意思による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意思に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

新日本文学史 秋山虔、三好行雄 ****

2018年11月05日 | 本の読後感

今は何でもスマホで調べられる。調べたいそのものの検索性能は問題ないが、調べたその隣にたまたま書いてある記述を読んでみてなるほどと思う、なんてのはやはり紙の書籍。

先日、方丈記の内容が見たくて本書を手に取り、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と見ていると、その隣に方丈記に記述された五大災厄である安元の大火、治承のつむじ風、福原遷都の災難、4万2千人の死者を出した養和の飢饉、元暦の地震のことが書いてあって、まるで今年の夏の日本のような風災害が13世紀の時代にも大きな災害が西日本を襲っていたことがわかる。そして鴨長明の後半生は不幸の繰り返し、大原に隠棲したあとに日野の法界寺の方丈の庵に移住したので「方丈記」の名が定着したと。法界寺といえば宇治の実家に滞在する期間、ウォーキングのコース上にある。日野の誕生院として親鸞誕生の地と思っていたが、鴨長明もいたのだと気がつく。

そういえば実家の片付けをしていると、母がしたためた書が出てきた。「仏は常に在せども、現ならぬぞあはれなる、人の音せぬ暁に、仄かに夢に見えたまふ」調べると梁塵秘抄の一節である。今様と呼ばれる各種の謡い物とか雑藝(ぞうげい)などの集めたものが梁塵秘抄だと。白拍子が踊りを踊るときに歌われた「当世風謡い」であり、当時古臭いと考えられていた催馬楽や朗詠に比べて今風という意味らしい。その記述の隣には日本の歌謡の歴史がまとめられていて、昔は神社で奉納された神楽歌があり、短歌を二部に分けて歌ったが、東遊歌は東国の民謡だったのが神前歌舞に使われだしたとある。それに対し近畿地方で歌われたのが催馬楽で貴族の遊宴歌謡として流行した。催馬楽には恋の歌や滑稽、風刺歌もあったというが、朗詠は漢詩や和歌に曲節をつけたもの、それらを集めたものに「和漢朗詠集」があり、その後出てきたのが今様、となる。

百科事典と同じで、調べたその隣の記事を読んでちょっと知った気になる、ということで、スマホで調べるのとは少し違う。630円でこれが手に入るなんて驚き。一家に一冊あってもいいんじゃないか。

原色シグマ新日本文学史 (シグマベスト)

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「ニュータウン」の明るい未来

2018年10月16日 | 本の読後感

 昭和の高度成長時代からバブル時代まで、日本全国に多くの「ニュータウン」が開発され、戸建てでもマンションタイプでも大人気で入居は抽選、子育てが始まる世代がこぞって入居した。有名なところででは「多摩ニュータウン」「千里ニュータウン」などなど。関東近郊にも多くのニュータウンが建設されたが、報道や書籍で報じられている通り、入居者の高齢化、建物の老朽化、近隣商店街のシャッタータウン化などで、問題点が整理され指摘されているが、解決策は多様でまとまりがない物が多い。単体のマンションであれば、全棟建て替えに踏み切ったり、入居者のコミュニケーション向上や活性化からのマンション自体の魅力向上策で、生まれ変わった実例も紹介されているが、もう少し大きな規模での「ニュータウン」活性化となると問題は単純ではない。「自分のマンションは管理が行き届いていて住みやすいから大丈夫」と考えていた私も、管理組合の理事を経験して考えが変わった。私自身が暮らすマンション管理組合、27年目の大規模修繕を組合理事として担当し多くの問題に気がついた。複数棟で構成されるマンション型ニュータウンで、大規模実際に起きている現象と問題点を整理してみる。

 1.入居者の高齢化 管理が行き届いて住みやすく、住替えが少なかったニュータウンでも、30歳代で入居してきた住民たちが、築後40年経過して平均年齢が60歳から70歳代になると、所有者の高齢化、子供世代への相続、管理組合員高齢化に伴う管理組合活動の停滞がおきる。具体的には、昔は活発だったお祭りやコミュニティ活動も参加者が減少することで徐々に規模が縮小され、町内会(自治会)と全員参加の管理組合との協力がスムーズに行かないケースが増える。子供が少ないので町内会への参加率自体が減少する。それでも、意識ある管理組合の役員は、植栽の入れ替えや、大規模修繕の定期的実施、災害対応の充実などで住民のニーズを汲み上げ、活動を続けるケースも多い。管理組合の議決事項での問題は、過半数で実施できる定期的な大規模修繕や植栽の大規模な伐採などなら委任状を集めてなんとかクリアできるのが、入居者の4分の3の賛成が必要な大規模な工事(2階建て駐車場の取り壊しや階段だけの5階建て棟に新規にエレベータ設置などの「変更行為」実施)や、まして5分の4の賛成が必要な建て替えとなると、とてもとてもスムーズに必要数の住民合意を得ることは難しい。もともと、車やエレベータの必要性に差異が大きく、所有者の高齢化から収入が減少してきているため75%の同意を取り付けることは容易ではない。管理費や修繕積立金の小額の変更でも、話はなかなかまとまらない。相続して子供世代が所有者になり、現実には入居せず賃貸しているケースでは、こうした現状はさらに伝わりにくい。

2.建物の老朽化 昭和時代の鉄筋コンクリートは、しっかりした施工なら100年は持つとも言われるが、外壁塗装、シール部分のコーキング、屋根の防水加工再張替え、排水管メンテナンス、上水タンクとポンプ修理、ベランダ防水、不同沈下や地震に伴うひび割れ対応、階段やエレベータメンテナンスなどをこまめに実施しなければ、建物の躯体は大丈夫でも水漏れや排水管など、住みにくいマンションになる。大規模修繕を13-4年毎にしっかり実施したとしても、50-75年で建て替えの議論になるのは、こうした総合的なマンション管理が計画され実際に実施されてきているかどうかがポイントとなるからである。日常の管理が行き届かないマンションや、修繕積立金が不足していて、13年程度に一度の大規模修繕をしていないマンションでは、築後20-30年位から住居の問題が顕在化してくる。人通りが少なくなると安全面、衛生面でも問題が出るケースも有る。そもそも、同じ管理組合内でも階数が異なる棟が含まれていて、5階建てと11階建てではエレベータや修繕のニーズが異なる。今後は棟別会計や隣の管理組合との協力必要性も浮上してくる。

3.近隣商店街のシャッタータウン化 大規模なニュータウンの住民が高齢化すると、近隣商店街の営業活動にも影響が出るため、近隣に別の商業的集積があるような場所でなければ人通りが減り商店街は寂れてくる。これは住民の努力だけでは如何ともし難い部分だが、買い物や食事は近隣でする意識は重要である。そのためには魅力ある近隣商店街の育成に協力する意識と、管理組合自身によるの商業活動への参加も望まれる。

ニュータウンができた頃には存在しなかったSNSなどやメールなどのネットワークがある今の時代においては、これを住民同士の交流に使わない手はない。管理組合や町内会活動、管理組合同士の連絡や住民同士の交流にSNSは大いに活用できるはずであり、ITの知識も経験もある自分には貢献できる部分があるのではないかと考えている。こうした問題意識を持った上で、具体的な解決策を見出し、実際に行動するまでの道のりは結構長い。まずは基本的な知識を得るために、マンション管理のお勉強をしようと考えている。現在進行中の宅建取引士の勉強範囲は宅建業法、民法、借地借家法、不動産登記法、国土計画法、都市計画法、建築基準法、それに税法など。11月25日のマンション管理士試験の試験範囲は、民法、建築基準法、不動産関連などが半分程度重なるので、宅建取引士試験が終わったら、マンション特有の区分所有法、管理規約、マンション管理・修繕などのマンション管理のお勉強にスムーズに移行できるはず。宅建取引士のお勉強は試験日10月21日まであと少し、目標は具体的で差し迫ったほうが良いはず。「ニュータウンの明るい未来」を目指して、もう少しの頑張りである。

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宅建取引士のお勉強 ****

2018年09月15日 | 本の読後感

 今年は宅建試験を受験しようと思いたち勉強している。参考書は下記の通り。本書によると、宅建試験を受験申し込みする人の数は毎年23-25万人、受験者数が19万人程度で、合格率が15-18%程度、50点満点で31-35点程度を取ると合格できるというラインである。そんなに多くの人たちが資格取得に励んでいるとは知らなかった。不動産業者の方の名刺をいただくとよく印刷されているこの資格、大学時代の先輩が「持っているよ」といっていたのを思い出す。そんなに門戸が開かれているならとチャレンジしてみることにした。

出題範囲は宅建業法関連で20問、民法などの権利関係が14問程度、建築基準法など法令上の制限や不動産関連法、税法関連で16問程度。今夏の暑い盛りが終わって、涼しくなりかけた頃にお勉強を始めて約ひと月、やりにくいのはこの最後の法令上の制限、税法関係である。なにしろ身近な経験がない。そういえば宅建業法だって身近な経験はないのだが、範囲が宅建関連業と取引士が行う業務に限定されていて理解しやすい。民法は難しいが、問題が身近で問題自身の理解がしやすい。それに比べて、宅地開発や都市計画、不動産鑑定などはちょっと想像もできない話も多い。それでも、最初は難渋していた暗記というやつだが、一通り読了して、問題をといてみる段になると理解できたものは解けるし、していないものは回答に迷う、当たり前だが皆目見当もつかなかった最初に比べれば、お勉強が「一周回る」ということの重要性を認識する。

