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空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

じゅぎょうけんきゅう。

2012-09-20 18:00:00 | ノート
斜め上から目線 「尖閣諸島を守るために防衛力を持とう」というリアリストが一番怖い 2012/9/19

ですが、「防衛力」を声高に主張する現実主義者は、しかし実際に戦場にいく覚悟はほとんどの人がないでしょう。現実主義者なのだから、彼らこそが、人と人が殺し合うという〈現実〉に接しなければならないのに

 ああ,ガチ戦争になったら雲隠れしたビン・ラディンという人がいましたね。彼は最後には,他ならぬ「人と人が殺し合うという〈現実〉に接し」ましたが(経由地:)。

 えーっと。

 ど左翼的理屈になるっぽい気がしますが。

 およそ組織体があれば,権力関係が現れざるを得ないとしましょう。そして組織をなすからには,その維持のために一定程度の強制力は働かざるを得ないとしましょう。この前提は,最小限度の人間的組織=家族において既に成立しているとみるものとしましょう―

 ―『**しちゃだめよ,わかった?』と,わが子に言い聞かせる母をでも,思い起こせばいい。それはその小家族の秩序維持のためであり―さらには,文脈によっては,家族以外の組織の存在・家族以外または以上の価値を指し示すことだろう。

 ところで強制力の強烈な表れとしては,まあ暴力があろう。この家族の場合,父親がそれを担うとしよう。例えば子供がおもらしした時に,父親が叩いて『今後このようなことのないように!』と”指導”したとしよう。この場合,母親が『ね? お父さんに叩かれたら痛いから,おもらししちゃダメなのよ』ならまだしも,『痛いことするなんて,お父さんって乱暴者ね! 暴力振るうってダメなことなのよ! お父さんみたいになっちゃダメよ!』と”指導”するなら―どうだろう。

 後者のような,類似パターンは他にもあり得る。電車等々,公共機関で土足で…などという子供を叱る大人がいるだろう,それに「あんな怖いおじさんなんか,居なくなっちゃえばいいのにね!」などとする例があるだろう。

 こう言う場合,この母親は全く物理的暴力をふるわぬ点で,全く非暴力的な=平和な存在なのであろうか?

 いや,それは発動されうる物理的強制力を(悪いものだと価値判断したうえで)他人に押し付けている姿ではあるまいか。それならここには,ある種の心理的カーストが存在しているのである。物理的暴力を振るうことのない「母親カースト」と,その小社会を非暴力のままに置くために,暴力を担う「その他カースト」と。
 それは,緩い言い方を許容するなら,階層といえるものではないか,階級ともいうのではないだろうか,それが如何に小規模なものであろうとも。

 なるほど,この母親は物理的暴力を一切振るわない。外見上,我が子を愛しげに抱きしめる,愛情深い母親である。しかしその思想はたいへん差別的な―暴力的なものではなかろうか。
 同様に,「そもそも物理的暴力なんか担うはずのない平和主義の私たち」と,「本質的に物理的暴力を担う抑圧的な彼ら」とを,価値の序列のなかに予定しているあたり,なんかもーすっごい差別主義者なんではあるまいか。

 そりゃあまあ物理的暴力は忌まわしいもの,ということで,まあいいかもしらんが,その”忌まわしい暴力”だって我々の存在に深く根ざしているもののようであり,その点をクリアせずして,社会的に(一定程度,偶然的に)その”忌まわしい”仕事を割り振られた者を”忌まわしい者”として”われわれ”から排除するとは,なんとも陰湿な暴力というべきではないか。しかも彼ら暴力執行者がなければ,我々の社会は立ち行かない性質であろうものを(※)。

 この点の差別意識を指摘し,人間の革命を求めるのが人倫の王道というべきではあるまいか。

 …とまあ,私に可能なレベルでマルクス的にやってみた感じ。というかたぶん今村風。ぶっちゃけ赤坂風味。
 そんなこんなで,善なる「平和主義」を売り物にする場合,悪なる物理的暴力をアウトカーストとする差別主義に陥りかねないという点仄めかしてみる。この程度の理論なら学部生水準でいけるはずなのでもっとがんばれ平和主義者。


