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意思による楽観のための読書日記

謎解き 洛中洛外図 黒田日出男 ***

京都の景観を描いた絵画の中で、特に戦国時代に出現した屏風絵は京都の内外の様子を描き生活する貴賤の人々の姿を描き出し、当時の様子が伺える貴重な歴史史料である。現存する洛中洛外図は70点を超える。中でも戦国から安土桃山時代に描かれた価値が高いとされる、初期洛中洛外図の佐倉の国立歴史民俗博物館保管の町田本、東京国立博物館の狩野永徳による東博本、上杉家に伝わる狩野永徳作とされる米沢市立上杉博物館に保管される上杉本、国立歴史民俗博物館所有の高橋本の4点が名高い。本書では上杉本に関し、その作者、来歴などについて、定説と反論、筆者としての結論を記し、作品の位置づけを確定しようとしている。

戦国時代からの大名家である上杉家に伝わる作品で、天正2年に信長が上杉謙信に贈ったとする近世の史料があり、1995年に国宝に指定されている。しかし、有名な中世史家である今谷明は1984年に上杉本の作者は狩野永徳ではないとする反論を発表した。上杉本の武家屋敷や寺社建築の景観は天文16(1547)年の7月頃と考えられ、その時点では狩野永徳は満4歳であり、その時の作成品とは考えられない、という主張。しかし今谷への反論は多く、景観年代と作成年代のずれはあり得ることとして、今谷の景観と作成は同時であるはずという前提を否定した。また、複数の美術史の大家は、作風から狩野永徳作品に間違いないと太鼓判を押した。

一方、別の中世史家は、屏風に描かれた景色の配置、説明書きの分析より、屏風の注文主は室町幕府13代将軍足利義輝であり、送り先は、幕府支持のため上洛を促していた相手の一人、都の情報には疎い地方の有力武将の上杉謙信だったとした。本書作者は本論を支持。屏風の左隻、右隻、上下の配置が上京と下京、四季の配置を分析、当時の管領相当の大名が正月に将軍(公方)に挨拶に花の御所を訪れる行列が見られるとして、本論を支持した。

そのうえで、義輝が狩野永徳に作成を依頼した後に、三好、松永に殺害され、送り先を失ってしまった狩野永徳は本品の完成後もしばらく保管せざるを得なくなった。その後、上洛して天下をにらむようになった信長に永徳が本作品を披露、来歴を説明した後に、謙信への上洛を義輝と同様に望んだ信長により謙信に贈呈されたとする。その確信は筆者が確認した謙信公による「御書集」「覚上公御書集」に記された、義輝の一字を謙信に諱号として進呈したという記述、信長が使者を使わして屏風を謙信に贈ったとする記述、作者は狩野永徳である、完成は永禄8年9月3日の義輝没後100日の日であったこと、などによりもたらされた。本書内容は以上。歴史史料としての洛中洛外図の詳細な分析と考察により、作者や作成年代、来歴を明かしていくそのプロセスがつぶさに記述され、読んでいてサスペンス的に面白いとも思える一冊。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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