買ってみたこの教科書と問題集、決めたきっかけは絵が多いこと。難しい問題は飛ばしてもいいんだよと進めてくれていること。それにカラーで読みやすいこと。60歳を越えてのお勉強は少しつらい気もするが、お勉強している時間はある意味での充実感もあるし、資格を取得するという目標は励みになる。試験は10月21日、結果はすぐ出る。

 

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川瀬巴水 画集(1,2) ***

2018年08月26日 | 本の読後感

川瀬 巴水(かわせ はすい)は明治16年に生まれた大正・昭和期の浮世絵師で版画家。江戸時代には一世を風靡した浮世絵を新版画として再び確立した。日本各地の絵を版画として作成、昭和の広重と呼ばれた。欧米でも広く知られ、高く評価されている本書には大正10年に発刊された「東京十二題」や大正15年の「日本風景選集」昭和5年の「東京二十景」などから合計124枚の作品を掲載している。

大正昭和の東京や日本各地の風景、そして一部伊東深水のような美人画も掲載されていて心が和む。安いからKindle版で購入したが、こういうのは紙の豪華版で見たい。

https://www.amazon.co.jp/gp/product/B00S8K4YQU/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=tetsu814-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=B00S8K4YQU&linkId=14cfa6aab87e339d6311ffdad04a1a62

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東京名所 井上安治、小林清親 ***

2018年08月23日 | 本の読後感

1889年に26歳の若さで亡くなった井上安治と、1915年に亡くなった安治の師となる小林清親による、明治10年発行の画集「東京名所」の全100画を一つにまとめたお得版のKindle本。清親とは、まだ少年であった安治が二時間も写生するのを見ていたことから知り合う。作品は光線画という浮世絵であり、光と陰を巧みに表現し、明治の東京のまだまだ開拓されていない頃の風景が、素朴なタッチで描かれている。

先日、Eテレを何気なく見ていると、井上安治が紹介されていて、東京の明治の頃の姿があまりに良かったので、見終わると直ぐにAmazonから購入した。北斎のような、派手なフレーミングや驚くような視点はなく、師匠の小林のダイナミックな動きもない。あくまで人の目の高さから見た、実に何気ない普通の町の風景である。本書では同じ構図同じ場所を描いた二人の作品を並べて比較、二人の特長を分かりやすく解説している。明治の東京というと、文明開化で賑やかな絵が多いが、実際は大名の大きな武家屋敷が無くなり、空き地だらけで、まだまだこのような地味で素朴な町だったと思う。

落ち着いて、パラパラとページを前後ろに捲りながら読みたい。

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昭和ー戦争と平和の日本 ジョン・ダワー ****

2018年08月10日 | 本の読後感

 「敗北を抱きしめて」「転換期の日本へ」「吉田茂とその時代」で書かれてきたことを、目次のようなテーマ別に整理し直したという内容。

1 役に立った戦争
2 日本映画、戦争へ行く
3 「ニ号研究」と「F号研究」――日本の戦時原爆研究
4 造言飛語・不穏落書・特高警察の悪夢
5 占領下の日本とアジアにおける冷戦
6 吉田茂の史的評価 
7 日本人画家と原爆
8 ふたつの文化における人種、言語、戦争
9 他者を描く/自己を描く――戦時と平時の風刺漫画
10 日米関係における恐怖と偏見
11 補論――昭和天皇の死についての二論

印象に残るのは吉田茂評価と米国側日本側双方の人種的偏見について。吉田茂は大久保利通の息子である牧野伸顕の娘と結婚した。これが吉田茂の現実主義者的側面につながるのかどうかは証明できないが、実際西園寺公望を大使としたヴェルサイユ会議に牧野のお付きとして派遣されたように、政治的理念のようなものを受け継いだことは想像できる。その後、外交官として中国各地の領事を経験、日本が欧米諸国と対抗して行く政治的傾斜にブレーキをかけようとする。太平洋戦争中にも宇垣一成や近衛文麿を担ぎ出して反戦グループを形成し投獄される。終戦時、すでに67歳だった吉田茂はこうした「経歴」がGHQからも評価され終戦後の首相を務めることになる。GHQとしては日本でやりたい改革を日本で実行する「駒」として使いやすいと考えた。しかし、そのときに吉田が考えていたことは、GHQが考えていた日本の民主化から考えると相当保守的だった。つまり、国体の護持、共産勢力弾圧、日本的伝統復活、経済の繁栄、国際地位向上などで、その後GHQが打ち出す憲法草案、マッカーサーの五大改革など、反共産主義政策以外は吉田から見れば急進的で実行は無理、であった。当初から潜在していたGHQと吉田政権の摩擦は、再軍備要求から顕在化する。そもそも、日本が戦争に傾斜し突入してしまった理由を吉田は外交的つまずきと軍部の暴走と捉えていたが、GHQは明治維新以来の政治構造的問題であると考えていた。

吉田はこのようなズレをどのようにして実装していったのだろうか。日米の良好な関係確立、古い日本と新しい日本の共存、天皇制の維持と象徴天皇受け入れ、民主主義の実行と帝国日本制度の復活、男女機会均等の実施と伝統的価値観維持、これらの実現はサーカス的だがこれがGHQから見ると「吉田の本心が見えない」と映る。マッカーサーによる強権的改革がなければ実現できなかった日本の民主化と非武装化であったが、このサーカス的実装が現在の日本に占領の遺産として残る。日米安保条約と米軍基地(地位協定)がある前提での平和憲法である。

もう一つは人種的偏見、米国側の人種的偏見については、東洋人、日本人に対する差別的意識であり、現在でも根強く残っている。部族的、集団的、儒教的家父長制、人種的知的能力という見方であり、アジア人全般に対する白色人種から見た一般的偏見につながる。日本側の人種的偏見については、対白色人種、対アメリカ人だけではなく、対黒色人種、対アジア人についても言及。戦後の「ちびくろサンボ」や日本政治家による人種的差別発言などにも触れ、こちらも根強く残ることに言及している。こうした偏見は、戦後、貿易摩擦や安保条約の議論があるたびに、両国に同時に現れることを述べ、背景として太平洋戦争で顕在化したお互いに対する恐怖感と差別、軽蔑による戦意高揚が依然として残存することを前提に、それでも双方国民による相互理解と前向きな議論を期待している。

天皇制度については、日本における天皇制度の歴史について触れ、日本に残る古墳群、特に伝応神天皇陵、大仙陵古墳などを科学的に発掘分析することにより、天皇系列の歴史的真実に日本人が真正面から向き合い、事実を受け入れた上で現在の象徴天皇制度について認識する必要があると述べている。

ジョン・ダワーの著作を読むたびに考えるのは、憲法議論を日米安保条約と合わせて議論し未来の日本についての議論を戦わせない限り根本的解決はないということである。サンフランシスコ講和条約の締結に至る経緯を見れば、日本における米軍プレゼンスと日本国憲法の存在が条約締結の前提だった。サンフランシスコ講和条約には不参加だった中国、韓国との日中、日韓関係の今後についても、こうした歴史的視点がなければ前向きな解決は有り得ないことも再認識する必要がある。「歴史認識」の出発点は明治維新以降、日清日露戦争以降の欧米諸国との各種平和会議での日本政府の振る舞いであり、日本軍部の暴走を日本政府と国民が抑止できなかった反省を現行憲法や政治的制度にどのように継続維持していくのかである。憲法改正議論を近隣諸国や欧米諸国はしっかりと見ていることを深く認識する必要があると考える。

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巨椋池 宇治市歴史資料館 ***

2018年08月04日 | 本の読後感

今の行政区でいえば久御山と宇治市の西部にまたがる場所には昭和20年ころまで大きな池があった、巨椋池(おぐらいけ)という。JR奈良線で桃山から六地蔵に向かう向かって右側を見ていると広大な土地が広がっていて、位置的にはそのエリアである。木津川と宇治川、そして桂川が合流する低地に形成された池で、京都で言えば一口(イモアライ)と淀、向島、槙島、小倉、このあたりに岸辺が広がっていた。宇治川と木津川からの流入にくわえ、大雨のときには合流地点からの逆流もあり、調整池の役割も果たしていたはずである。池が埋められ、干拓事業でできた土地には近隣住民に払い出された田が広がり、池の有機物が沈殿した良質の田んぼではあったが、底なし田であり、少しの雨でも稲は流された。干拓後には何度も洪水が発生、中でも昭和28年の大雨ではほぼ干拓地全体とその流域の多くが水浸しとなった。これを契機に上流のダムが準備され、昭和39年に天ヶ瀬ダムが完成、それ以降宇治川が原因となる大きな洪水は起きていない。

干拓前にも木津川、宇治川、そして巨椋池周辺では多くの洪水が発生、幕末の1846年の洪水では、小倉、伊勢田の両村は京都代官に御囲米を申請、その二年後にも発生した洪水で水位が下がらず返済に特に伊勢田村では苦労した。毎年のように発生する洪水で巨椋池の周辺農民は困窮を極めたという。また漁民と農民との諍いも絶えず、両者は対立を続けたが、干拓の決断は、戦争による軍部からの強制力があるまでできなかったのである。

現在の地図をGoogle MAPで見てみると池の痕跡は一目瞭然、干拓地は整然と整理され、その真中には南北に近鉄、東西に高速道路が直線的に走り、旧巨椋池干拓地の存在を感じられる。また、この池の存在が奈良と京都の間を結んでいた街道の経路を東に押し曲げ、宇治の町の歴史や宇治橋や旧街道の価値を高めていたことは間違いない。池自体に語るべき歴史は多くないものの、JR奈良線で京都から宇治に向かうたびに、その存在により宇治の歴史と街が形成されてきたこと、車窓を眺めながら思い起こせるというものである。

