Jacarandaの木の下で

2004年〜2006年
ザンビア共和国での在外公館派遣員の記録

僕の旅~スペイン前編~

2005-08-09 07:25:47 | Weblog
ケニア・ナイロビ空港を発ちアムステルダムを経由してマドリードに降りた。
遂にヨーロッパ大陸に足を踏み入れたんだ。
案内板がスペイン語へと変わる。
預け荷物のカバンをピックアップし、ふとチャックが開いているのに気付く。
ない。いろいろなパンフレットにまぎれて入れていた携帯電話だけが無い。
やられたかな。きっと預けた後にやられたんだろう。
荷物には連絡先として名前と大使館の名前の書いた札を付けていた。
それがまずった。
ま、仕方が無い。済んだことだ。

インフォメーションで安宿を聞き、地下鉄に乗り込んだ。
電車の中でギターを弾きながらスペインの歌を歌う男性が一人。
スペインに辿り着いたんだと気持ちが高ぶり自然に顔がほころぶ。

外に出ると真夏の太陽があった。
道を探り探り、通行人には英語が通じない。
何度か同じ道を通りながらも宿に着いた。
久々のドミトリー。僕の部屋は男女混合12人部屋。
オーストラリアでの生活を思い出してきた。

僕はシャワーを浴び、汗くさくない服に着替える。
そして宿をでる。
地図は見ない。どこかへ行けば必ず何かがある。
1時間も歩けば街のおおよその雰囲気や、地理感覚はわかるもんだ。

聞こえてくるのはスペイン語。これは新鮮だった。
出発前に連絡をしておいた、スペインの派遣員に電話をし、夕食を食べる約束をする。
休暇前にバタバタしていたせいで、何一つ決まっていなかった。
マドリードで何をするかも何を見るかも考えていなかった。
美術館には興味が無い。旅は始まったばかりだから荷物を増やす買い物もしたくない。
ひたすら歩いた。

マドリードは確かに都会で、また歴史のある見るべきものもたくさんあったに違いない。
けれど僕はこの街にあまり長居をする気にはならなかった。

派遣員とハム専門店に入った。
見渡す限り燻製になってしまった牛の脚がぶら下がっている。
注文は彼女に任せると、生ハムメロンがでてきた。
あいにく僕は生ハムメロンを食する心の準備ができていなかったけれど、僕も立派になったもんだとそのアンバランスな味を楽しむ。

宿に戻るとロンドンでの爆破事件のニュースがやっていた。
まったく物騒な世界だ。

これからの予定を少し具体化してみる。
ここは2泊で離れ、今回のメインイベントの一つである牛追い祭りのパンプローナに行こう。
朝に電車がある。
3日目の朝早く、一か八かで宿を離れ、切符を買いに並ぶ。祭りでしかも週末だからもしかしたら電車がいっぱいかもしれないと不安だったけれど、難なく購入でき、電車での旅を始める。

街を少し離れると田園が広がり、大きな風車が列をなす。
この旅は電車とバスでの移動。この電車の揺れや、あまり変化の無い景色がたまらなく僕を嬉しくさせる。

約3時間ほどでパンプローナに到着。
降りるとそこは白の服に赤のスカーフをした人々しかいない。
みんな疲れきって電車を待つ間にかばんを枕にホームに横たわっていた。
あまりに小さく、祭り以外にはまるで観光価値の無いこの街は僕のガイドブックには乗っていなかった。人はたくさんいるけれど駅を降りてどうすればいいか全く見当が付かない。
とりあえずバスに乗って中心地へ行ってみた。
街は赤白の服にサングリアのしみをつけた人間が酒を持ち、また道端で死んだように眠っていた。
かばんを預け、インフォメーションで並んでいると日本人に声をかけられる。
どうやら彼も一人で来たらしい。
僕は既に野宿覚悟でいたため、寝袋しか持ち歩いていなかった。
けれど彼はどうしても宿に泊まりたいと言うので一緒に探してみる。
この時期はまず無理だと聞いていたけれど、すぐに見つかった。
でも高い。普段の3倍くらいは取ってるらしい。
一旦は諦めていた宿だけれど、やはりあるのとないのでは心の余裕が違うのでここは金に糸目をつけず入った。
全く英語の通じない婦人だけれど知ってるスペイン語の単語をフル活用した。

