"ちょっと外から見た日本"

今、スペインに住んでいます。
大好きな日本のこと、
外からの視点で触れて見たいと思います。

“本当の言葉とは、そしてそのお返しとは”

2011-07-13 00:30:06 | 日記

『致知』, メールマガジンからの転載です。

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■「致知随想」ベストセレクション 
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      「馬関の集い」
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                   岡本節治(元住友銀行勤務)


             『致知』2001年3月号「致知随想」
             ※肩書きは『致知』掲載当時のものです


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「Sの慰問を兼ね、フグでもつつきながら語り合わないか」

銀行の役員を退き経営コンサルタントをしている
Nから誘いがかかったのは昨年九月だった。

われわれは山陰の水郷松江で
旧制の高校生活を共にした仲である。

Sは銀行勤めののち大学の法学部教授に転じ、
五年ほど前に富山から山口に移っている。

一時消息が途絶えてどうしたのかと思っていたら、
一昨年ひょっこり便りが届き、
二年続けて大手術をしたが
すっかり健康になったとのことだった。

その快気祝いを兼ねて旧交を温めようというのが
Nの提案である。

私に否のあろうはずがない。

思いつく旧友に声をかけ、NはNで呼びかけをし、
東京から、大阪から、広島から、計七人のかつての
淞高生(旧制松江高等学校生のこと)が
Sの住む下関(馬関)に集ったのは、
昨年十一月も末近くであった。

Sは大病した気配など感じさせない元気さで
われわれを迎えてくれた。


      * *


Sが予約していた料亭が集いの場になった。

鬼籍に入った友をしのび、互いの近況を報告し合い、
思い出話にふけるころには本場のフグを肴にした鰭酒が
ほどよく回り、最近の世情に悲憤慷慨する友の姿に、
弊衣破帽で人生を論じ合った
紅顔のむかしが鮮やかに甦ってきた。

やがて宴は終わりに近づいた。


「みんな、ちょっと聞いてくれ」


Nが改まったように言い、ゆっくりと語り出した。


「Sの元気な姿を見るにつけ、
  いまさらのようにSとの出会いが思い出される。
  自分が今日あるのは、Sとの出会いがあればこそなのだ」
  
  
Nは同級生ではあるが、
われわれよりは五歳ほど年上である。

戦争のせいである。


Nは旧満州在学中に徴兵され、敗戦によって
モンゴルに抑留された。
辛酸を嘗めたが、九死に一生を得て帰国。
母と二人の生活は、赤十字病院の売店で働き
どうにか飢えをしのぐ苦しいものだった。

しかし、日が経つにつれ、もう一度学校に行って学び直したい、
という思いが強まってきた。

調べてみると旧制高校への編入試験があり、
Nにも受験資格があることがわかった。

もっともNには五年余りのブランクがあり、
しかも勉強しようにも手元には
一冊の教科書も参考書もなく、
新たに購入する余裕もない。

だが、Nはどうしても進学を
諦めることができなかった。

ある日、病院の売店の前を一人の淞高生が通りかかった。
Nは思わず呼び止め、自分の悩みを打ち明けてしまった。


「わかりました。明日まで待ってください」


淞高生はそう言って去った。

Nは後悔した。

見ず知らずの瀬高生に打ち明けたとて
どうなるものでもない。


ところが次の日、その淞高生は本を何冊も抱えて現れたのだ。


「天にものぼる気持ちだった。
 おかげで編入試験に合格し、
 その淞高生と同級になることができた。
 それがSだったのだ」


初めて聞く話だった。


「学業と仕事の両立には苦労したが、
 その後もSにはいろいろ助けられた。感謝のほかはない」
 
 
目を潤ませて頭を下げるN。
いやいや、と手を振るS。

Nはこの話をしたくて集まりを呼びかけたのだな、と思った。
その気持ちが痛いようにわかった。

Sは侠気に富んだ男である。

そのSに出会えたのは、Nの求める心が強かったからだ、

天が道を開いてくれたのだ、と一同は話し合った。

そんなわれわれの胸に等しく浮かんでいたのは、
若き日に歌った寮歌の一節だった。

「暫(しば)しこの世に宿りせば
 奇しき三筋に結ばれて
 共に起き臥す君と我」


歌詞にある「三筋」とは淞高生の学帽を飾る
三本の白線のことである。

Nはさらに言葉を継いだ。


「Sだけではない。先生方にもお世話になったのだ」


Nは授業料を納めていなかった。
生活が苦しくて納められなかったのである。

卒業間近になって、学校から呼び出しがきた。

授業料が未納では卒業できない、
どうするか、という生徒主事の先生の問いである。

だが、どうすることもできない。

Nはそのように答えた。

生徒主事の先生は溜め息を一つついて、


「そうかね」


と言っただけだった。

われわれは旧制高校最後の卒業生である。
学制改革で淞高は廃校の運命にあった。

留年しようにも学校がなくなるのだ。
Nは中退でも仕方がないと諦めた。

ところが、卒業式のあとで卒業証書が送られてきたのだ。
Nは驚いて、生徒主事の先生や担任の先生に聞いて回った。


「どうしてかわからないが、学校がきみの卒業を
 認めたことは間違いない。
 だから、憚(はばか)ることなく受け取ればよろしい」


先生方の答えは同じだった。


「真相はわからずじまいだったが、
 先生方が代わりに授業料を払ってくださったことは
 容易に想像がつく。
 
 敗戦直後のあの時代だ。
 先生方も決して生活が楽でなかったことは
 みんなも知っているだろう。
 
 にもかかわらず、そこまでしていただいた。
 このご恩は忘れられるものではない」


Nが言葉を切ると、沈黙がきた。
それは感動が熱く渦巻く宝石のような沈黙だった。

あの馬関の集いは、いまも私の胸を離れない。


Nを助けたSの侠気。

そのSへの感謝を忘れないN。

そして、Nをさりげなく助けた恩師たち。


そんな美しい人間の結びつきのそばで
過ごせた青春の日々は、私にとっても
この上なく貴重で幸せな日々だったのだ、
と思わずにはいられない。

そして、こんな素晴らしい人びとと
同じ空気を自分も吸ってきたのだと思うと、
古希を迎えたこの体に、
瑞々しい感性が甦ってくるような気がするのである。


──────────────────────────────────── (以上)



Nさんの悩みを聞いたそのとき、全く見ず知らずだったSさんの言葉、

「わかりました。明日まで待ってください」

そして、

Nさんが授業料が払えないとわかったときの先生の言葉、

「そうかね」

どちらもとても短い言葉ですね。

でも、Nさんは、Sさんに助けられ、そして先生方に助けられました。

 

もしかすると、今は少し言葉が多いのかも知れませんね。

余計な言葉は要らない、大切なのは行動すること。

 

そして、その短い言葉、そしてその善意をしっかり胸を刻み込み、

それこそ何十年か後にその恩を果たすのですから、Nさん、素晴らしいですね。