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平安時代の宇治 王朝文化の語り部たち 宇治市歴史資料館 ***

2018年07月30日 | 本の読後感

宇治が京に暮らす貴族たちの別業地になったのは、源融が宇治に別荘を構えて以降と言われる。源融といえば源氏物語の光源氏のモデルと言われる人物、源氏物語には宇治十帖があり、宇治が物語のメイン舞台となる。その時代に栄華を極めていたのが藤原道長、頼通で宇治の別業を平等院という寺として設営、末法に備えた。本書では別業地、源氏物語、平等院という切り口から宇治を捉えている。

京に遷都して以来数十年経過すると、京の街には変化が生まれた。1.左京に比べ右京は湿地が多く早くに廃れてしまった。(当時の朱雀大路、現在の千本通より西側は明治になる頃まで人家はまばらだった。) 2.左京でも四条以北に人家は集中していた。(京都の街は全体として北が高く南が低いため南は湿気が多い。今出川通の標高は東寺の塔の高さ。)3.地価も格差が生まれ金持ちは四条以北の上京に大邸宅を構えた。4.京の町中を避けて郊外に居を構える貴族も増えた。 奈良時代に宗教の影響が強くなり政治に悪影響を与えた反省から、平安時代には京の町中には東寺、西寺以外の寺の建設は認められていなかったので、貴族に影響力を持つ東大寺、春日社、興福寺、長谷観音、石山寺などへの往還頻度が増した。参詣途中にある休憩地、宿泊地として宇治の地は注目を集めた。

814年、嵯峨天皇は栗隈野(南宇治)で狩りをした後、桓武天皇の息子である明日香親王の宇治別業に立ち寄っている。そして嵯峨天皇の息子、源融が宇治院と呼ばれ後に道長頼通により平等院となる建物を所有、その後陽成院、宇多天皇、朱雀天皇も天皇退位後の別院として所有、さらに宇多天皇の孫に当たる一条左大臣源重信から道長に渡った。紫式部もこの経緯を知っていて、源氏物語では宇治十帖の舞台として宇治院を登場させ、光源氏から長男夕霧に譲られ、薫や匂宮も利用したとしている。

宇治の北部にある木幡には宇治37陵と呼ばれる陵墓が散在、現在も宮内庁により管理されている。埋葬される人物がわかっている許波多神社内36号陵は関白藤原基経、花揃の35号陵は菅原道真を左遷に追い込んだ、基経の息子時平、その他20名が関連付けられている。道長の属した藤原北家の太祖冬嗣と夫人の墓も宇治にあるとされるが場所は不確定である。現在でもJR木幡駅から黄檗方向に向かって府道の主に東側には住宅開発できない森として陵墓が残っているのでウォーキングするとほぼ全てが確認できる。

道長は藤原氏の墓所として1004年木幡に浄妙寺を建設した。場所の選定には安倍晴明と加茂光秀に陰陽道による卜占を命じた。その場所は「鳥居は北方より河に出て、その北の平らな所で東は道である」と記述される。この鳥居は当時五ケ庄柳山にあった許波多神社で、河は堂ノ川、現在の木幡小学校敷地を中心とした広大な土地である。初代の別当は寺の名付け親でもあった天台宗の僧勧修、寺の額は能筆で有名だった藤原行成が南門は楷書、西門は草書で書かれた。供養の願文は当時の最高学者大江匡衡が作文、堂内に安置された普賢菩薩は定朝の師である仏師康尚、何もかもが一流づくしであった。当時の政治や貴族たちの生活には想像以上に宗教が入り込んでいた。別業には必ず御堂と呼ばれる持仏堂が営まれ、三昧堂にこもり仏と対話し救いを求めた。浄妙寺はそれ以降室町時代まで一門の墓所とされたが、藤原氏没落とともにそれ以降の記述はなくなり、今では寺の跡形もない。

平安時代の貴族に娘が生まれると、「后がね」と呼ばれ天皇のお妃候補に挙げられることを第一優先度と考え、幼少より最高の教養を身につけさせた。それがかなわない場合には受領(ずりょう)に嫁ぐ、受領とはXXの守、各国の行政責任者で引き継ぎの際に引き継ぎ書類を受領することから「受領」と呼ばれた。娘の教育係に任命されたのがこうした受領の娘、紫式部や清少納言、藤原孝標の娘などがこうした教育係を受け持つ傍ら、日記や物語を書いたというわけである。紫式部は学者で越前守、文章博士・式部丞であった藤原為時の娘、父とともに任地にも赴任。和歌、白氏文集、日本書紀、などを熟読。目立つことは嫌いで、心は満たされない傾向、やや厭世的。清少納言は周防守・肥前守で36歌仙の一人清原元輔の娘で、周防には父とともに赴任。当意即妙、漢詩集の豊富な知識、楽天的、主人の定子からの質問には誰よりも早く回答、自分の見識を披露することに快感を覚えた。二人には共通点が多い。貴族の娘の教育係として御所に出仕すると、自分が仕える中宮などの住居を出入り、そこには人事異動の猟官活動に勤しむ男たちの姿もある。白髪混じりで自分の父と同じ年頃の男たちが、中宮への取り成しを女房たちに頼んでいる姿に、「あはれ」を感じた。現代で言えば役員秘書で秘書室勤めの女性秘書たちが婚期を逃してしまう大きな理由ともつながる。こうした女性たちが夢の中で描く理想の男性像を架空のストーリーに仕上げ、現実の男たちの惨めさ、女たちの嫉妬などを日記にしたためたのである。源氏物語や枕草子はそれ以降の女性たちにも大きな影響を与えた。

源氏物語 東屋の巻で宇治の御堂が完成し薫と浮舟が京の邸宅より宇治を訪れる場面での経路は次の通り。牛車で当時東福寺近辺にあった法性寺、九条河原から大和街道を南へ進み、深草大亀谷から木幡を通って約6時間かけて宇治に到着している。九条河原から船で宇治津と呼ばれた巨椋池の港に向かうケースもあった。宇治を表現する表現、景色を表す名詞には、紅葉、網代、鵜飼、柴舟、水車、宇治橋などがあり平安時代以降の数多くの絵画にこうしたものが宇治の景色として描かれている。宇治十帖には宇治の10箇所が巻名として登場する。場所が特定できる場合もあるが、現在石碑などが設置されているのは次の通り。北側から浮舟が三室戸寺、手習が奈良線三室戸踏切横、蜻蛉が莵道大垣内、椎本が東内の彼方神社境内、東屋は京阪宇治駅東に東屋観音、総角(あげまき)は宇治上神社北、夢の浮橋は宇治橋西詰、橋姫は宇治蓮華の橋姫神社内、早蕨が宇治神社東北隅、宿木は平等院東南の宇治川河畔。三室戸寺から宇治橋までが1km、宇治橋から宿木の石碑までが700m、宇治神社、宇治上神社は平等院から塔の島経由で川を渡り400m程度なので、全部歩いて回っても軽く一日ウォーキングコースである。宇治を観光で訪れるにしても、少しでも宇治十帖のストーリーを知っていれば、感じ方も異なるはず。例えば宇治十帖の橋姫、しっかりとした後見もなく父に死なれ、二人で暮らす姉妹大君と中君の前に薫と匂宮が現れる。薫との恋に生きたかった大君、匂宮との恋に心乱された中君、宇治十帖の巻名に橋姫が使われた以降、和歌の世界で橋姫は「人待つ愛し姫君」となる。宇治橋の西詰には橋姫碑が建てられている、ということを知っていれば、桜や紅葉の美しさに加え、大君、中君の憂いと悲しみをひょっとしたら感じ取れるかもしれない。

道長が亡くなった後、頼通は道長の宇治別業を寺と改めた。三井寺の平等院に因んで名付けたという。寺としたのは道長の菩提を弔い、末法到来に備えるため。平等院と聞くと鳳凰堂と呼ばれる阿弥陀堂を思い浮かべるが、その境内には寝殿を改築し宇治川にせり出した釣殿を持つ大日如来が安置された本堂、阿弥陀堂の池を挟んで向かいに阿弥陀如来を見るための小御所、その他頼通の子師実や寛子などにより五大堂と多宝塔が建てられ、平等院はその他玄奘三蔵法師が所持していた袈裟を収めた宝蔵、万葉集から拾遺抄にいたる和歌集を収めた経蔵、愛染堂、法華堂、寝殿僧坊、不動堂などが配置された大寺院であった。源氏物語と別業のイメージから宇治には「憂愁の宇治、憂し宇治」と和歌にも詠まれる。頼通は1074年に宇治で亡くなり、中世の修羅の世界は近づいていた。その後、後一条、後朱雀、後冷泉と道長を外戚とする天皇が続いた後の後三条は藤原家と距離を置く。そして白河、堀川、鳥羽、崇徳とつながる系譜では、摂関政治から上皇による院政へと移行していく。頼通の子忠実は摂関家に勢力を取り戻そうとするが、その子忠通との確執が保元の乱・平治の乱の原因を作る。平治の乱以降、敗北した藤原摂関家は没落、武士の時代へと移っていくとともに、宇治の別業、平等院の地としての位置づけも大きく変化する。

こうした歴史を知って喜撰法師の歌を読むと思いもまたひとしおである。「わが庵(いほ)は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり」

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宇治橋  ー歴史と地理のかけはしー 宇治市歴史資料館 *****

