プラシド・ドミンゴ(Plácido Domingo)さんをご存知の方も多いと思います。
世界的に有名なテノール歌手ですね。
オペラの指揮者として「こうもり」を指揮したり、歌劇場芸術監督としても活動されています。
ドミンゴさんは、スペインマドリード生まれです。
ご両親は、サルスエラと呼ばれるスペイン舞踊も取り入れた伝統音楽劇の歌手でした。
ドミンゴさんも、サルスエラ劇団を経営する両親とともにメキシコに移住し、そこで腕を磨きました。
パヴァロッティさん、ホセ・カレーラスさんと行った「3大テノール」の大イベントも有名ですね。
日経新聞の文化欄(4月29日)に、上記タイトル名で記事が出ていました。
これは、サンフランシスコに住む、寺島忠男さんという音楽プロデューサーによって書かれた記事です。
4月10日と13日の日本公演のこと、NHKのニュースでも紹介していましたので、ご存知の方も多いと思います。
“満席のNHKホールに喝采がうねりとなってこだまする。
舞台に引き返したプラシド・ドミンゴが、祈りを込めてアンコールに唄歌「故郷(ふるさと)」を日本語で歌う。
観客は総立ちになり、一緒に歌いながら感動の涙。
歌っているドミンゴや共演したソプラノ、ヴァージニア・トーラの目にも涙が光っていた。
舞台と客席が一つになり、天に届けとばかりに別世界の空間が広がった。”
その様子を想像するだけで、もう感動で胸がいっぱいになります。
寺島さんは、今回の公演をプロデュースしました。
今まで、ドミンゴさんの日本公演を22回も手がけてこられました方なのです。
公演前、日本の関係者には、“一貫して「大丈夫。ドミンゴは必ず行くから」といい続けた”そうです。
しかし、一方で、“35年間の音楽プロモーターの経歴で初めて、公演中止の四大条件(天災、戦争、クーデター、ストライキ)を超える現実に愕然とした”そうです。
ドミンゴさんには、“日本政府や東京電力の発表する公式データを報告しながらも、「絶対に問題ない」などと、安全を過度に強調する表現もあえて避けた。”
“4月1日に来日を最終決定したが、ドミンゴからは一度も「大丈夫か」という問い合わせはなかった”そうです。
公演直前の8日、メキシコ大使館主催で歓迎晩餐会がありました。
“乾杯が終わってしばらくして、メキシコ大使がおずおずと聞いた。
「震災後数多くのイベントが中止され、海外アーティストも来日をやめた。
このようなときにためらいは全くなかったのですか」”
ドミンゴさんはこう答えたそうです。
“「今日ここに着くまで、私は来日に一度たりとも疑問を持たなかった。
もし来ない方がいい状況なら、24年間一緒に仕事をしてきたヨシコとテリーが最初に言ってくれる。
彼らが言わないのなら、絶対に安全だと確信を持っていた」”
続けて寺島さんはこう書いています。
“これほど熱く、心打たれる言葉に、一生に一度でも出会うことができるだろうか。
私はドミンゴの温かさと人間的な大きさに心が震え、こみ上げる涙を抑えることができなかった。”
『ヨシコ』とは、寺島さんの奥さんの名前であり、『テリー』とは寺島さんの愛称だったのです。
日本での「三大テノール公演」も、寺島さんがプロデュースしました。
“国立競技場でのコンサートで「川の流れのように」を歌うことを嫌がったパバロッティさんを、
開演ぎりぎりでドミンゴが説得してくれたことも”あったそうです。(笑)
ドミンゴさんとの成田空港での別れの場面です。
“責任を果たした安堵感もつかの間、14日、帰国する一行を成田空港で見送った。
日本のファッションに興味を持ち、夫人にせがんで付いてきた13歳になる孫娘も。
ドミンゴ夫妻は孫を同行するほどに私たちを信頼してくれたのだ。”
“ゲート前で「ミスタードミンゴ」と声を掛け抱き合ったが、涙にむせんで私は声が出なかった。
ドミンゴは「アイノウ(分かっているよ)、アイノウ」とつぶやいて私の肩に回した手に力を込めた。”
余震や原発の問題が続く中で、ドミンゴさんが、無事来日され、公演で大成功を収めることが出来たのは、
寺島さんとドミンゴさんとの深い心の絆があってこそだったのだと思います。
世界的に有名なテノール歌手ですね。
オペラの指揮者として「こうもり」を指揮したり、歌劇場芸術監督としても活動されています。
ドミンゴさんは、スペインマドリード生まれです。
ご両親は、サルスエラと呼ばれるスペイン舞踊も取り入れた伝統音楽劇の歌手でした。