 家族の喩え話は有効かと思った。例えば,保育所でトヨタとかまーなんか財閥の跡取り息子とうちみたいな”末の藤原”未満の息子が(まあ,おもちゃの取り合いで)喧嘩したとしよう。ちょっとケガなんかしちゃったりして,そこで『お互い理性的にお話しましょう? 私たち,理性ある大人なんですから,大人のお付き合いができますよね?』と財閥の奥さまに言われてもこわいだろ,それ。それがここでいう暴力だ。

 USAが嫌われるのもソレじゃないか。口では「まあできれば話し合いでな」とか言ってくるが,なんかのタイミングでブチ切れて超暴力ぶちかましてきかねない。『ちょっと待って! うちと君とは,互いに対等のモノとみなすってのが国際的なお約束じゃないかああああ!』って言っても,もう遅い。
 彼ら(USA)は言葉通り,できれば平和的に,しかし必要なら実力で以て行動する。ところで世界が,基本的にはそーいう大国に逆らわない・逆らえないのはなぜだろう? それはその実力による。

 でまあ,日本が警戒されたりするのは,やはりその実力にも因るわけで―財閥の例からも分かる通り,経済力も含む実力に因るわけで。
 で,そこで「ルールに則ったお話合い」をするのにだって,実はソフトパワー含めた実力が効いてくるわけで―

 …つまり,先ほどの母親の例で言えば,この母親は「非暴力的な母親」という姿で子供を引きよせ,小社会を形成する小王なのである。

 しかも,行動の事例が累積すれば,それはそれで一定の行動様式であり,それ自体がある種の権威を帯びるわけだ―既に「平和国家日本」というブランドからして(それはそれなりの)権力だったりする(普段物腰宜しい財閥の奥様の「○○さんにはちょっと困りまして」なんてひとことがどれほど恐ろしいか,ちょっと想像してみればいい)。

 そーゆーわけで,まったくのゼロベース理論上ならともかく,欠片でも時間の経過とかなんとか導入すると,途端にものっそエグい政治的世界が展開するので耐えろ平和主義者。私なら耐えてる。



※絶対平和非暴力主義の人に,例えば多少軍事趣味入ったひとが「へーふーんそーぅ,君そんなこと言うなら,君は自宅に鍵もかけないし警察もいらないってゆーんだねーへーほー」とかいうことがあろう。この際,絶対平和非暴力主義を取ると称する方の人は,鍵かけたりとかあたりまえじゃーんとか思うかもしれない。

 でも,そうして「他者」を排除するところから,微細な暴力が始まるよねってわけだ。

「そこは仕方ないじゃん,当然のことだろ?」と居直るところから,暴力が当然のように振るわれる論理が漏れ出ていく。もちろん,”うちの領域”を”警備”するのは当然だという理屈にいっちゃうし,そしたら尖閣だろうとなんだろうと実力で守ってよし,ということになる(個人レベルと国家レベルとを安易に重ね合わせるな,という指摘は無論ありえる)。
「じゃあ,どこからどこまでが,”当然の”排除,暴力なの?」という問いかけがそこにあるべきだろう。さあ,どうだろう―





 …うん,思想関係の一般講義の導入として,まあまあ使えなくはないかなあ。

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3 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (teiresias)
2012-09-21 15:37:44
我々は当然のこととして,一定の暴力を行使せざるをえない。その認識に立って,それなりに理性的にでも合理的にでも,まあ納得のできる程度に暴力行使ということにしよう,ということになるかと思う。

こういう考え方について,『暴力容認なんてオカシイ!』っていってひとをオカシナヒト扱いする場合,そこには既にあるひとを普通でない人扱いする排除の暴力があるってわけで,いまこの文脈で問題とする暴力を否定する論理であるどころか,上掲の論理の適用例をまたひとつ増やすだけのことにすぎない。
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Unknown (teiresias@講義ノート用メモ作成中)
2012-09-21 15:46:49
…誤解なく講義をするには,だいぶ文章と例とを練る必要があるな。
しかしそんなものをじっくり扱うほどの時間は与えられていない気がする。
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Unknown (teiresias)
2013-07-31 19:36:01
…こーゆーメモをベースにエッセイ書いて「教育論文です」と主張する…ようなことはしたくない,と改めて思うところを書いてみたりする今日この頃。
まあねえ。なんらかの対処はしなきゃいけないんですがねえ。
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