詩人の山尾三省のことを 知ったのは、まだ最近の事。
三省は屋久島で農耕の日々を送っていた時に、農作物に鳥獣の害があっても、決して柵を作る事はしなかったと言うことを聞いた。
人間と野生の動物がどの様に共存すべきか?深く考えさせられるものがあった。
三省の遺言は、最近いろいろな媒体で目にするが、全文はネットで検索していた時にたまたま発見した。
三省の「世界を愛する事は家族を愛することと」言う部分や、環境・原発・戦争に対する想いも重なる部分が多くて、僕の想いと良く似てるなと思って嬉しくなった。
人と人との出会いも必然であるなら、きっと人と言葉との出会いも必然なのだろう。
人は死んでも、その人が産み出した言葉は残っていく。
僕がこのblogを書きはじめたきっかけも、いつか子供や孫達に読んで欲しいという想いもあったから。
世界の平和を願う想いは、恋愛の延長線にあるものだと思う。
三省の遺言は本当に LOVEでPEACEな想いに溢れている。
以下がその全文です。
子供達への遺言・妻への遺言
山尾 三省
僕は父母から遺言状らしいものをもらったことがないので、ここにこういう形で、子供達と妻に向けてそれ書けるということが、大変うれしいのです。というのは、ぼくの現状は末期ガンで、何かの奇跡が起こらな
い限りは、2、3ヶ月の内に確実にこの世を去って行くことになっているからです。
そのような立場から、子供達および妻、つまり自分の最も愛する者達へ最後のメッセージを送るということになると、それは同時に自分の人生を締めくくることでもありますから、大変身が引き締まります。
まず第一の遺言は、僕の生まれ故郷の、東京・神田川の水を、も
う一度飲める水に再生したい、ということです。神田川といえば、JRお茶の水駅下を流れるあのどぶ川ですが、あの川の水がもう一度飲める川の水に再生された時には、劫初に未来が戻り、文明が再生の希望をつかんだ時であると思います。
これはむろんぼくの個人的な願いですが、やがて東京に出て行くやもしれぬ子供達には、父の遺言としてしっかり覚えていてほしいと思います。
第二の遺言は、とても平凡なことですが、やはりこの世界から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外してほしいということです。
自分達の手で作った手に負える発電装置で、すべての電力がまかなえることが、これからの現実的な幸福の第一条件であると、ぼくは考えるからです。
遺言の第三は、この頃のぼくが、一種の呪文のようにして、心の中で唱えているものです。その呪文は次のようなものです。
南無浄瑠璃光・われらの人の内なる薬師如来。
われらの日本国憲法の第9条をして、世界の全ての国々の憲法第9条に組み込まさせ給え。武力と戦争の永久放棄をして、すべて
の国々のすべての人々の暮らしの基礎となさしめ給え。
以上三つの遺言は、特別に妻にあてられたものなくても、子供達にあてられたものでなくてもよいと思われるかもしれませんが、そんなことはけっしてありません。
ぼくが世界を愛すれば愛するほど、それは直接的には妻を愛し、子供達を愛することなのですから、その願い(遺言)は、どこまでも深く、強く彼女達・彼ら達に伝えられずにはおれないのです。
つまり自分の本当の願いを伝えるということは、自分は本当にあなたたちを愛しているよ、と伝えることでもあるのですね。
死が近づくに従って、どんどんはっきりしてきてることですが、ぼくは本当にあなた達を愛し、世界を愛しています。けれども、だからといって、この三つの遺言にあなたがたが責任を感じることも、負担を感じる必要もありません。
あなた達はあなた達のやり方で世界を愛すればよいのです。市民運動も悪くないけど、もっともっと豊かな”個人運動”があることを、ぼくたちは知ってるよね。その個人運動のひとつの形としてぼくは死んでいくわけですから。
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山尾三省(やまお・さんせい)、詩人、1938年東京生まれ。早稲田大学西洋哲学科を中退し、1960年代の後半にナナオサカキや長沢哲夫らとともに、社会変革を志すコミューン活動「部族」をはじめる。1973年、家族と、インド、ネパールへ1年間の巡礼の旅に出る。1977年、屋久島の廃村に一家で移住。以降、白川山の里づくりをはじめ、田畑を耕し、詩の創作を中心とする執筆活動の日々を屋久島で送る。1997年春、旧知のアメリカの詩人、ゲーリー・スナイダーとシエラネバダのゲーリーの家で再会。ゲーリーとは、1966年に京都で禅の修行をしていた彼と会ったのが最初で、そのとき、ふたりは1週間かけて、修験道の山として知られる大峰山を縦走している。ゲーリーがアメリカに戻り、三省はインドへ、そして屋久島へ移住したため、長い間交流がとだえていた。三省は、ゲーリーの近年のテーマがバイオリージョナリズム(生命地域主義)であることを知り、自分が20年来考え続けてきた、「地球即地域、地域即地球」というコンセプトとあまりに近いことに驚いたという。2001年8月28日、屋久島にて亡くなる。
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『MORGEN』2001年7月7日号より転載させてもらいました。