消費者ニーズの変化や環境意識の高まり、更に海外資本からの日本経済の閉鎖性に対する批判等も重なり、大店法は2000年に大規模小売店舗立地法(大店立地法)に替わることに成った。然し、折角作った此れ等の法も「仏作って魂入れず」大きく日本から日本を消えさす日本社会の毛唐人化に大きく貢献し、家族主義から個人主義への日本へと変えて仕舞ったのだ。
元々、大規模小売店舗法(大店法)は、大型店の出店を規制し、中小小売業を保護・育成することを目的としたものであった。処が、大資本企業に色々と抜け道を作って上げて日本中の多くの商店街をシャッター街に変えて仕舞った。その最たるものが、コンビニである。然も、コンビニは家族経営の小規模店と較べて決して商品単価は安いものでは無い。其れも、車社会に代わって便利さを求める消費者ニーズに適うものだと言い訳しそうだが、ならば、商店街に駐車場を何とかして設置する施策を考えれば良かったのだ。
家族経営的地元の商店は、従業員も近所のおばちゃんなどが手伝っていた。店と客との会話の場でもあった。詰まり、大資本は地域社会の人々の繋がり迄壊した。店員も顔見知りで無く、都会では得体の知れ無い異民族がレジに並んでる。地域社会の人々の繋がりはこうして悉く壊されて行ったのだ。濃密な人間関係は鬱陶しいと割り切る人も居るが、今や町から人情が消えて終った。人情が薄くなった助け合いには心が伴わず強要される助け合いは、知らぬうちに人々の心が病んで行く。
血の繋がりも縁も所縁も無い異民族との共生や多様性の強要も、心を余計に閉鎖的にするだけで心の潤いを壊されるばかりなのである。「人権だ!非差別だ!」と喚かれれば喚かれる程、 " 強要される " 似権主義で心が病んで終うのだ。
我々は公人や公的機関に「こころ」の問題j迄踏み込む権限は渡して無い。奴等は、社会を殺伐としたものにすることに手を貸して居るのだ。其の方が余程奴等に都合の良い社会と出来るのだろう。
人間は長く権益の地位に付くと、必ず既得権を造り私利を固定化し拡大を目論むことに慣れ親しんで行く生物である。大概、国家や地域が衰退するのは其のことが原因である。間接民主制は早急に辞めるべきで、新たな政治手法に変えるべき時期は遂っくに来ていたのだ。大体、現憲法の尊寿を誓った奴等が改憲を扇動する等、与太も良い処である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます