碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

タイ9

2015-06-30 15:05:59 | タイ紀行
装飾性について一言ふれたいと思います。このことについて考えがまとまっているわけではないので恐縮しますが、最もプリミティブな美の衝動あるいは、美的な認識の最初の一歩が装飾性でないかと思うわけです。子供にクレヨンを持たすと、最初は紙に自由な線を描くそしてそれがやがて色面となる。それに飽きると別の色でまた同じようなことを始めるのを見ることができます。決して最初から形や構図を考えるわけではありません。それが装飾です創作の第一歩です。そして装飾の最も重要な特徴は「自由」です。形にとらわれることなく、色にとらわれることなく、ましてやその意味にとらわれることなく、ただただ飾ること、描くことの自由を楽しむのが、装飾です。その結果理性的な表現でなく感情的な感覚的な表現になることが多いのですが、ここに誤解というか間違いが起きて、理解しやすい写実的なものが理性的で、ちょっと理解できない抽象的なものが装飾的という風なことをいう人がいます。たとえば有名なクリムトの「接吻」 です。この絵を見ると誰でも装飾的といいますが、ワシに言わせば、非常に理性的な計算された絵です。写実と非写実の対比によるコンポジションです。西洋の長い写実的な絵画の歴史が頭にあるから、非写実の部分だけ見て装飾的というのでしょうが、この絵の主題はあくまでも写実の部分です。写実の部分を浮き上がらすようにするために、周りを非写実的な文様で埋めてその効果を狙っているのは分かると思います。まさに写実の部分のための装飾にすぎません。写実の部分をなくしてすべて文様で埋めてしまった時に装飾的といえる。主題がなくなるから、べつの言い方をすると、主題から解放され「自由」を得るからです。なんか偉そうなことを口走っておりますが、パウル・クレーは『造形思考』のなかで、「芸術の領域における第一の段階は、投影による規則的な逸脱である。これによって運動の中に自由が生まれ、自由の中に運動が生まれる」と言っております。平たく言えば「絵を描く最初の段階は描こうとするものを考えると、点とか、線とか、面とか、そのフォルムとか、遠近法とかさまざまの規則的なことから逸脱している、そんなことはまだ考えていない。それによって様々な絵の要素の組み合わせの自由が生まれ、その自由さからまた新たな組み合わせが生まれる」というようなことでしょう。彼は画学生を相手にした講義の内容としてこのようなことを述べているのです。つまり絵の最初の段階は装飾的なんです。規則性から逸脱しているんです。だから自由なんですね。言語学的な言い方で言うと、指示表出、パロール、のほうに含まれるのかもしれません。あるいは吉本流に言うと内臓言語だと言える。「絵画は装飾だ」と割り切れば、もっと自由になるはずです。



これもコンテンポラリーミュージアムにあった、タイの装飾された衝立、というか間仕切りに描かれた文様です。よく見ると左右対称になっておりますが、下のほうのウサギだけは違っております。規則的なるものからの逸脱です。このウサギを見ると細かく書き込まれた樹木の閉塞感とシンメトリーの緊張した束縛から解放されます。ほっとする瞬間です。粋ですね。やるじゃん。






この絵の装飾性は一目瞭然です。後ろの家が遠近法から完全に逸脱してます。遠近法から逸脱することで虚構性がでる。ファンタジーの中に入っていくような気分になってくる。東洋の絵はここまで自由なんだと規則性の不毛にとらわれていたかつての西洋人が驚いたわけです。
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