2018年07月29日 | 本の読後感

宇治の歴史シリーズ、様々な書き手がまとめているのだが、各冊子にテーマがありそのテーマを縦糸にして宇治という地域の歴史と地理を紹介している。分厚い「宇治市史 全7巻」は読むハードルが高いが、150-200p程度の小冊子なら気軽に読めるし、歴史資料としても価値がある、本は読まれてなんぼである。本書は宇治を歴史に何度も登場させた宇治橋について。

古代、奈良から京都に歩いていく場合には、木津川と宇治川を徒歩で渡る必要があり、その経路は、奈良盆地から丘陵地帯を越えたら木津川では浅瀬があり現在の地名で言えば棚倉、玉水、青谷あたりで渡河できた。その後現在の国道24号線沿いに北上、当時から大久保から宇治市街地に抜ける真っ直ぐの道があり現在の宇治橋に至る。架橋後は橋を渡ると今の府道7号線の西側に走る細い道が旧奈良街道で、六地蔵まで直進。北陸に向かう場合には、醍醐方面に向かい、山科から逢坂山、大津、そこから湖西線沿いに坂本、堅田、和邇、高島、今津を経由して、マキノあたりで山越え、敦賀に至る。京都に行く場合には六地蔵から桃山(旧木幡山)を大亀谷で越える。すると墨染から藤森、深草、東福寺ときて京都に至る。これらが秀吉が巨椋池に太閤堤を建設するまでの経路である。流れの早い宇治川に大化二年に日本で最初の官製橋が建設された理由は明確であった。

大和に本拠地を持っていた当時の大和政権は弥生文化の担い手であり、新たな製鉄、稲作、灌漑、瓦焼きなどの技術を取り入れるためには朝鮮半島経由で中国大陸との交易が必須であり、その経路は北九州ー瀬戸内ー河内をメインとし、出雲ー吉備ー河内、出雲ー丹後ー葛野(かどの)と呼ばれていた今の京都市北部ー宇治、そして敦賀ー近江ー宇治の3つの経路であった。瀬戸内経由ではそのまま紀伊半島を回って東海、関東へも到達し、大和政権とは別の濃尾や毛野の勢力も日本列島に広がっていった。神功皇后伝説からの応神王朝が瀬戸内経由を思わせるのに対し、継体王朝は近江経由を思わせる。宇治は近江との関わりで大和朝廷から見た歴史に初登場する。日本書紀の天之日矛(アメノヒボコ)伝説である。天之日矛は新羅の王子、帰化を願って来日、播磨、淡路に居を構えようとしたが、その前に諸国をめぐりたいと申し出て、菟道河(うじがわ)をさかのぼり、近江の吾名(あの)村に住み、鏡谷の陶人を従者とし若狭を経由して但馬の出石に定住したという。日本書紀における街道の記述には四道将軍派遣の逸話もあり、四道将軍とは北陸へ大彦命、東海へ大彦の子、武淳川別(タケヌカワワケ)、西海へ吉備津彦、丹波へ丹波道主である。先程の技術入手経路とまさしく一致する。また天之日矛のたどったルートは新たな技術がもたらされる経路をなぞるようである。書紀の伊勢神宮の起源を述べる部分では、倭姫宮(ヤマトヒメノミコト)が近江、美濃、伊勢、伊賀と巡る逸話が紹介されるが、わざわざ美濃も経由するのは、それらの勢力と7-8世紀当時の大和政権との関係を示唆する。いずれの経路でも北陸、東海と大和をむすぶ途中に宇治は位置し、崇神、垂仁、景行から仲哀までの書紀に度々宇治は重要な場所として登場する。そして646年建設とされるのが官製最初の大橋宇治橋である。

応神の母は神功皇后とされ、近江を本拠地とする息長氏の流れをくむためか、はたまた近江の勢力ともコミュニケーションをとるためか、応神は即位後も近江を度々訪れた。その際、宇治の木幡を訪れ当地の和邇氏の娘である宮主宅姫(ミヤヌシノヤカヒメ)を娶り、菟道稚郎子命を授かっている。和邇氏は近江をもともとの出自とし、当時は大和北東部に根拠を持っていた。応神は宮主宅姫の妹も娶って、八田皇女、雌鳥皇女、菟道稚郎姫皇女を授かり、応神が三男の菟道稚郎子命を皇太子にしてしまったため、異母兄弟であった次男仁徳との皇位争い(書紀では譲り合い)も生じている。この菟道稚郎子命は学問に長じ、百済の阿直岐から経典を学び、王仁から論語と千字文を学んだとされる。倭の五王の最初の王は応神、仁徳に比定されており、こうした書紀の記述に千字文の成立時期の不一致など学問的には疑問を呈する向きもあるが、ある程度の真実を含んでいる可能性はある。

当時の王権を経済的に支える存在として県(アガタ)や屯倉(ミヤケ)があり、宇治地方には栗隈県が置かれていたが、応神、仁徳、菟道稚郎子命の逸話のように宇治は大和政権とのつながりがあり、栗隈氏は木津川流域開発と合わせて、宇治川左岸、巨椋池南岸の開発を担当、後に宇治を含む久世郡の郡司になり天皇家とも婚姻関係を結ぶ。この時代、宇治川右岸に勢力を持っていた岡屋氏、和邇氏などとは多少の緊張関係にあったと思われるが、菟道稚郎子命と仁徳との和解逸話から考察すると、決裂関係には当たらず、宇治橋建設までは少なくとも共存できたのではないか。聡明な王子と広範な勢力を背景に持った年長の後継者の争い、と言う図式、壬申の乱で争う大友皇子と大海人皇子に酷似してはいまいか。東国の勢力を掌握するもの、つまり宇治橋以北を掌握するものに勝敗の帰趨が決するのである。

乙巳の変(645年)については異論も多い。蘇我氏により導入されてきた仏教や漢字、計算の能力を基本とした律令制度整備などは10年単位に導入できるものではない。蘇我氏は大和盆地の西南葛城地方を根拠地としその後飛鳥地方に進出、欽明期に稲目が大臣となり、馬子、蝦夷、入鹿と仏教導入、法隆寺建立、漢字計算能力のある渡来人招聘、律令制度の根本となる租税計算、土地の測量、記録、課税方式の確定、屯倉経営などを進めてきた。継体欽明王朝期は半島との緊張が高まり、筑紫に糧食を備蓄、各地の屯倉が設置された。屯倉設置では蘇我蝦夷、蘇我麁鹿火(アラカビ)が活躍している。その際、上記の四道を押さえることは最重要で、大和盆地においては新興勢力だった蘇我氏が各街道を勢力下に置く努力を進めたと考えられる。こうした動きに危機感を持った中尾大兄皇子と中臣鎌足が一気に勢力逆転を図ったのが乙巳の変であったはずだが、大掛かりな律令制度、屯倉、県設置、徴税のための渡来人導入や教育などは推古王朝以来の蘇我氏による下敷きがあってこそのものと考えられるため、大化の改新により律令制度を一気に導入したという説には疑問符がつく。

中大兄皇子が実権を握って以降、難波、大和と遷都し、663年の白村江の戦いで大敗北した中大兄皇子は、滅んでしまった百済の向こうにある唐の圧倒的な軍事力に大きな恐怖感を抱く。対馬、壱岐、筑紫の防人設置、太宰府の水城と防御に暇がない。唐からは使いが来て中大兄皇子に会いたいという。中大兄皇子としては、白村江のような無様なところは見せたくないが、唐の水軍の強さは身にしみている。そこで、唐からの使いを宇治を通過させ、遷都なる近江京まで船で移動、その道すがら宇治川右岸の木幡の地で閲兵、完成なった宇治橋をくぐらせた。つまり、宇治橋建設のタイミングとして664年頃は最適、道登の646年よりも道昭の664年の方に信憑性があるというわけである。宇治橋建設は石碑により大化二年(646年)道登によるとしてきたが、異説がありその弟子道昭により20年後に架橋されたとも言われる。道登は道昭の師匠系列、橋を建設するにも、偉業を師に譲るため石碑には師の名前を刻したとも考えられる。中大兄皇子(天智天皇)が近江京に遷都した理由も、唐軍に攻め込まれるにしても時間がかかる近江の地に移りたかった、というのが本音かもしれない。

天智天皇は近江京遷都後5年で崩御、その後継をめぐり壬申の乱が起きる。死に臨んで天智天皇は弟の大海人皇子に皇位を譲ると告げるが、本心が我が子大友皇子にあることを知る大海人皇子は固辞し出家して吉野隠遁宣言をする。大海人皇子が近江から吉野行く際、近江朝の重臣蘇我赤兄が宇治橋まで見送る。ここまでが影響圏、境界だと。それ以降、近江朝側は大海人皇子への糧食運搬阻止のため宇治橋守りに見張りを置く。壬申の乱でも鍵を握ったのは東国の勢力、近江朝側が宇治川に守をおいて油断したのに対し、大海人皇子はより早く鈴鹿の関経由で濃尾勢力と手を握る。美濃勢力を背景にした大海人皇子は不破に陣取り、別働隊を湖北から南下させ近江京を挟撃。もう一つの別働隊は河内に向かい、近江、河内、大和が収斂する地点が瀬田であった。瀬田にかかる橋は瀬田の唐橋、伽羅橋、韓橋などと呼ばれるが、架橋技術が渡来人により唐、朝鮮半島からもたらされたためであり、京都市内にかかるいくつかの橋も唐橋と呼ばれる。

