿楽というのがあって、これが発展して能になったということですが、猿楽を演じた人たちは古代から差別されていたらしい。今にいたる差別問題の根っこにある意識が続いていると思いますな。そのような人々の演じる猿楽をワシは見たことがない。たぶん唄や踊りが変化して物まね軽わざなどが演じられたというふうに伝えられているが、これぞ猿楽というのを見てみたいねえ。猿の物まねでも演じたのだろうか、タモリの形態模写みたいな芸だったのかね。あの~ここで鶏みたいに首を振らないでください。やりにくくってしょうがない。古い形式の万歳やかくべい獅子などはどうなんすかね。中世に能として確立された演技者の金春禅竹と言う人がおりましてこの方が『明宿集』で能の演目の<翁>は宿神であると述べている。中沢新一氏の『精霊の王』なかで述べている宿神とは「古層の神」の一形態であり、境界性を表そうとする「サないしス音+ク音」の結合として様々に発音されてきた共通の神の観念のつながりから宿神シャグジの名前で芸能者の守護神となっている。と述べています。たぶん中沢氏は宿神の思想というか、宿神的概念を形而上学として扱おうとしているらしい、今後どのような展開になるのか楽しみです。日本には柳田國男の民俗学というものがあって、これは精神の考古学というふうに捉えているのですが、そういう意味で「古層の神」宿神のもつ思考の射程距離がいかほどであるのか、現代を貫きとおす力を持った神であるのかどうなのか少なくとも古代においてどれだけの思考のパワーをもっていたのか知りたいもんです。それで、また「暗がり坂」にもどりますと、実は主計町には坂がもひとつあるのをご存知だと思いますが、「暗がり坂」と平行してお茶屋の間をすり抜けると上に上がる坂道があります。先日ここを通ってみたらなんとこの坂にも名前がついていたので驚いた。しばらく日本にいない間に何があったのかしらないが、この街も変化していると気づいたわけなんです。しかし地名なんていうものは軽々しくつけるものではないと思う。新たに開発した場所とか建物施設なら理解できるが大昔からある場所にその時代の者が名づけるのは僭越な行為だ。歴史の捏造だ。とその時思いました。ウルトラ保守のおっさんみたいなこと言っているけどよく聴いてほしい。名づけられたその坂の名前はなんと「明かり坂」というのだそうだ。ワシは聞いてないぞ!勝手につけるな!ふざけるな!調べてみると五木寛之氏が名付け親らしい。アチャー!暗い、暗いという金沢の情緒にともし火をつけるつもりでつけたのかどうか知らないが。ワシに言わせれば浅はかだ、暗さを誤解しているわ。ワシは金沢市に多大な文化的貢献をした五木寛之氏にうらみはないが違和感がある。あ~だいたいやな~誰が発案したか知らないが、金沢市の観光課か都市開発課のお役人的な仕事ではないかい。え~責任者出て来い。と叫びたくなったのです。よく聴け、一度名前をつけると後には戻らない。一度分節すれば無化できない。今日の咄の文脈から言えば、後戸(ウシロト)という概念空間を無視している。神という形(名詞)が示現してくる以前の闇(無秩序)(混沌)(生命力)というものを捉えているとは思えない。意識の底の底に揺らめく発芽の闇というものを見つめることができるような場所はあまりない。神社があってその後ろに暗い坂があって下っていくと下は河原でその境界で茶屋があるなんてところはめったにない。民俗学者なら泣いて喜ぶ場所なんで、そんな場所に今の時代に名前をつけることは限定であり狭い思考の幅に閉じ込めることだ。文学者としてそれぐらいはわかっているはずだ。よく聴け、「暗がり坂」は名詞ではない。底へ下りていく人の心情を表す形容詞なんです。名詞の限定性確実性以前の形容詞なんでまだ闇を引きずっている状態であり少なくとも闇の存在を意識させる現れなんです。それを解っていない。金沢の「闇」「暗さ」「沈黙」の底辺を見たら決して名前をつけようなんて思わないだろう。例えば鈴木大拙があるいは西田幾多郎がそして泉鏡花がどう思うだろうか。たぶん名前はいらないというのではないか。よく聴け、百歩ゆずって、後戸から何かを示現させたいというふうに考えていたとしたら、言語化しなければわからないと考えていたならば、ほかに方法があるはずなんで、この坂の上には泉鏡花の家があって今は文学館になっていますが、つまり豊饒なる闇と泉鏡花をつなぐ紐帯としてこの坂を舞台に演劇、朗読、舞踊、大道芸、ETCといくらでも表現できるはずなんです。ここで「翁」を舞ってみたら面白いぞ。あるいはそれこそ小説でも書けばいいのではないかね。そうなれば五木寛之氏の得意技でしょう。現に坂上に小屋があって、朗読会が開かれているけど、意識が泉鏡花の時代以後のつまり近代以降の意識で組み立てているので、早い話経済的要素が主であり、文化はその手段ぐらいにしか考えていないわけで、それならそれで「金持ち坂」とか「金福坂」にしてお金という神様にすがったほうがいいのではないか。しかし、金沢人は教養がじゃまをしてそこまでやりたくないのです。その妥協の産物が「明かり坂」という昭和歌謡の匂いがぷんぷんする名前になったのかもしれません。 ネオンの明かりで闇が消えていく、昭和の高揚感はすでになく、令にすがる和の時代、一周遅れのノスタルジーと悲しさだけの通り道 ♪~あなた変わりはないですか、日ごと寒さが募ります、見てはもらえぬ文章を、寒さこらえて書いてます~♪

そうなんですよ山本さん。事件は現場でおきている。ってわけで、淺川さん、ながらくお時間をいただきました。森田さん退屈なさらなかったですか叔父さんによろしく、黛さんは・・もう帰った。そうですか。ヒロシはどうした、またキャンプに行ったって、この寒いのに。あと一時で夜も明けようかとう時刻になりました。粗末なシコウで恐れ入りますが、お神酒がまだ残っておりまして、いえ、ワシの頭ほうにです。足元にお気をつけてお帰りください。ありがとうございました。ところで正客の<翁>さんはどちらへいかれたのかな?「後で寝ています」。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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