意思による楽観のための読書日記

牛頭天皇と蘇民将来伝説の真相 長井博 ****

牛頭天皇という名前は京都の八坂神社で祀られている神仏習合神だと思っていたが、全国には牛頭天皇を祀る神社が8000社もあるという。明治維新の神仏分離、廃仏毀釈で牛頭天皇は葬られたと言うが、それは何故なのか。蘇民将来伝説では小丹将来の眷属は牛頭天皇によって皆殺しにされたという、この謎にも迫る。

日本人はどこからきたのか、2009年12月11日のサイエンスではアジア全域を対象に73集団1900人の血液分析から遺伝子を調査、共通先祖は十数万年前にアフリカで誕生した現代人、まずインド半島に達し東南アジアのタイ付近に移住、日本には中国、朝鮮半島を経て移住した。日本人は70%が北方モンゴロイド、20%が南方モンゴロイド、10%が混血であることが生物学的にも証明されたという。日本列島に最初に住み着いたのはアイヌ人、縄文時代のことで、そのあと朝鮮半島経由で稲作、鉄器を携えて弥生人がやってきた。朝鮮半島からの移住は紀元前10世紀から何回にもおよびその度に新たな文化や技術をもたらした。渡来人と同化することを拒んだアイヌ人は一部は東北北海道へ、一部は沖縄へと逃れた。弥生人が到来したときの人口は59万人、大宝律令の701年には450万人、平安時代には551万人と増加した。移住した人たちはその地において祖霊神を祭祀していて、それが神社であり、高句麗系が高麗神社、百済神社、新羅神社で、駒、巨摩、許麻、狛などが高句麗で、杭全、百済王などは百済系、白城、白鬚などは新羅系である。

ここで牛頭天皇と蘇民将来伝説の登場人物を整理する。牛頭天皇は吉祥天源王舎の大王で商貴帝、今は衆生を救うために人間界に下生して牛頭天王と呼ばれるが元は毘盧遮那如来の化身、暦神の最高の大吉神。頗梨采女(歳徳神)は牛頭天王の后、八将神の母神である。八王子は八将神で牛頭天王の王子。蘇民将来は天徳神、巨旦(小丹)将来は巨旦大王の精魂。こうした陰陽道の神々は暦神として認識されていた。

牛頭天皇は最初に吉備一族のいた福山に来臨した。備後の国には3つの祇園があり、素戔嗚尊神社、そして鞆の浦にある沼名前神社、3つめは三次市にある須佐神社である。その後明石を経て播磨国鷹峯神社に垂迹したのち、京に勧請された。そもそも八坂神社というより祇園さんだと京都の人は思っているが、いつから八坂神社になったのか。明治維新の廃仏毀釈で変えられたのだ。京に疫病が流行した877年、時の陽成天皇が祇園社に勅使を使わし祈祷したところ疫病が治まったとして、祇園天神の牛頭天皇の威徳だとして大いに奉り祇園社神領は全国に広まっていった。その所領は祇園社の荘園料所として拡大した。

祇園祭はもとは祗園御霊会と呼ばれた。疫病が発生しやすい夏に開催され、神泉苑の御霊会に由来する。祭りの山鉾は古来は66、先頭は長刀鉾で、順行路の邪鬼を祓い切るという意味があるが、その刃は祇園社に向くことはない。神輿は3基あり、それぞれ素戔嗚尊を祀る中御座、奇稲田姫を祀る東御座、八柱御子神を祀る西御座である。祭りの最後31日には蘇民将来をご祭神とする疫神社の鳥居に大茅の輪を設け参拝者はこれをくぐって厄気を祓い蘇民将来の護符を授かる。これに隠された御祭神三座は牛頭天王、婆梨采女、八王子である。牛頭天王は対馬から愛知の津島にも来臨した。津島神社で行われる川祭りも祇園祭と同じ思想であるという。また、播州の人が伊勢参りをするときには鷹峯神社にお参りしてから行くといい二度参りと呼んだ。この鷹峯神社、祇園社、津島神社を日本三大天王と称する。東京の八王子も牛頭天王と八王子を祀った八王子神社にあるといい、京都の天王山も大山崎に勧請された牛頭天王を祀る山崎天王社である。

