朝鮮人街道を歩く「第1回」
野洲~近江八幡まで。
私の趣味は近江の旧道ウォーキング。
昨年一年かけて、大津から出発して湖東を旧東海道~中山道~北国街道と歩き、塩津街道から湖西に行き、北国海道を南下し大津札の辻に戻る、旧道利用でのびわ湖1周ウォーキングを達成した。
そのことは、このブログにも書いた。
これは私にとって2009年の一大イベントだった。
12月末にびわ湖を回りきって1年が終わり「卒業気分」を味わった。
今年になってからは歩いていなかった。
冬から春へと変わり半年が過ぎようとしていた5月、ウォーキングの楽しさを忘れられない私は、また歩きに行きたい気持ちが高まっていた。
そしてついに半年のインターバルの後、また歩くことを決意したのだった。
歩きを再開するにあたり、どこを歩くか考えた。
計画の中には「びわ湖をもう1周」という案もあった。
昨年1月からはじめて1年かけて回ったが、半年ずらして歩き始めると、冬に湖北を歩くことになる・・・冬の近江は雪深い、きっと異なる景色が見られるだろう。
しかし真冬の湖北は余りにも深く雪が積もる。
歩けるだろうか。
不安もあった。
また同じ道をもう一度歩くというのも、もうひとつ面白くないと思った。
結局びわ湖の2周めに向かうのではなく、昨年歩いているあいだ「ここも歩きたい」「この道も行ってみたい」と感じていた道を歩くことにした。
それは、
・朝鮮人街道を野洲から鳥居本まで制覇する。
・草津から旧東海道を気の済むまで歩く。
・旧中山道を番場から気の済むまで歩く。
・塩津海道を塩津から敦賀まで歩く。
・小浜海道を今津から小浜まで歩く。
である。
昨年のびわ湖一周をメイン事業と考えるなら、これらは「びわ湖一周ウォーキング関連事業」と名付けることにしよう。
2010年6月から終了は決めず「関連事業」をこなしていきたいと思う。
さてこの関連事業の最初のテーマは「朝鮮人街道」である。
「朝鮮人街道」という名前、道の名としては異色だ。
江戸時代についたものである。
豊臣秀吉の朝鮮侵攻の時代を終え、江戸幕府は再び対等な関係として朝鮮とお付き合いしたいと考えた。
そこで友好の証として通信使(通信とは信を通じ合うという意味)を朝鮮より迎えた。
国使「朝鮮通信使」が通った「朝鮮人街道」である。
朝鮮通信使は東海道ではなく中山道を通ったが、なぜか近江の野洲から鳥居本までは別の道を使った。
ここの部分を「朝鮮人街道」と呼ぶのである。
朝鮮人街道の歴史についての参考資料としてまた歩くためのガイドとして、滋賀県彦根東高校の門脇正人という先生が書いた、「朝鮮人街道」をゆくを参考書、指南書として使う。
東高校の新聞部の生徒が道を探して歩くドキュメントであり、挿し絵の絵地図がウォーカーのガイドとしても使えるのだ。
6月最初の日曜日、早めに家を出た私がJRの野洲駅を降りたのは朝の9時すぎだった。
駅の東側、すぐ近くを旧中山道が通っている。
この道を昨年歩いた。
駅から少し戻る感じで、中山道と朝鮮人街道の分岐点、行畑へ向かう。
Y字型の分岐は小学校を挟むようになっている。
9時30分スタート。
道は「祇王井川」に沿っての道となる。
祇王とは妓王のことだ。
平家物語に登場する白拍子で平清盛に寵愛された。
彼女の出身地はこのあたりなのだ。
この祇王井川、町中を通るのでゴミが浮いているし泡も浮いている。
きれいでない。
川壁は石やコンクリで固められ風情もない。
指南書の図ではこの先朝鮮人街道はJRで横切られる。
現実の道は線路をまたぐ大きなオーバーパスで人や車が行き来している。
書かれた地図では踏切か地下道のようなもので線路を横切るような絵になっている。
歩いていってみるが、そのようなものはない。
本文を読むと道路のオーバーパスで渡ることが書いてある。
図は「本来は道はこうなっている」の意味だったのだ。
道案内として万全ではない。
買いてあるとおり線路をわたり、少し戻ってJR沿いの道を歩く。
線路の下を流れてきたであろう祇王井川が道に寄り添ってくる。
正しい道を歩いているようだ。
やがて道は旧道らしい風情を感じさせはじめる。
朱塗りの柱を持つ民家が並ぶ。
こういう景色の道歩きはいい。
冨波、永原などの地名の集落だ。
旧家の町並みが終わり、左右に田畑に広がるエリアに入った。
左右ともに広々としている。
「ヒューン」という甲高い音に右手を見ると、遠く新幹線が走っている。