街の午後は休憩時間。
マーチングバンドがそこかしこで演奏し、その後をまだ酒の抜けていない輩が踊る。夜通し飲んだ輩は道ばたで眠る。
簡易シャワー場は大行列。

僕らはここを離れる鉄道を早々と予約しに駅で並ぶ。
またもや全く英語のできない窓口には長蛇の列が並び、一人終わる事にみんなから拍手があがる。僕らは3時間並んだ。

翌日の牛追いを闘牛場から見るためのチケットを購入し、屋台で夕食を済ます。
音楽のかかった屋台近くではスペイン娘がフラメンコの真似事をし、テンションのあがった僕らもその真似事に加わって踊った。
ようやく暗くなってからがこの祭りの本番の始まり。
パブだけでなく道も歩けない程、人で埋め尽くされ、ある人は踊り、ある人は脱ぎ、ある人は小便をしている。
簡易トイレはあるものの人の数に対してあまりにも少ないため、男はそこら中で好き放題用を済まし、街には酒と小便の匂いが染みついている。

フラメンコ娘と再会した僕らは一緒に酒を飲み馬鹿騒ぎをした。
僕の連れはいやらしい動きをして完全にひかれていた。
初日と言うこともありあまり無理をせず宿に帰って寝る。

翌朝、街は大渋滞。
闘牛場に入るのも一苦労だ。
花火の合図で牛追い祭りが始まった。
スタート地点から走ってくる牛と輩を僕らは闘牛場で今か今かと待ち受けていた。

初めに人間が入ってきて、その後を大人の牛、子供の牛の順で入ってきた。
牛を一度闘牛場の奥の檻に入れて体制を整える。
ここからが見物。
牛が出てくる出口に輩が集まり、座って牛の登場を待つ。
次の瞬間、ゲートが開く。
牛は座っている輩の中心に飛んでくる。
一斉に輩は逃げ惑い、ある人は踏まれ、ある人は刺される。
数百の人間が子牛一頭相手に慌てふためき逃げ惑う姿は滑稽極まりない。
人間とはこんなにも微弱な動物なんだと思い知らされる。
けれど、久しぶりに腹が痛くなるほど笑った。
腰を抜かして動けない人や不意をつかれて数メートルも後ずさりした勢いで転倒する人。
街の道での追いかけっこを見るよりもこっちの方が余程見ごたえがある。
時間が来ると牛が変わり、約45分程で終わる。
そこからはまた夜の祭りに入るまで、前日のような光景が広がる。

僕らはその夕方、本格的な闘牛、闘牛士と牛の戦いを見た。
次々と刀を刺され、血まみれになっていく牛。
それでも赤い布に対して、闘争心で向かってくる牛。
最後は既に動くこともままならない牛の頭部を一刺し、牛は命を落とす。
可哀想だとは思う。けれど闘牛場の興奮や闘牛士の真剣さがそれを悲劇と感じさせない。

翌日、この街と祭りを十分に堪能した僕らは列車に乗り込み地中海を目指した。

写真:スペイン<マドリード~パンプローナ~バルセロナ>

僕の旅~ケニア~

2005-08-05 08:28:49 | Weblog
7月2日、一ヶ月にわたる僕の旅が始まった。
友人から借りたバックパック一つ背負い、15年前のガイドブックを頼りに予定より一週間ずれ、僕はケニア航空機に乗った。
流れる機内アナウンスは英語とスワヒリ語。
アフリカの国を旅するのはこれが初めてだ。

ナイロビ空港に着いた。
入国審査でビザが必要と言われたけれど、そんなこと聞いたことがなかった。
はなからケニア人を信用しないでいたからかなり警戒レベルを高くもっていた。
オフィスまで言って責任者と話すとどうやら本当らしいけれど、50ドルは高い。
でも決まりは決まり、用紙に書き込み、ビザ申請のデスクで用紙と50ドル札を渡すとスタンプの押されたパスポートと10ドル札5枚が戻ってきた。そして係官は僕に金額を確かめろと。
いや、しっかりと払った50ドルそのまま返ってきたよと言うと、係官は「今日はいらない、通れ」と言う。
確かにビザはおりていた。なんて国だ。
ザンビアでは10ドル札より50ドル札の方が換金レートが良い。
もしかしたらケニアでもそうで、係官が得をするためにただ両替をしただけかもしれない。スタンプを何人に押そうが他の人にはわからないから。
なんて国だ。ますます不信感が増した。

初日はナイロビに泊まった。
ナイロビはアフリカ的な都会。
日本やヨーロッパに高層ビルがあってもなんとも思わないけれど、このアフリカ大陸にここまで高層ビルがあると違和感がある。
建物は古い。経済のよかったその昔に建てられたものだろう。

ホテルにお勧めのレストランを聞いてタクシーで向かう。
なるほど、歩いていくというのを制止された理由が分かった。
レストランの前では目のうつろな輩が何人も横たわっている。タクシーから降りてすぐレストランに入る。レストランの入り口も鉄格子が付いている。

翌日5時間かけて陸路でマサイマラへ向かう。
飛行機でもいけるけれどそれでは面白みがない。
点ではなく線の旅がいい。
道中にはアフリカ大陸の裂け目、「大地溝帯(グレートリフトバレー)」が広がっている。まさに大陸の溝、辺りは高い山に囲まれそこだけ平原が広がる。なんて規模が大きい景色だろう。