蘇民将来の護符も全国的に広がっている。最も古い出土は1200年前の長岡京跡からの蘇民将来札、祇園祭の起源の時期とも符合する。はだか祭り、蘇民袋を争奪する祭りは蘇民祭であるという。蘇民とは新羅の民、蘇民将来とは新羅の統率者という意味。古事記、日本書紀には大加羅国の王子ツヌガアラシトと新羅の王子アメノヒボコの帰来を記していて、金達寿氏はかれらは日本列島に弥生文化、鉄器を伴う水稲耕作文化をもたらした象徴であり、同時に神社、神宮をもたらした、としている。その経路は魏志倭人伝に書かれるとおり、朝鮮から北九州を通って瀬戸内海を通り、大阪湾に入ってきたという。ツヌガアラシト(アメノヒボコと同一人物と言われる)は一度朝鮮半島に帰り、その後北陸から鉄鉱山のあった丹後から日本海但馬の国に至った。丹後には与謝の海、阿蘇の海があって、与謝とはもとは余社とも書かれ、阿蘇、伊祖、伊勢、宇佐、余社などはこうした朝鮮からの移住者が関与した土地である可能性がある。小丹は古代貴重であった硫化水銀の鉱脈、採掘の権利をもっていた一族の名称だという。丹生、丹生谷、丹生川なども硫化水銀かこの一族が関与している可能性がある。丹波、丹後もそのバリエーションである。小丹将来とは、貧しいけれど誠実で志の深い蘇民将来に対して採掘精錬で財をなした裕福で強欲な性格を持つ一部族という説である。

神功皇后の新羅遠征のあと、百済との関係が深まり学者阿知吉師の勧めにより博士王仁が帰化、漢字と儒教がもたらされた。この頃の大和朝廷に従わない勢力がアイヌ、エミシとクマソ、ハヤトだった。歴史上東の辺境に住むのが蝦夷、西の辺境に住むのが隼人である。筆者はエミシを去りし日の天皇だという仮説を立てる。大和朝廷が征伐した先住民族の統率者をエミシと呼んだというのである。蘇我氏には蘇我蝦夷がいるが、これは馬子が王権を手に入れたいという思いから名付けたのだという。大和朝廷は中央集権体制が整ってきた6世紀後半、欽明天皇以降、まつろわぬ民は鎮圧するものの排除はせず、庸調収税する対象として版図の拡大を計った。

牛頭天王は仏教と共に日本列島に到達した。頭頂部に牛頭を頂いた牛頭天王はインドの祇陀(ジェータ)太子と須達多(スダッタ)長が釈迦に献じた祇園精舎の守護神である。馬頭観音、ヒンズー教のガネーシャも動物神、シヴァ神は象、インドでは猿、蛇、鳥、牛など多くの動物が崇拝の対象となっている。ラーマーヤナの神猿ハヌマーンは最も親しまれている。その牛頭天王と同様に新羅の王子とされていたツヌガアラシトが習合したという。天武天皇が新しい時代を築くときに蘇民の眷属は救済し、小丹の眷属は滅ぼすという伝説を人為的に作り上げたのだという説である。天智天皇と天武天皇の母は皇極天皇とされるが、父は異なる。筆者は用明天皇の孫、高向王であるとし、その母は吉備姫王、つまり吉備系、新羅系であるというのだ。壬申の乱は新羅系の天武に政権が移るという意味があったとする。その時に作られた伝説だというのである。天武・持統天皇時代に律令公民制を進め天皇、皇后、皇太子、日本などという呼び名も定めたのである。この時代、百済系、新羅系だけではなく多くの民族が混在する中で人心を掌握し社会の安定を図るためには信仰を利用することが必要であり、その時利用されたのが牛頭天信仰であった。新羅系天武朝は、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳の9天皇99年で幕を閉じる。称徳崩御後は藤原氏の力が強くなっていて49代天皇には天智天皇の孫、白壁王が光仁天皇が即位する。

明治の廃仏毀釈を乗り越えて、牛頭天王と蘇民将来伝説は伝わり、現在でも京都祇園祭、津島天王祭、福岡三大祇園祭、岡山西大寺の裸祭り、全国各地で天王祭、蘇民祭として盛大に継承されている。1400年の歴史である。
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