ドミンゴさんも、サルスエラ劇団を経営する両親とともにメキシコに移住し、そこで腕を磨きました。
パヴァロッティさん、ホセ・カレーラスさんと行った「3大テノール」の大イベントも有名ですね。
日経新聞の文化欄(4月29日)に、上記タイトル名で記事が出ていました。
これは、サンフランシスコに住む、寺島忠男さんという音楽プロデューサーによって書かれた記事です。
4月10日と13日の日本公演のこと、NHKのニュースでも紹介していましたので、ご存知の方も多いと思います。
“満席のNHKホールに喝采がうねりとなってこだまする。
舞台に引き返したプラシド・ドミンゴが、祈りを込めてアンコールに唄歌「故郷(ふるさと)」を日本語で歌う。
観客は総立ちになり、一緒に歌いながら感動の涙。
歌っているドミンゴや共演したソプラノ、ヴァージニア・トーラの目にも涙が光っていた。
舞台と客席が一つになり、天に届けとばかりに別世界の空間が広がった。”
その様子を想像するだけで、もう感動で胸がいっぱいになります。
寺島さんは、今回の公演をプロデュースしました。
今まで、ドミンゴさんの日本公演を22回も手がけてこられました方なのです。
公演前、日本の関係者には、“一貫して「大丈夫。ドミンゴは必ず行くから」といい続けた”そうです。
しかし、一方で、“35年間の音楽プロモーターの経歴で初めて、公演中止の四大条件(天災、戦争、クーデター、ストライキ)を超える現実に愕然とした”そうです。
ドミンゴさんには、“日本政府や東京電力の発表する公式データを報告しながらも、「絶対に問題ない」などと、安全を過度に強調する表現もあえて避けた。”
“4月1日に来日を最終決定したが、ドミンゴからは一度も「大丈夫か」という問い合わせはなかった”そうです。
公演直前の8日、メキシコ大使館主催で歓迎晩餐会がありました。
“乾杯が終わってしばらくして、メキシコ大使がおずおずと聞いた。
「震災後数多くのイベントが中止され、海外アーティストも来日をやめた。
このようなときにためらいは全くなかったのですか」”
ドミンゴさんはこう答えたそうです。
“「今日ここに着くまで、私は来日に一度たりとも疑問を持たなかった。
もし来ない方がいい状況なら、24年間一緒に仕事をしてきたヨシコとテリーが最初に言ってくれる。
彼らが言わないのなら、絶対に安全だと確信を持っていた」”
続けて寺島さんはこう書いています。
“これほど熱く、心打たれる言葉に、一生に一度でも出会うことができるだろうか。
私はドミンゴの温かさと人間的な大きさに心が震え、こみ上げる涙を抑えることができなかった。”
『ヨシコ』とは、寺島さんの奥さんの名前であり、『テリー』とは寺島さんの愛称だったのです。
日本での「三大テノール公演」も、寺島さんがプロデュースしました。
“国立競技場でのコンサートで「川の流れのように」を歌うことを嫌がったパバロッティさんを、
開演ぎりぎりでドミンゴが説得してくれたことも”あったそうです。(笑)
ドミンゴさんとの成田空港での別れの場面です。
“責任を果たした安堵感もつかの間、14日、帰国する一行を成田空港で見送った。
日本のファッションに興味を持ち、夫人にせがんで付いてきた13歳になる孫娘も。
ドミンゴ夫妻は孫を同行するほどに私たちを信頼してくれたのだ。”
“ゲート前で「ミスタードミンゴ」と声を掛け抱き合ったが、涙にむせんで私は声が出なかった。
ドミンゴは「アイノウ(分かっているよ)、アイノウ」とつぶやいて私の肩に回した手に力を込めた。”
余震や原発の問題が続く中で、ドミンゴさんが、無事来日され、公演で大成功を収めることが出来たのは、
寺島さんとドミンゴさんとの深い心の絆があってこそだったのだと思います。
プラシド・ドミンゴさんの温かいお人柄と寺島夫妻との強い信頼関係にも心が打たれました。mixiのチェックで紹介させて頂きました。テラさんも寺島さんと縁戚関係(笑)
「故郷」は私も息子も大好きな歌。
昨日は、息子が突然「赤いりんごに唇よせて~♪」と歌ったの。
なくなった母が大好きだったから?昭和の日だから?
無意識に歌ったと息子は言っています(笑)
私はその歌と「故郷」を口ずさんでいました、そんな昭和の日でした。
mixi、ありがとうございました。
親戚ではないと思いますが(笑)、親近感を感じ、感情移入してしまいます。
息子さんのりんごの歌、そして故郷、いいですね。
息子さんは、次世代の日本を担う一人、そしてあささんの守護神でもありますね。