桓武天皇は784年長岡に、さらに794年に葛野(京都)の地に遷都、以来千年の都となる。天武天皇により近江京から大和に引き戻された都は天智系の桓武により再び北に引き上げられたとも言える。京のある位置から難波へは直接船で物資を運搬でき、近江から北陸、東国への経路も簡便になる。宇治の位置づけはこれにより激変、大和から近江への要衝という場所から大きくその重要性を下げた。しかし、桓武天皇は新しい都である京の近郊の視察を丹念に行った。病気になる804年までの10年間、多いときには週一のペースで。地方有力者との政治的工作、近郊開発の下見、別業地の発見などが目的である。紫野、北野、的野、芹川野、山階野、栗栖野、岡屋野、栗前野などの記述がある。京の四方の内、西南は山崎、淀という官道、東北は鬼門、西北は古くから秦氏が治める土地、とすると東南の地、都の辰巳、鹿ぞ住む宇治は美しく穏やかな別業地と思えたのではないか。また平安遷都は大和に本拠地を持つ人達にとっては遠い北の地への転勤であり、南都仏教から離れがたい気持ちがあった。京の東北には叡山延暦寺、南には教王護国寺という新興宗教があり、大和に郷愁を抱く人たちが京から大和に向かう途中の宇治に別業地を設ける理由となった。宇治橋は設営後何度も架けかえられたが、平安時代になってもその重要性に変わりはなかったのである。

治承4年(1180年)平氏討伐の令旨を発し兵を挙げた以仁王は近江圓城寺から、南都興福寺での再起を図るべく、山科から木幡の道を経由して宇治を目指す。お供は源三位頼政、夜をついで馬を駆った宮は度々落馬、頼政に助けられ平等院にまで到着する。ちなみにこのとき逃げた道は「頼政道」として現在も木幡に残る。そこで頼政は追手の邪魔をするため宇治橋の橋板を三間分外して(つまり橋板は5.4mない状態)疲れを癒やす。興福寺に逃げ込まれたくない平氏側は坂東武者足利忠綱が号令とともに川に馬を入れ、これをきっかけに平氏側は全軍が渡河に成功、油断していた以仁王と頼政は討ち取られる。平家物語、源平盛衰記の名場面である。以仁王の挙兵は失敗したが、その後の頼朝の挙兵、富士川の敗戦、福原遷都失敗、清盛の死、木曽義仲の上洛となり平氏時代が終わる。その後義仲追討の任を受けた義経は義仲の裏をかき伊賀から大和経由で宇治橋に向かう。宇治橋の橋板は外されていたが、これが梶原景時と佐々木高綱の宇治川先陣争いの場面となる。宇治川を無事渡った義経軍は瀬田経由で京に入った範頼軍と義仲を挟撃、瀬田まで逃げたところを深田で討ち取られる。宇治に戦い瀬田で敗れるパターンである。宇治橋の合戦は承久の乱でも見られるが、このときも宇治橋の橋板は外される。実話なのに似すぎていないだろうか。京都を守る側と攻める側が、宇治橋、瀬田橋で対峙するという図式もそうである。無理に宇治橋で戦わずとも、回り道をして淀や一口(イモアライ)などを経由して京に迫る方法もあったはず。武士の戦いは多くが絵画となり、それが戦いの理想形となり後世にまで影響を与えていた可能性もあるのではないか。

宇治には、菟道稚郎子命と仁徳天皇の勢力争いがあり、継体王朝が墓所を設け、大海人皇子が近江京から逃げ、道長頼通などの藤原一門の別業や墓所が築かれ、源三位頼政と以仁王が逃げ、義経と義仲が戦い、足利義昭が信長に滅ぼされた場所がある。あるものは古事記・日本書紀に記され、平家物語や源平盛衰記の場面となり、源氏物語宇治十帖に登場し、戦記物として語り継がれてきた。そうした歴史の中でも宇治橋は重要な登場物である。平安鎌倉時代の戦記には戦いの絵になる場所、今で言えば「インスタ映えする」場所として登場している。平安時代の宇治は、柴舟、網代、柳、水車、鵜飼などとともに宇治橋が描かれ、歌に詠まれる。橋自身がこれほど歴史と地理に役割を果たすことは珍しいのではないだろうか。

 

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発掘物語宇治 宇治市歴史資料館 ****

2018年07月28日 | 本の読後感

宇治の歴史は平等院から、というのは勘違い、それ以前の歴史も長い。平等院の更に下からは縄文遺跡が見つかり、6世紀初頭の二子塚古墳からは旧石器時代の長野からもたらされたと考えられる黒曜石による石製ナイフや弥生式土器も発掘されている。弥生、古墳時代の宇治は北西部が巨椋池、北東部が木幡から三室戸にかけての西向きの傾斜地、南部が巨椋池と宇治川に北面する北西向き傾斜地であった。宇治は古くは菟道と書かれたが、現在でも莵道(とどう)という地名が残り、また応神天皇の三男、菟道雅郎子(うじのわきいらつこ)の名前で知られる。大和政権から見て近江の国に至る道の畿内の北限の「うちがわ」という説もある。この地方の呼び名は当時は山背、奈良から見て山の後ろであったが、平安時代に山城となった。

縄文時代前期の遺跡としては、京滋バイパス東宇治ICの東側の隼上(はやあがり)遺跡、縄文後期の遺跡には二子塚古墳の下層遺跡、平等院下層の塔の川遺跡があり、生活痕跡も含めて発掘されたのは二子塚古墳の南側の寺界道(てらかいどう)遺跡である。縄文時代の生活痕跡は圧倒的に東日本が多く、西日本は人口もまばらだった。宇治における弥生遺跡は旧巨椋池から宇治川の近辺で見つかっている。京阪宇治駅西側の乙方遺跡、塔の川遺跡、近鉄小倉駅近辺の神楽田遺跡、巨椋神社遺跡など。

古墳時代になると、山城地方にも巨大な前方後円墳が作られた。主なものは5世紀中頃の久津川車塚古墳は全長180メートル、長岡京の恵解山(いげのやま)古墳、木幡山(現在の桃山)にあった黄金塚古墳である。当時の地形から考察できるのは、久津川は木津川流域の勢力、長岡京は桂川流域、黄金塚は巨椋池北側勢力であり、巨椋池東側はこれら3ついずれとも川と池で分離されているということ。そこに木幡から三室戸にかけての勢力がいたと考えられる。古墳としては宇治神社東側の円墳2つからなる二子山古墳と二重掘がある前方後円墳の二子塚古墳である。菟道稚郎子の墓は菟道の丘の上にあるという記述があり、現在の墓は明治時代に指定されたものではあるが、応神天皇が木幡地域に勢力を持っていた和邇氏の娘と婚姻関係を結んだということから、現在の宇治市範囲で考えると、木幡から三室戸にかけての地域が宇治地方の当時の中心地域であったと考えられる。この時代は倭の五王時代であり、大和政権が朝鮮半島から中国大陸との結びつきを求めていた時代。大和から宇治を通って近江から北陸を経由して朝鮮半島に至る経路は重要な道であった。宇治川の渡河を司る役割を持つ木幡から三室戸の勢力と大和政権が結びつきを求めることは理にかなう。

京阪木幡と黄檗を結ぶ途中にある二子塚古墳、1985年以降、宅地開発に先立ち6回にわたり発掘調査が行われ6世紀における山城地方最大の前方後円墳だったことがわかった。結論としては高槻にある今城塚古墳、天理市大和古墳群にある継体天皇后の手白香皇女墓との共通遺跡があり、今城塚古墳の継体天皇の后の墓だった可能性が指摘されている。継体天皇はなぞの天皇とされ、大伴金村が北陸から招聘した応神天皇の五代孫とされる。507年に即位しても大和平野には入らず、まず河内国樟葉、山城国筒城(京田辺)、乙訓(長岡京)、そして520年に磐余玉穂宮(桜井)と大和平野に入るのに時間をかけている。これは武烈以前の系統とは全く繋がりのない別の王朝が始まったためと考えられる。この時代5-6世紀にはそれまでの巨大前方後円墳の造営が大和河内地方で止まって、山城の嵯峨野古墳群や天理の杣之内古墳など新たな古墳群が作られるようになり、王朝交代が古墳の造営地域変化と一致する。応神天皇と和邇氏の娘の子が菟道雅郎子であったことや先程の二子塚古墳も和邇氏との関係を伺わせる。二子塚古墳から北西には巨椋池の向こうに今城塚古墳が見えたことだろう。和邇氏が近江地方から勢力を伸ばしてきたことも合わせると、継体王朝が北陸、近江勢力の大和進出であったことを伺わせる。

隼上古墳には瓦窯跡がある。そこでは蘇我馬子が造営したとされる飛鳥寺の瓦を作った形跡が見られる。同じ瓦を北野廃寺の瓦を焼いた京都幡枝元稲荷瓦窯で焼いていた記録もあり、秦氏がそれらを治めていた。北野廃寺は秦河勝が603年に聖徳太子から仏像を贈られ建立したとされる蜂岡寺ではないかとされている。秦氏が宇治地方まで勢力を伸ばしていたという証拠はないが、瓦づくりという当時の先端技術を司る技術集団という位置づけでの関係は可能性がある。同じ瓦は太秦広隆寺、明日香村の豊浦寺、河内の四天王寺、滋賀の穴太廃寺でも採用されている。技術伝承と当時の勢力分布には大いなる関係があったのかもしれない。

古代の寺をどのように命名するのかは、寺の名前が明確に残る場合にはその名前、名前が不明な場合には小字名称+廃寺となる。宇治市域に残る奈良時代以前の古代寺跡は3箇所。大鳳寺跡、岡本廃寺、広野廃寺である。大鳳寺は1954年に莵道西中に発掘された。江戸時代にも村名は大鳳寺村、金堂と五重塔がある伽藍配置であった。岡本廃寺は1985年の発掘調査で発見、法隆寺式伽藍配置で当時の有力勢力だった岡屋氏が建立したとされる。

