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意思による楽観のための読書日記

都市と日本人 ー「カミサマ」を旅するー 上田篤 ***

日本の都市を欧州や中国の都市と比較しながら、古代における吉備から平安京、中世では鎌倉と安土、近世の江戸、そして近代では再び京都と近畿へと移る中で概説し、併せて北海道における大雪山や旭川にも自ら足を運んで、住んでいた経験ももとに都市についての考察と観察についての持論を述べたエッセイ。内容をいくつか紹介する。

吉備には古代、大きな内海があったという。その周辺には半島や大陸から渡来した製鉄と稲作の技術を持った人たちが住み着いていた。多数の三角縁神獣鏡を出土した備前車塚古墳や箸墓古墳と副葬品が酷似する浦間茶臼山古墳、仁徳天皇陵の規模に匹敵する造山古墳などとともに多くの貝塚などが見つかっている。桃太郎伝説の原型と思われる「キビツヒコの鬼退治」伝承では、百済から来た大男の温羅(うら)を大和朝廷から派遣された五十狭芹彦命が討伐したという。温羅は雉となって山中に逃げ、鷹となったイサセリヒコに追われた。さらに温羅は鯉となり、イサセリヒコは鵜となってこれを追う。上田秋成はこの故事を「雨月物語」で吉備津の釜として取り上げている。砂鉄を産する中国山脈に製鉄技術を持った集団が住み着いて、地元民と戦ったという歴史が逸話となって伝承されたのかもしれない。

京都には明治2年に全国に先立って小学校が設立された、その数64は江戸時代から66あった上京と下京の各町組ごとにほぼ一つずつである。京都の二代目知事となった槇村正直が各町組のメンバーと話し合った結果だという。その後紆余曲折を経て、各小学校は土地を拡張するなどして、運動場やプールまで敷地内に設けるに至る。小学校の運動場では町内の盆踊りや正月のドント焼き、野外映画などとしても使用され、災害時には避難先ともなった三条大橋からも見える有済小学校には今でも望火楼があるが、これは在りし日の町組小学校の名残り。

筆者によれば欧州の都市はリンゴのように町の中央に教会や権力者の住居があり、住民はその周りに集会するように集まってい住んでいてそのさらに周りを城壁で取り囲んで護っているが、日本ではそうした集約ではないため筆者はそれを「ブドウ型」と表現する。街道沿いの宿場町や商家のならびはあるが、神社やお寺が中心にあるわけではなくむしろ町はずれにある。城下町においては、山や高台に城があり、その周りに武家屋敷があり、さらにその周りに住民の住まいがあるが、町を取り巻く城壁はなく、城を守るお濠や城壁があるばかり。城主は戦闘時には町を焼き払って戦闘に備えたというから、町民を守るのではなく戦いに勝つためには町民を犠牲にしてでも勝利にむかっていた。日本のムラには、そのムラ独自の「カミサマ」がいて、そのカミサマを祀るのが村人の共通認識だと。収穫や生産、そして何より大切なのは村八分にはならないことだった。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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