その手前には東海道。
前に広がるのは、田植えの終わった緑の水田だ。
自分の歩く道は桜並木が続く、時代劇に出したいような集落と集落のあいだの道だ。
左手には黄金色の麦穂が奥まで広がる。
麦が実る初夏のことを「麦秋」という。
秋という字が入るが、春の終わりで梅雨の前のことだ。
今まさに麦秋である。
いい眺めだ。
右手に水田、左に麦秋。
一番いい季節に歩きに来たものだ。
空気が澄んでいないので霞んでいるが、左手のずっと奥の山並みは、方角からすると湖西の山々である。
湖の反対側の山が見えているのだ。
考えてみれば、これだけの広い眺望を得る場所は日本の内地では珍しいのではないだろうか。
関東平野や大阪平野、名古屋平野も広いは広い・・・しかし丘やビルで意外と眺望は利かない。
巨大なびわ湖と田畑が連なり視界をさえぎるものが無いこのあたり、海抜84メートルの平らなスペースは国内唯一であろう。
「絶景かな」。
美しい風景の中を歩いているのに反し、私の体は変調をきたしてきた。
目がかゆくなってきたのだ。
花粉症の季節はとうに終わっているが、何かのアレルギーだろう。
この季節こういうことはあるので、そのアレルゲンがこのあたりに飛散しているのだ。
こするとかゆい。
・・・道の風情のよさと体調の不具合のアンバランスが悲しい。
目をこすりながら歩を進め、道は大きな河川、日野川を渡る。
かかる橋は仁保橋という。
道路に「この道は朝鮮人街道です」の表示がある。
橋の上、川の風でくしゃみを連続。
鼻を押さえながら川を渡りきった。
県道と平行する旧道に入る。
この道もまたいい風情だ。
両側に旧家が並ぶ。
するとアレルギーも止まる。
この町並みには朝鮮人街道であることを示す石の道標がいくつも建っている。
歴史ある道であることを地域の誇りにしているのだ。
体調も復帰し風情を楽しみつつ時は過ぎ、そろそろお昼、空腹を感じる。
時間は11:30。
地名は江頭。
昼食をとる。
事前に調べておいたラーメン店「いっこく」でこってりラーメンを食す。
休憩&食事のあと、だいぶ疲れたと感じる。
本日の道程を終了するという考えもありうる。
地図で確認すると、ここで終了すると最も近いのはJR篠原駅だが、かなり歩くし方角的には戻る感じだ。
次の近江八幡まで行っても同じくらいだ。
ゆっり歩きながら先に向かうことにした。
ペースを落として先に進む。
麦穂の海の向こうに山が見え、近江八幡の町が近づいてきた。
小船木から近江八幡の街中となる。
町の入り口にまた朝鮮人街道の表示。
近江八幡に入ると「京街道」の別名も持つようになるようだ。
八幡の街中を歩き小幡の資料館前で本日のリタイヤとすることにした。
実は3か月前も近江八幡の町を歩いた。
3月13日(土)、春の奇祭、左義長を見るため、近江八幡を訪ねた。
左義長とは、織田信長が始めた正月の火祭りがルーツだ。
巨大な松明(たいまつ)に担ぎ棒をつけて御神輿のように担いでねり歩くのだが、松明に「だし」(飾りもの)をつけている。
だしはその年の干支をテーマに毎年作るのだという。
だしがつくとはいえ基本的に松明だから、最後は火をつけて燃やしてしまう。
JR近江八幡駅からバスで町の中心地へ向かった。
初めてきた八幡の中心地は昔の風情の町並みだった。
松明の行進が始まっていた。
神社からでてきて行進に向かうところだった。
担ぎ手の兄ちゃんたちは、酔っぱらってフラフラだ。
奇声をあげながら、ゆらゆら揺れて進んでいく。
その日、土曜日は行進だけだが、日曜はぶつかり合って喧嘩したり、夜には火をつけるのでもっと派手なことになるのだろう。
見物しながら町をさまよう。
初めて訪れた近江八幡の町は、道が縦と横に交わる計画的に作られた中世の都市だった。
そのときも利用したのが小幡のバス停だった。
朝鮮人街道1日めの私は、再び小幡のバス停からJRの近江八幡駅へ向かった。
朝鮮人街道制覇は3回ぐらいでできそうだ。
次回は未定。
本日の行程16000歩。3時間20分。11.6キロ。
「スケート大好き」の、2010年3月13日のレポート。
そのあとは、お祭り見物。滋賀の近江八幡で左義長を見る。3-13-2 - 「スケート大好き!」
本日の散策は大阪ではなく滋賀だ。JRに乗り地元をすっ飛ばして近江八幡で降りる。本日訪れたのは、春の奇祭、左義長を見るためだ。近江八幡駅からバスで中心地へ向かう。...
「スケート大好き!」