有名な平等院は道長の別業だった建物をその子頼通が寺とした。そう、平等院は寺である。京都が世界遺産に登録された1994年にその一部として指定された。平等院は法華堂、五大堂、不動堂、多宝塔、経蔵が立ち並ぶ巨大寺院であった。道長は62歳でこの世を去ったが、釈迦の入滅以降、正法、像法、そして末法を迎えるとされたとき、頼通もその年令を迎えた。その末法の第一年に平等院を建立、浄土を夢見て建てたのである。宇治はもともと藤原氏の墓所、現在木幡に点在する宮内庁管理の墓陵はほとんど藤原氏一門の墓所。最初の葬られたのは冬嗣、826年のことで、場所は確定できていない。冬嗣の孫の基経が木幡の浄妙寺の場所に葬られ、その後道長が現在の木幡小学校の場所に浄妙寺を建立した。しかし道長、頼通の墓所は堂ノ川河畔とも考えられるが未確定である。浄妙寺は方形五間の三昧堂、下層五間の二層塔で屋根は檜皮葺だったとされるが、現在は小学校があるのみである。

宇治の歴史は、倭の五王、継体王朝の謎と深く関係がありそうである。またその後の大化の改新、壬申の乱を経て律令制度が確立されていく過程での天智天皇の近江京遷都の理由や朝鮮半島との関わりなどとも深く関係がありそうである。宇治の歴史はまだまだ奥深い。

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実家の整理まとめ

2018年07月26日 | 日記

役立つこともあるかもしれないので実家の整理をした結果をまとめておく。親の家の片付けは突然やってくる出来事である。大分類すると、1.書籍/文書、2.食器/鍋釜、3.衣類/布団、4.油絵/書道、5.家具/電気製品、6.写真/思い出 7.家と土地

1.書籍は大量、書棚三棹分で4分類、売れそうな本はブックオフで処分、約350冊で3500円。売れそうにない本は紙ゴミとして処分、参考書や旅行本、サークル本、個人発刊本、料理本など約300冊。画集写真集は母が入居した施設に寄付、購入時には大変高価だった全集物の中でも、お年寄りでもパラパラ読めそうな絵画全集、旅行写真集、世界写真集、歴史写真集など約150冊。貴重なもの、想い出深いもの、興味深いものは本として貰い受け。世界の歴史、日本の歴史、日本古代史、中国の歴史、京都の歴史、宇治市史、昭和史、太平洋戦史、世界の名著、日本の名著などはとにかく全部揃っていてきれいな状態なので引き取った、約200冊。書籍からは数多くのお宝を発掘した。

2.食器は漆塗りなど貴重品は親戚にもらってもらい、それ以外の5客揃物などは知り合いにバザー品として引き取ってもらい、うちでも使えそうなガラス食器は一部貰い受け、その他数多くのバラバラなものは思い出と感傷を排除して燃えないゴミとして廃棄。鍋釜は家では買いそうにない高価なものでIHでも使えそうなお鍋は3つ貰い受け、その他は涙をのんで燃えないゴミとして廃棄。

3.着られる現役の衣類で施設に持ち込める範囲で夏冬物を選抜、それ以外は廃棄。施設では1平米で高さ2mのトランクルームが借りられたのでそこに保管。布団類で、施設に家族が宿泊する場合に使う目的で布団2セットを保管。それ以外の布団、靴は燃えないゴミとして思い切って廃棄。

4.母が30年書き溜めていた油絵は捨てがたいものではあったが、母の意思で基本は廃棄。親戚・知り合いで貰い受けが8枚、施設に寄付が2枚、それ以外がキャンバス約50枚燃えないゴミとして泣く泣く処分、感無量。油絵道具は油絵を始めたという知人に貰ってもらい、書道道具は近所の人達に引き取ってもらった。額縁が約25ほど。立派な額で簡単には処分できそうにないので、絵かきの友人に引き取ってもらう。軸装された書、二巻を施設に寄付、それ以外15巻は廃棄。

5.大きな家具は市に依頼すると有料で引き取ってもらえる。ウチで唯一引き取ったのは籐のリクライニングチェア。多くの家具は、家を買っていただけるお隣の住人に使ってもらえるとのこと、ありがたい。電気製品はエアコン、テレビ、扇風機、使われていない調理電化製品以外の殆どが燃えないゴミ。これらの量は思いの外多く処分に時間も必要。

6.一番やっかいなのが写真とお手紙、日記、思い出の品々、人形。それでも捨てるしかないが、気持ちとしてゴミとしては処分できず、ウチの薪ストーブで焼却処分に。メダルや燃えないものはバラバラにして燃えないゴミとして処分。教訓「親の日記は読むべきではない」。

7.最大の課題は不動産。お隣の住人が以前より関心を示しておられたため、母の施設入居以来時間をかけて話し合いを継続。ポイントは、購入希望者の入居希望時期、母の認知レベルの推移、維持費用、近隣住民の意思、木造なので老朽化の進行度合い。母の施設入居が2017年8月、購入希望者の定年が2018年8月、母は今の所意識はしっかりしている、維持費用は光熱費と税金で年間10万円程度、庭木や雑草は放置はできないため定期的に伐採等措置を近隣住民に依頼、お隣とは別のお向かいさんが家を3年間の賃貸を希望、屋根の傷みがあり2017年12月に87万円かけて修理。話し合いの結果2018年12月末を不動産売買契約の実行タイミングとして仮に合意。

実家の片付けは、母の入居以降、今まで約1年をかけて実行。業者に頼むことも可能ではあるが、時間があるなら自分でやることが重要。思い出確認、母と自分の意思と気持ちの整理、入居希望者とのコミュニケーションなど、一定の時間経過が重要事項である。

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宇治の歴史と文化 宇治市教育委員会

2018年07月22日 | 本の読後感

宇治市は全7巻からなる長大な歴史書を発刊しており、宇治にある実家を整理していたときに発掘、読もうと思うが長すぎてちょっと手に負えない。すると、宇治市教育委員会がその宇治市史をコンパクトにまとめた冊子があるというので読んでみた。一般に宇治といえば「平等院、お茶」と言うところかと思うが、私にとっては小学校入学から大学卒業までを過ごした「故郷」宇治であり、大変興味深く読んだ。

3つの時代に分けて記述、1.古墳時代から奈良時代、2.平安時代から戦国時代、3.そして江戸時代から明治へ。宇治は京都市の南東約10km、宇治川沿いの東西に広がる。Google地図で「巨椋池(おぐらいけ)」と入力し、見てみると、JR奈良線の京都から新田までの経路を見てみるとまっすぐ南に下り、桃山から六地蔵、木幡、黄檗とカタカナのコの字を経て宇治、そして新田駅で再び南下する。明治までそこに存在した巨大な「巨椋池」を避けて鉄道を通したためである。宇治の歴史は宇治川と巨椋池を巡る歴史でもある。

1.大和政権が奈良盆地に拠点を設ける頃、朝鮮半島からの人や物資の流入経路は、大阪湾の今の堺市あたりから上陸、信貴山と二上山の挟まれた谷を経由しての経路。そして敦賀、琵琶湖西岸東岸、逢坂山を経由、山科、醍醐、宇治、木津を経由するルート。そして出雲、丹後、京都を経由して宇治から奈良盆地に至る経路であったという。日本海からのルート上にはいずれも宇治があり、当時の交通の要衝であったため、大和街道は現在の六地蔵から山際を通って木幡、黄檗、宇治と繋げられたが、どこかで必ず宇治川を渡河しなくてはならないため、大化二年(646年)に日本最初の大橋である宇治橋が架橋された。現在の宇治川以西が巨椋池とその中に点在していた洲と島。街は大和街道沿いの山際にあった。古墳時代5世紀から7世紀にかけての古墳群が木幡と莵道に点在する。中でも木幡二子塚古墳は二重掘の前方後円墳で当時の南山城最大規模で、時代的には6世紀初頭、出土品からみて、高槻の今城塚古墳との類型があり、継体天皇后墓ではないかと考えられている。また、その東側に数十が点在する木幡古墳群も時代的には6世紀、継体天皇后墓建設関係者の墓ではないかと考えられる。莵道には「菟道郎子命墳」があるが、これは明治22年に明治政府が、古事記の応神天皇が木幡で和邇氏の娘を見初めて子を設けたという記述から、仁徳天皇の兄であるとしてその場所を墓と決めたと言われ、歴史的価値は低い。木幡は宇治では最古の地名で、山科盆地から六地蔵、木幡までを治めていたという「許(こ)の国」の端であるため、許の端、コハタという説が有力、今の桃山から松殿山荘あたりの山をすべて「木幡山」とよんでいたという。

