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ひとり ときどき ふたり旅 さんぽ

田端 文士芸術家村 ぶら~り 2014.11.3

 

区民カレッジで学習したテーマ

「田端文士村を識る」を振り返ってみます。

6回にわたり教室での話しを聞いたあとに、

田端文士村散策ツアーに参加してみました。

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田端の地に多くの文士・芸術家がいたとは、

ついぞ知らず。

彼らが歩いたろう 

坂の上の田端を巡ってみることにします。

スタートは、田端駅北口にある「田端文士村記念館」

田端で活躍した作家や芸術家の資料などが展示されています。

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記念館研究員の方の案内で、

芥川龍之介、室生犀星、菊地寛、板谷波山

田河水泡、堀辰夫,林芙美子、岡倉天心、

竹久夢二…… と、

ここには書ききれないほどの作家、

芸術家が住んでいた場所を当時を想い歩いてみます。

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田端は、明治中期までは農村で、

上野に東京美術学校(現:東京芸大)が開校されると、

上野と台地続きで便が良かったことから、

美校生や卒業生が住むようになって開けていった場所です。

ちなみに、田端という地名は、田の端(はじ)

出来た村であることからきているそうです。

田端は、本郷台地から堀(谷中)があり、

上野台地の先、隅田川までを下る地形の中途にあります。

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徳川吉宗の亨保の改革の一環として 

上野だけにしかなかった庶民の花見場所を増築するべく 

飛鳥山までの道すじにサクラが植えられ 

酒宴や仮装が認められるようになり 

花見も出きるようになった。

上野から飛鳥山の丘の上は茶店や料亭が点在し、

この道すじは当時栄えたらしいのです。

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「田端文士村記念館」沿いの「江戸坂」

登っていくと「田端高台通り」に出ます。

そこを左に曲がると「東台橋」が見えてきます。

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橋の上に立って下を見ると「田端の切り通し」が見えます。

両側の崖には古そうな石垣が長くつながっています。

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ここから田端駅がわに振り返ると、

昔は隅田川が見え、たんぼが見え、

遠くには筑波山も見えたことだと想います。

この高台から眺めると、

田端駅は田端台地の崖にへばりついています。

この田端の高台は、王子、十条、赤羽まで

続いており、武蔵野台地の端を形成しています。

 

切り通しを長く見ていたせいか、

研究員の方にうながされて「芥川龍之介の旧居跡」に向かいます。

当時の面影は見当たりません。 

表示板があるだけです。

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200坪の敷地に2階建ての住まい、

家族と女中を入れて10人もの方が住んでいたということです。

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「与楽寺坂」を下り「宮崎直次郎」が

明治41年に出した割烹料理屋「天然自笑軒跡」に行きます。

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芥川龍之介の結婚披露宴や文士の親睦会にも使った場所です。

 

『器にも、座敷の掛けものにも、庭のたたずまいにも、大いに凝り。   

料理人は新井という、会席料理なら日本一の腕という人に任せる。    

客室は六つ、予約以外の客はとらず、      

料理は七品で一人前五円の並の料金だった。』と…

 

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道すがら、研究員の方が紹介してくれた

洋食屋「がらんす」お勧めは

ビーフシチューが美味しいとのことです。

また近くに来た時には、寄ってみることにしましょう。

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右に深い「切り通しの崖」と上に「東台橋」を見ながら、

通りの先の「東覚寺」に向かいます。

 

山門横の護摩堂の前には、

赤い紙でおおわれた一対の金剛力士像が見えてきました。

「赤紙仁王」と呼ばれ、からだの悪い位置に

赤い紙を貼って祈願すれば、病気が回復するという仁王像です。 

さっそく、赤紙と線香を200円で購入し、

糊が付いた赤紙を仁王様の「腰・胸」に貼付けて祈願します。

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田端3丁目のしゃれた坂「ポプラ坂」に向かいます。

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登り切った田端保育園の場所が「ポプラ倶楽部の跡地」です。

洋画家の小杉放庵らが、田端の高台に土地を借り、木造のクラブハウスを建てたのが、なんと明治41年のことです。

画家たちによってテニスコートが造成され、小豆島から取り寄せたポプラを植えたことにちなみ「ポプラ倶楽部」と呼ばれ、ポプラ坂の地名が出来たそうです。

この坂が芸術の町の中心地であり、田端文士たちの象徴となった場所です。

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「ポプラ坂」を振り返って絵みます。

当時の坂の傾斜もこのぐらいだったのか~ 芸術家や作家たちが行き来していた風景を思い描いてみます。

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別名「子規寺」とも呼ばれる「大龍寺」に向かいます。

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ここは、「俳人正岡子規」のお墓があります。  

なぜ、根岸の住居「子規庵」の近くにある谷中墓地ではなく、北区の「大龍寺」なのか?

生前弟子達に「静かな寺に葬ってほしいという」子規の遺言でこの寺に決まったといいます。       

”谷中の墓地だと花見の酔客の喧騒を嫌ったのでしょうか”

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八幡神社横の「八幡坂」を登り「室生犀星(むろうさいせい)旧居跡」に向かいます。

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せまい住宅街の路地を入って行くとありました。 

今は住宅の横に立つ表示板のみです。

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振り返り、当時の道に想いをはせてみます。

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田端高台通りに出てきました。 

ここにも「サトウハチロー旧居跡」があります。

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「田端文士村記念館」に戻ってきました。

昭和20年4月の東京大空襲で壊滅し、

昔の面影は残っていませんでしたが、ゆっくりと1時間の散策でした。

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想うと田端の地に芽生えた多様な文化、ジャンルを超えた交流と人脈の繋がりが重なりあい、大正、昭和の文化の礎となっていったのを感じます。

 

【芥川龍之介の散歩ぶりは】 

歩くことを目的にして歩くことはない。  

もしそういう純粋な散歩をするとすれば、一年に一度位であろう。  

旅行は一年に一度、春あるいは秋に試みる。そうして海よりも山を好む。  

僕は旅へ出ると長つ尻になる。

いつも旅館の宿帳には「大阪毎日新聞社員」と書く。    

 

冷えてきました「天然自笑軒跡」の近くに、銭湯屋さんがあるのを思い出しました。  

ひとっ風呂浸かっていくことにします。 

下駄の音が聞こえてくるようなころあいです。

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