区民カレッジで学習したテーマ
「田端文士村を識る」を振り返ってみます。
6回にわたり教室での話しを聞いたあとに、
田端文士村散策ツアーに参加してみました。
田端の地に多くの文士・芸術家がいたとは、
ついぞ知らず。
彼らが歩いたろう
坂の上の田端を巡ってみることにします。
スタートは、田端駅北口にある「田端文士村記念館」
田端で活躍した作家や芸術家の資料などが展示されています。
記念館研究員の方の案内で、
芥川龍之介、室生犀星、菊地寛、板谷波山
田河水泡、堀辰夫,林芙美子、岡倉天心、
竹久夢二…… と、
ここには書ききれないほどの作家、
芸術家が住んでいた場所を当時を想い歩いてみます。
田端は、明治中期までは農村で、
上野に東京美術学校(現:東京芸大)が開校されると、
上野と台地続きで便が良かったことから、
美校生や卒業生が住むようになって開けていった場所です。
ちなみに、田端という地名は、田の端(はじ)に
出来た村であることからきているそうです。
田端は、本郷台地から堀(谷中)があり、
上野台地の先、隅田川までを下る地形の中途にあります。
徳川吉宗の亨保の改革の一環として
上野だけにしかなかった庶民の花見場所を増築するべく
飛鳥山までの道すじにサクラが植えられ
酒宴や仮装が認められるようになり
花見も出きるようになった。
上野から飛鳥山の丘の上は茶店や料亭が点在し、
この道すじは当時栄えたらしいのです。
「田端文士村記念館」沿いの「江戸坂」を
登っていくと「田端高台通り」に出ます。
そこを左に曲がると「東台橋」が見えてきます。
橋の上に立って下を見ると「田端の切り通し」が見えます。
両側の崖には古そうな石垣が長くつながっています。
ここから田端駅がわに振り返ると、
昔は隅田川が見え、たんぼが見え、
遠くには筑波山も見えたことだと想います。
この高台から眺めると、
田端駅は田端台地の崖にへばりついています。
この田端の高台は、王子、十条、赤羽まで
続いており、武蔵野台地の端を形成しています。
切り通しを長く見ていたせいか、
研究員の方にうながされて「芥川龍之介の旧居跡」に向かいます。
当時の面影は見当たりません。
表示板があるだけです。
200坪の敷地に2階建ての住まい、
家族と女中を入れて10人もの方が住んでいたということです。
「与楽寺坂」を下り「宮崎直次郎」が
明治41年に出した割烹料理屋「天然自笑軒跡」に行きます。
芥川龍之介の結婚披露宴や文士の親睦会にも使った場所です。
『器にも、座敷の掛けものにも、庭のたたずまいにも、大いに凝り。
料理人は新井という、会席料理なら日本一の腕という人に任せる。
客室は六つ、予約以外の客はとらず、
料理は七品で一人前五円の並の料金だった。』と…
道すがら、研究員の方が紹介してくれた
洋食屋「がらんす」お勧めは
ビーフシチューが美味しいとのことです。
また近くに来た時には、寄ってみることにしましょう。
右に深い「切り通しの崖」と上に「東台橋」を見ながら、
通りの先の「東覚寺」に向かいます。
山門横の護摩堂の前には、
赤い紙でおおわれた一対の金剛力士像が見えてきました。
「赤紙仁王」と呼ばれ、からだの悪い位置に
赤い紙を貼って祈願すれば、病気が回復するという仁王像です。
さっそく、赤紙と線香を200円で購入し、
糊が付いた赤紙を仁王様の「腰・胸」に貼付けて祈願します。
田端3丁目のしゃれた坂「ポプラ坂」に向かいます。
登り切った田端保育園の場所が「ポプラ倶楽部の跡地」です。
洋画家の小杉放庵らが、田端の高台に土地を借り、木造のクラブハウスを建てたのが、なんと明治41年のことです。
画家たちによってテニスコートが造成され、小豆島から取り寄せたポプラを植えたことにちなみ「ポプラ倶楽部」と呼ばれ、ポプラ坂の地名が出来たそうです。
この坂が芸術の町の中心地であり、田端文士たちの象徴となった場所です。
「ポプラ坂」を振り返って絵みます。
当時の坂の傾斜もこのぐらいだったのか~ 芸術家や作家たちが行き来していた風景を思い描いてみます。
別名「子規寺」とも呼ばれる「大龍寺」に向かいます。
ここは、「俳人正岡子規」のお墓があります。
なぜ、根岸の住居「子規庵」の近くにある谷中墓地ではなく、北区の「大龍寺」なのか?
生前弟子達に「静かな寺に葬ってほしいという」子規の遺言でこの寺に決まったといいます。
”谷中の墓地だと花見の酔客の喧騒を嫌ったのでしょうか”
八幡神社横の「八幡坂」を登り「室生犀星(むろうさいせい)旧居跡」に向かいます。
せまい住宅街の路地を入って行くとありました。
今は住宅の横に立つ表示板のみです。
振り返り、当時の道に想いをはせてみます。
田端高台通りに出てきました。
ここにも「サトウハチロー旧居跡」があります。
「田端文士村記念館」に戻ってきました。
昭和20年4月の東京大空襲で壊滅し、
昔の面影は残っていませんでしたが、ゆっくりと1時間の散策でした。
想うと田端の地に芽生えた多様な文化、ジャンルを超えた交流と人脈の繋がりが重なりあい、大正、昭和の文化の礎となっていったのを感じます。
【芥川龍之介の散歩ぶりは】
歩くことを目的にして歩くことはない。
もしそういう純粋な散歩をするとすれば、一年に一度位であろう。
旅行は一年に一度、春あるいは秋に試みる。そうして海よりも山を好む。
僕は旅へ出ると長つ尻になる。
いつも旅館の宿帳には「大阪毎日新聞社員」と書く。
冷えてきました「天然自笑軒跡」の近くに、銭湯屋さんがあるのを思い出しました。
ひとっ風呂浸かっていくことにします。
下駄の音が聞こえてくるようなころあいです。
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