2.藤原氏が実権を取っていた時代、宇治は別業の地として京都貴族たちに親しまれていた。京都からは鴨川、巨椋池、宇治川を経由して現在の隠元橋あたりにあった岡屋津という港で上陸、源融から藤原基房、道長、頼通と別荘を建築した。平等院が最も有名であるが、庭に松の木があったため松殿と呼ばれた基房が建てたと言われるのが松殿山荘、今の建物は大正時代の建築であるが、その時代には木幡から莵道にかけての宇治川東岸は藤原一族の別業の地であり、葬送地、埋葬地でもあった。道長が建設した浄妙寺は現在の木幡小学校の場所を中心とした広大な土地を保有していた。また宇治には白川田楽、猿楽、などが県祭と呼ばれる宇治市中心部にある神社での催し物として開催され、奈良大和田楽を上回る盛況ぶりだった。平安から鎌倉時代まで摂関家や武士の庇護を受けていたこうした芸能集団はより演劇的色彩の強い猿楽へと移行、やがて鎌倉時代から始まるお茶の開発と融合し、茶の湯の文化とも融合していく。秀吉が建てた指月城は現在の観月橋北詰あたり、地震で倒壊したが、その後再度建設された伏見城の周りには秀吉家臣団や大名たちが屋敷を設けた。今の伏見桃山、中書島、観月橋、桃山南口、六地蔵近辺である。本拠地を近江に持つ蒲生氏郷、石田三成は大和、北陸街道沿いのそれぞれ現在の六地蔵と石田に居宅を構えた。その際、秀吉は従来の大和街道の経路を伏見経由に強引に変更するため、小倉から観月橋辺りまでの太閤堤を建設。木幡経由で京都に通じていた大和街道は宇治から直接伏見、そして京都につながるようになった。鎌倉時代からの茶畑と茶師の重心もそれに連れて木幡から宇治中心街へと移動、江戸時代に重用された上林家は現在の宇治市中心部にある。

3.日本の茶は奈良時代から遣唐使などを通してもたらされ、平安時代には僧侶だけではなく貴族の間にも、茶の粉末を煮立ったお湯に入れて飲む、という方法で広まった。鎌倉時代になると臨済宗栄西が抹茶をもたらした。栂尾高山寺の開山明恵上人が栄西から教えられたこのお茶の栽培を13世紀になり宇治の地に伝えた。黄檗山萬福寺前に立つ「駒の足影碑」には馬の足跡に合わせるようにお茶の木を植えると良い、とう教えが記され、お茶の宇治としてのその後の発展をもたらす。江戸時代には将軍を始め各大名の支援を得て、数多くの茶師と茶畑が宇治の各地に広がった。曹洞宗の興聖寺は初めは深草に道元によって開かれたがその後消失、1648年に現在の地に再興された。道元はもともと先程の基房の娘の子供として木幡の松殿で生まれたとされ、興聖寺開基にこの地が選ばれたのもこうした理由があるのかもしれない。黄檗山萬福寺が開基されたのも江戸時代、将軍家綱時代に中国の僧隠元により黄檗の地に建設された。建設資材は丹波の山林から桂川、巨椋池、宇治川を経由、宇治川に注ぎ込む弥陀次郎川の河川を利用して五ケ庄の現在地まで陸送されたという。2012年8月に決壊して周囲に大損害を与えた弥陀次郎川は、この江戸時代のその流れが変えられた。現在は、二子塚古墳の北側を流れるが、もともと二子塚古墳の一部を使って建設された西方寺の南側を流れていた。暴れ川だった弥陀次郎を鎮めるために阿弥陀如来とともに西方寺に祀られている弥陀次郎であるが、川の付替後、不自然にクランクがつけられ、その後の宅地開発時にも放置されたことがその原因だと考えられるが、誰もその責任をとってはいない。元の流域には「古川」という地名が残っている。

明治になると、火薬庫と火薬工場が桃山南口、木幡、黄檗に建設され、国鉄奈良線が引かれたため、宇治の地は再び栄えるようになる。また巨大な巨椋池も干拓、洪水が多発して住宅には適さなかった宇治川流域も、1964年に宇治川上流に天ヶ瀬ダムが建設されて、洪水はなくなり、大和街道より西側にも住宅が建設されるようになる。宇治の実家に帰ると、毎朝、木幡の旧大和街道を経由して山科川から宇治川堤防に出て、弥陀次郎川をさかのぼり、二子塚古墳と木幡山古墳を右手に見ながら一時間のウォーキングをしている。この同じ道を北陸から大伴金村に招聘された継体大王や、敦賀から呼ばれたというツヌガアラシト、天之日矛、壬申の乱を引き起こす前に大津京から吉野に逃げた大海人皇子も歩いていたかと思うと、どこかにその痕跡はないのかと探したくなるというもの、郷土の歴史を知るというのは面白いものである。

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司馬遼太郎対談選集8 宗教と日本人 ***

2018年07月21日 | 本の読後感

井上ひさしとの対談。1976年春に司馬はオーストラリアの北端にある木曜島に行った。半世紀前から住み着いているという日本人たちに会うためである。そしてその足でキャンベラに行った、オーストラリア国立大学に客員教授として赴いている井上ひさしに会うためであった。井上は1972年の上期直木賞を「手鎖心中」で受賞、強く推したのが司馬だった。日本語に飢えていたのか、井上は司馬の滞在中ずっとアテンドして司馬を相手に喋り捲っていたという。司馬は井上に「何か生まれる前兆なのではないか」と言った。司馬の帰国直後に戯曲「雨」を2週間で完成、その後も二人の関係は継続した。対談は95年に三回に分けて行われたが、司馬は96年2月に亡くなっている。二人は太平洋戦争における日本海軍の「九死一生」を取り上げ、日本軍は生還確率がたとえ本当に10%であったとしても、精神力で40%を補い五分五分にして戦ったと。ノモンハン事件での日本側の死傷率は7割台、現場では全員死亡、という数字である。アメリカとイギリスの軍隊では現場での死傷率が3割を超える場合には、現場指揮官判断で撤退できると。ノモンハンの現場指揮官は小松原中将、現場での惨状を報告されてこう答えたという。「日本の兵隊さんは強いと聞いている、何とかなるだろう」と何の判断も下さず、死傷者数をただ増やしたそうである。井上はこの考え方を「煉獄の思想」だと表現する。幸不幸を直観できずにたくさんの苦患を味わうのが煉獄、これが日本の軍隊だった。自治の考え方についても井上はひとこと。誰もいない土地に進出してきた人たちが、雑然と増えてきたときに、その集団が町になる。子供には教育が、町にはインフラ、図書館、劇場なども欲しいという人が出てくる。こうした合意形成をする際に話し合って決めたのが町の理念、理想、そして目標でありチャーターと呼んだ。州政府にこうしてできたチャーターを提出する、これが自治や憲法の原点。日本の憲法や自治、こうした視点が欠けていると。

アメリカ生まれの日本文学者リービ英雄との対談。リービは「星条旗の聞こえない部屋」で野間文芸新人賞受賞、万葉集の英訳で全米図書賞。リービは万葉集におさめられた山上憶良の歌から、日本に古くからいた人たちと渡来人たちの心理的な違いを解説。百済から来た憶良は朝鮮半島で漢文明の息吹を感じて育った。日本土着の人たちにはない後世意識を山上憶良から感じると。当時は渡来人に対する差別意識はなく、むしろ計算や読み書きができると、技術を持った人は優遇されていた。その山上憶良は日本的な考え方、立身出世を重視しない素朴な人たちに好意を抱いていた。リービも現代日本人にアミニズムを感じるという。アミニズムを感じる作家には大江健三郎や中上健次がいる。こうした指摘に対し、司馬はリービの小説の登場人物でアクの強い下士官的人間である「ますむら」はどこの国にもいて、日本にもたくさんいると解説。戦前の日本には特に多くて、村役場の係長、村の在郷軍人会会長、中小企業の叩き上げ会計課長、高等小学校での読書家の物知り親父など。偏狭で危険なナショナリストは現代社会にも多い。こうした人間たちが外国から来た人たちに対してレーシズムと劣等感を発揮する。差別発言は劣等感の裏返しであると。民族性とは簡単に言えば言語だと。

司馬遼太郎の対談集を数冊読んできた。いずれも司馬の本音と私見が語られ、歴史観や自らの立ち位置を示した。2018年の現代日本において、こうした歴史観、立ち位置を明確に表明した上で意見を整理し発表することの重要性を改めて痛感する。司馬遼太郎の死後20年以上が経過し、世界の情勢は変動している。世界や日本が置かれた環境も、日米関係、日中関係、日露関係、日韓関係、日欧関係いずれもこの20年で激変したとも言えるが、日本人の立ち位置はなにが変わったのだろうか。相対的経済力、国の勢い、安全保障環境、こうした環境変化に対応しながらうまく立ち回ることだけが外交ではないはず。外的圧力から変化を強いられてきた日本の近代史を踏まえると、事が起きてしまう前に、日本人として考えるべきこと、準備しておくこと、表明しておくべきことはいくつかあるはずである。司馬遼太郎はジャーナリストではなかったがその作品を通じて、日本人に多くの気づきや示唆を与えてくれた。現代のメディア、ジャーナリストはどう考えるのだろうか。

宗教と日本人―司馬遼太郎対話選集〈8〉 (文春文庫)

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八人との対話 司馬遼太郎 ****

2018年07月12日 | 本の読後感

司馬遼太郎はずいぶん様々な人たちと対談をしていると思う。本書も対談集。

山本一平との対談では、半分くらいは日本の戦車がいかにボロだったかを丁寧に解説している。どうも、山本一平が苦手だったのかもしれないと勘繰る。その中で、日本陸軍の兵器は国有鉄道の狭軌で運べる幅に収める必要があった、という話が出る。戦車でさえその制約を受けていた。だから日本の戦車は妙に背が高くて不格好。さらに軽量化しないといけないということになって、設計上は18トンくらいの重量になってしまったところを、なんとか6トン以内に収めなければならず、大砲も57ミリのもう大砲とは言えないサイズにしてしまった。装甲もペラペラにして、ノモンハンでは日本側の兵士の死傷率が7割5分にもなりソ連軍に散々な目に合う。そして統帥権の問題、陸軍では「天皇陛下」と言っているのを参謀本部は「お上」という。つまり参謀本部は天皇の直轄幕僚であり、天皇は空にして無なため、幕僚が陸軍を抑え込めることになる。師団長も参謀の辻正信に盾突けない。戦費を無尽蔵に使っても、臨軍費として国会で事後承認されてしまう。陸軍トップからの命令書には「勇戦奮闘所期の目的を達すべし、細部は参謀長をして指示せしめる」などとなっていて、トップが無能でも若頭が優秀なら組織が動くようになっていて、これは室町幕府時代以降の伝統。昭和になっても、官庁の課長クラスが課長補佐にハンコを預けているのが、大物官僚である逸話となるような変な権限委譲の話がまことしやかに語り継がれている。細かいことまで指示してしまうトップは人望がなくなる。これが太平洋戦争での日本陸軍の官僚制。