マサイマラに近づくにつれ、赤い布をまとった「マサイ族」の人間がちらほら目に付くようになる。町にいる彼らは自転車に乗り、洋服を着ている。でも木の棒を持ちシンボルの赤い布必ずまとっている。
そこで彼らを写真に撮ることは厳禁。法律で罰金をとられるらしい。
国立公園内に入らずとも、野生の動物が見える。キリン、アンテロープ、ゼブラ・・
危険なため彼らを避け車を止めて、ケニアの大地でする小便はなんて開放的なんだろう。

ロッヂに到着し、午後からサファリに出る。
広い。視界も広い。どこまでも見える地平線は残念ながらザンビアの国立公園は到底相手にならない。
動物もまとまっていて、探さずとも遭遇する。
運転手の勘で向かった先にはチーターの家族が狩りをしようと移動していた。チーターはかなりレアに違いない。
彼らの体のラインはすごくセクシーで、確かに速そうだ。
残念ながら狩りは見れず。

ライオンもいる。そのライオンに顔を喰われたバッファローが横たわっている。ダチョウもいる。あまりに当たり前に見れるから彼らが野生だということを実感できないけれど、確実に彼らはここで弱肉強食の世界に生きている野生の動物なんだ。そのライオンが手を伸ばせば触れる距離にいた。

カバはあの図体でおよそ60キロのスピードで走れるという。動けるデブって奴だ。カバの子供がワニを襲おうとしていた。そのくらい強い。

翌日、マサイ族の村を訪ねた。
そこは観光客相手にしているけれど、確かに普通の部族的な生活もしている。
僕らが着くとまず20ドル払わなくてはならない。払ったその瞬間から撮影許可がでる。
そして伝統ダンスと歌で迎えられる。見てる分にはいいが、その連中が飛び跳ねながら近付き、囲まれた時は本気で怯えた。情けない。
そしてライオンの顔の皮を剥いだ被り物を被らされ、一緒に求愛のジャンプをする。高く飛べれば飛べるほどモテるという。
案内する人間は英語ができる。マサイの食べ物や、一夫多妻の話、教育の話をしながら動物の糞でできた道を歩き、明かりの無い家の中を案内される。
一通りエキシビジョンをすると無理やり土産物屋へ連れて行かれた。
そこへ入るとさっきまで飛び跳ね、歌っていたマサイの男女が急変して、関西のおばちゃんになる。これ買え、これくれ、と好き勝手に売り物を人につけたり、僕のものをとろうとしたり。唖然。誇り高きマサイ族、この姿はよろしくない。

2日間、マサイマラで過ごし、ナイロビに帰る。
明るいうちだから平気かと街を歩く。さすがに危ない匂いのするところはすぐ引きかえしたけれど、それでも人でごった返す旧市街に足を踏み入れた。
アフリカの中の都会、溢れんばかりの人で街が埋め尽くされている。
黒人には慣れているから大丈夫だろうと自分に思い上がっていたのが間違いだと後々気付くことになる。

夜のフライトを控え、ホテルのロビーでこれからの予定を立て、この旅に出る前に館員にもらった「海外旅行危険談」の本を読む。
そこにはナイロビは世界でも3本のうちに入る危険地域、白昼街中でも殺人があっても全然おかしくない、平気でナイフで刺してくる等等。
危険とは聞いていたけれども自分の意識の低さと、無謀さに冷汗が出た。

ホテルを夜八時に出発するのさえ怖くなっていた。
ホテルの用意したタクシーに乗ると、これまた暴走タクシー。マナー最悪のナイロビ道路事情の中、数センチのところで追い越しをかけ空港に向かう。
着いて話すと、僕のフライト時間がわからないからとりあえず急いでみたと。
一言聞いてくれたら無駄に汗をかかなくて済んだのに。

ビザの一件があったから空港で一悶着無かろうかと心配したけれど、すんなり通り、初のヨーロッパ大陸上陸にドキドキしながら飛行機に乗り込む。
預けたバッグを開けられているなんて気付きもせずに・・・

~ケニア写真~



帰宅。

2005-08-02 06:08:05 | Weblog
31日、僕は無事ルサカに降り立った。

1ヶ月間の旅が終わり、内心すごくほっとしている。
思い返せば濃い1ヶ月。
よく歩き、よく迷い、よく飲んで、よく遊んだ。
最後の一週間は疲れてクールダウンに費やした。

旅日記を書きたいけれど、おそろしく長い文章になるし、明日の仕事始めが早速朝5時出勤なので今回は帰宅報告まで。

写真はケニア・マサイマラにて、マサイ族を訪ね、一緒に求愛のジャンプをしたときのもの。