一時は、これはどうかと思われたイェメンのコレラ大流行。危機は去りきっていないものの、罹患件数には大幅な低下が見られるということで、MSFは治療所を閉鎖する意向。
「Only 567 new patients sought treatment at the medical charity's centres during the second week of October, down from 11,139 in the third week of June」
それはよかった。
こういう朗報のあとに読む少年爆弾の記事など、流石に気分の悪さもひときわ大きい:
BBC Kabul Green Zone attacked by suicide bomber 31 Oct 2017
「A spokesman for Kabul police told the BBC the bomber was thought to be as young as 12 or 13」
BBC Gaza: Palestinian militants killed as Israel hits tunnel 30 Oct 2017
BBC Japan man held over bodies and severed heads in flat 31 Oct 2017
ところで先ほど
学問も大学の自由もわからぬ学歴コンプレックスの塊のような首相始め官邸が大学をいじっているので、死滅まっしぐらは当然です。大学の先生方、あなたがの首は絞殺されつつある。すぐに声を上げないと、とんでもないことになります。どうして沈黙しているのですか。 https://t.co/2hwGvqaHL8
— 澤田愛子 (@aiko33151709) 2017年11月1日
この発言に接し、「学歴コンプレックスの塊のような首相」というところで、はたと思い起こすところがあった。ああ、そういえば、安倍首相の悪口を言いまくっているひとのひとり、首相を低学歴扱いしたことがあったな。
…でもうちの国の年長者たち、修士・博士で政治家するひとはあまりいないし、「へへん、学部卒が」とか言っても意味はあまりなさそうな…と私は思うが、なんかあのひと、低偏差値大学の卒業だとかなんとか言ってたっけか。
私としては有能かどうかが判断基準でありまして、自分の無能を知った上で、そこを補うために有能な人材を集めることができる人は有能と判断する。なので、私は安倍首相を、少なくともその点で大いに評価するのだが…。
「憲法が排除している」「憲法が予定していない」「憲法が沈黙している」はそれぞれ違う、の差異についてきちんと意識するべきでしょう。現状の党議拘束(制裁が党内措置に留まる)については「沈黙している」レベルで、明文保障されている議員の独立性に対抗できるようなものではないでしょうね。 https://t.co/DDIrTzWk6l
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2017年10月31日
大屋雄裕先生に限らず、レトリックを弄することで言質をとられないようにしているつもりの人達が、見落としていることがある。それは、発言者の真意は「何を語ったか」だけではなく「何を語らなかったか」によっても明らかになってしまう、という事実。
— 海原健叡@立憲民主党支持、肉球新党所属 (@kaibarakenei) 2017年10月31日
これは尤もなこと。
井上達夫先生も「原理Σを貫けば現実Aは間違っている!」という論法を使うけど、「それですと現実Bも現実Cも間違っていることになって世の中立ち行かなくなりますが、いいの?」とツッコミたくなるケースが多々ある。井上先生は天然だけど、弟子の大屋先生はこれを意図的にやってるわけね。
— 海原健叡@立憲民主党支持、肉球新党所属 (@kaibarakenei) 2017年10月31日
意図的にやることはある。
なので、『ああ、俎上にのせられている先生は』云々思い込みそうなところ、このクレームのすぐ前辺りに
⑩建前論で詰めると憲法上の原理が勝ちそうであるところ、まあ事実は事実なので妥協しましょう譲りましょうということでこれまでの慣習が成立してきた。この構造の上にあぐらをかけば原理を持ち出してひっくり返されるのもある意味では当然で、事実やその重要性という丁寧な議論で反論するしかない。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2017年10月31日
⑪こういう問題の構造や、それを踏まえて「事実たる慣習」の由来や重要性を踏まえて議論するあたりが法的思考で、とにかく慣習は慣習だと開き直るなら単なる旧套墨守に過ぎない。そういう思考法に原理や伝統の読み直し・再解釈で立ち向かってきたのが本来のリベラリズムなんだけどね、と。(終)
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2017年10月31日
とあって、「読めてないほうが悪い」がFAになる。
さらに言えば、ここまで憲法上の原理論を強調し、憲法上保障されていない制度については既に存在していても自明視しない、という立場なら、「そもそも質問時間に制限があること自体、憲法上妥当か」という点を検討すべき。しかし大屋先生は、なぜか、それはやらない。 https://t.co/s7DugTEp0E
— 海原健叡@立憲民主党支持、肉球新党所属 (@kaibarakenei) 2017年10月31日
「資源には制約がある」という事実については、憲法は当然のものとして前提してはいないだろうか。
例えば、憲法は「男・女」に二分法を前提にしている・予定している。しかし第三の性というべき状態もあり、これは「憲法は予定していない」だろう。
性転換したあとの男・女が結婚するのはどうだろう、生の男・男ないし女・女のカップルの結婚はどうだろう―これを「憲法は排除している」と読めば、旧来の結婚観を維持することになる。生の男・男ないし女・女のカップルの結婚、ないしそれに準じた関係を公認するのは、憲法違反ということになる。「護憲派」なら、これを潰さねばならぬ。
しかしここで「読み替え」を行い、『ここで言う男女とは、憲法制定当時は生の男女を言ったが、事柄の内容上、性転換後のそれをも含むと見てよい』としてカップルの権利を擁護し、『それだと子供を作れず、社会の再生産になんら寄与しない』という反論に対して『それなら、子なし夫婦にも夫婦として存続する権利はないわけですね? それでえーんか?』と切り返し、アウフヘーベンといえば聞こえはいいが、ある意味ではなし崩しに自由を拡大してきたのが歴史なのだろう。
とまあ、素人でも数分、文章を読み返してみたり、数分考えればそれなりに後追いできる程度の話なのではないか。
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