大江健三郎との対談で、大江が松陰が弟子の高杉晋作にあてた手紙を紹介する。「もしお殿様の御そばで働くようになった時には、深く誠忠を尽くしお殿様の心をまずつかむべし。そのあとに正論を主張する。そしてそうしたときには必ずや失敗するだろう。しかしその失敗の後も、人間関係、学問などで水面下で努力することで、いずれはお殿様への功を立てられる時が来る」なぜ「必ず失敗するだろう」などと言ったのかと。司馬は「高杉の頑固さを師匠の松陰は踏まえたうえでこのアドバイスを書き送っている」と。松陰が若くして多くの若者たちを教育した要因の一つがこうした人を見抜く目であったという。正岡子規と松陰の共通点としては、学問は知識や技術の積み重ねだけではだめで、志がなければならないと教えたこと。

丸谷才一との対談で、丸谷が明治維新政府の天皇の役割について、公家の文化を持ち込まないように指導したという。西南戦争の明治10年ころまでは80首ほどあった恋歌などは和歌でも詠まないように指導した。天皇が女々しい和歌を詠んでもらっては富国強兵ができないと考えた。中国の皇帝は官僚のトップ、日本の天皇は伝統的には呪術のトップであり、農業の豊作を祈った。そして平安時代以降になると、政治には直接的にかかわらない。明治政府はそれでは困ると考えた。大正天皇の母親に当たる柳原二位の局は、白い馬にまたがり軍服を着た大正天皇を見て「あんなことをしていると宮廷は滅びる」と言った。天皇家は武人の格好をしてこなかったから、ここまで生き延びてきたのに。維新の志士たちはナポレオンやワシントンの信奉者がほとんどだったのでどうしても白馬にのせたかった。太平洋戦争敗戦と天皇家の危機を柳原二位局は予言していたということ。

永井道子との対談。婿取り婚と嫁とり婚、東日本では土地を守る武士の文化が広まり嫁とり婚が定着していったが、西日本では妻問い婚、母系社会が色濃い。坂東武者は父親の名前尾を一文字とって縦に所領を伝えていく。一所懸命という言葉は開拓した土地を守るという言葉、一所懸命というのは関東武士の言葉だった。都では口約束や位を与えるなどと言う形でごまかすが、関東ではそうはいかなかった。徳川時代以前は御恩と奉公、徳川時代になると奉公だけが残る。

立花隆との対談。立花は中東でみてきた宗教感を披露、宗教はローカルには非常の土俗的でキリスト教もユダヤ教もイスラム教も中東では土俗的なにおいを残しているが、それがヨーロッパやアジアに伝わるプロセスで洗練されたものだけが伝わる。日本で、神道や日本の仏教がキリスト教に比べると土俗的に感じられる理由がそうした所にあると。日本仏教も伝来した時には洗練されていたのが、布教を進めるプロセスで、信者から病気を治してほしい、などという願いを聞いて加持祈祷をする。そうした民間宗教的な部分から離れようとしたのが空海、道元、親鸞。しかし道元はそうだったが、後の曹洞宗は、大名や公家にうまく取り入った臨済宗に対抗しようとして、「正法眼蔵」だけでは飯が食えないと、農民層に入り込むために民間宗教の色彩を帯びてくる。その結果、曹洞宗のお寺は日本中に一万四千、西本願寺が一万一千、東本願寺が一万弱、日本中に広がった。さらに曹洞宗は他の宗派のように横につながらず縦に対して従順なので、大名たちも進めたから繁栄した。

学者の西澤潤一との対談では、日本的と言われるものは室町時代に源を持つと解説。茶道、華道、床の間、数寄屋普請、歌舞伎、能、狂言、畳、行儀作法、小笠原流などなどすべて室町時代に始まっていて、それ以前の文化は今の日本的なものとはかけ離れていて異国的ですらあると。

司馬遼太郎が行ってきた対談における司馬の発言を聞いていると、司馬遼太郎作品の根源みたいなものが感じられる。東大阪にある司馬遼太郎記念館、近いうちに尋ねてみたい。

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戦争と国土 司馬遼太郎対談集6 ***

2018年06月24日 | 本の読後感

 「草原の決戦 ノモンハン」のドキュメンタリー著作のある歴史学者クックスとの対談で、司馬「今は信州の温泉宿のご主人になっているノモンハンでの日本軍将校だった須見さんにインタビューして、ノモンハン事件の辻参謀とオイルショックの時のトイレットペーパー買い占めは根は同じだと言っていたのを思い出す。日本人は大きな目で日本全体の幸福や現在を判断できない。前線の一将校として今日明日をどうするかを考えて、またその一将校が実質的な判断を委ねられている。オイルショック時の日本でも、官僚の中で通産省の一課長が権限を与えられていて大きな判断をしている。日本中の地価が上昇して暴騰状態にあるのに不動産業者に金を貸し続ける銀行に規制をかけられない。日本的資本主義が崩れていっているのにその時の大きな視点から見た状況判断をしない、ノモンハンが続いている。」

小説家で「レイテ戦記」などの自らの体験に基づいた著作がある大岡昇平との対談で、司馬「江戸時代までの日本で将軍と言われた足利も北条も徳川も本当の意味では日本全体の実権を握ってはおらず、地方の有力者が治めているその有力者に対する権力を中央が持つという形だった。それが明治維新を経て大正昭和と軍が権力を掌握して、いわば日本全体を実質的に占領していたともいえる。陸軍の高級参謀は、米軍上陸に備える作戦の中で、避難民と軍隊の車列が同じ道でぶつかったらどうするかと聞かれて、轢き殺して進め、と言ったのを強く記憶している。日本国を守るのは人々を守る以上に、戦いに勝つことを優先するという考え方、国体の護持という集団的狂気、それが日本の軍隊だった」

評論家で哲学者の鶴見俊介との対談で、司馬「アメリカ軍を中心とする連合国軍が進駐してきたときに日本人の抵抗がなかったのは、それまでの軍による締め付けが強かったから、占領されているというよりも、軍から解放されて清々する、という方が強かった。やがて憲法が進駐軍主導で制定された時も、これでやっと本当の暮らしができる政治が始まると感じた。悪い感じはなくて、自分が生きている間にこういう国ができるとは思わなかった、こういう感覚が現在まで続いている。この平和は是が非でも守らなければならないと思います。」

 小説家の野坂昭如との対談で、司馬「農地解放されたというけれども、解放されたのは平地であって、日本の面積の7割を占めているのは山地、山林で、山林の半分は国有林、国有林の大半が旧御料林。御料林は西南戦争のあと自由民権運動が起きて、天皇家を守るためには天皇の軍隊を養えるだけの山林が必要だと考えた岩倉具視達の公家勢力が、旧有力藩が保有していた木曽や日田の山林、そして百姓の持っていた入会山を御料林にした。それが戦後国有林になっていて、この国有林がいったいどれほどあるのかが明確に開示されていないのが実情。土地の価格が高騰して、それで投機がはびこり、農民たちも土地の値上がりを期待して、農業そのものに力が入らない、これは問題。いっそ土地を国有化して国民に貸し出すという律令時代のやり方に戻るというのも一つの方法だと思う。」

社会運動家のぬやまひろしとの対談で、ぬやま「西郷隆盛が西南戦争を起こさずに、島津斉彬が掲げていた理想をベースにして産業革命を目指すとして、私学校の軍事力を、島津久光に向けて薩摩共和国を成立させ独立を宣言すれば、大久保といえども歯向かえなかったのではないかと。つまり論理的に道筋が明確で人々が信じるに足るものであれば、太政官政府は誰も動けなかったはず。」司馬「久光は既得権者の象徴であったはずで、それを倒すのが人々の利益になったはず。しかし、西南戦争に西郷が出陣するときに久光の屋敷の前を通るときに土下座して遥拝して去ったという、これでは人々の支持は得られない、西郷の限界だった。それでも日本人は西郷さんが大好きだ。」

評論家の田中直毅との対談で、司馬「列島改造論がその後のバブル経済を呼び込んだ。公共事業の複合体が国庫を圧迫していった経緯がある。そして銀行が抱えてしまった不良債権は先送りされ、実施的なトバシであった。大蔵省も銀行も金融のプロのはずなのに、将来に向けての予見能力はなかった。日本海軍と同様の過ちを再び犯してしまった。」

田中直毅との対談を終えて9日後に司馬は亡くなった。その後、不良債権を抱えた住専、そして銀行は集約され、国民からは見えなくなっているようではあるが、国家の負債として約1000兆円が残っている。これは列島改造論からバブル、そして失われた20年と平成30年間の間中日本経済を覆う暗雲として今も私たちの目の前、そして子供たち、子孫の前にも残り続ける。そのことを予言するような司馬の言葉であった。

戦争と国土―司馬遼太郎対話選集〈6〉 (文春文庫)

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