NHKの大河ドラマ「坂の上の雲」第2部は第九回で終わりました。そのタイトルは「広瀬死す」でした。第3部は、日本海海戦の快勝で終結する日露戦争のクライマックスを迎えます。
福井丸指揮官・広瀬武夫海軍中佐が戦死したのは、旅順港を基地とするロシア太平洋艦隊を港内に封鎖する第二次封鎖作戦を決行した明治37(1904)年3月27日でしたが、明石元次郎(あかし・もとじろう)のロシアに対する諜報工作の一端が話の冒頭に描かれていました。
日露戦争開戦当時、日本陸軍は、中国、ロシアの動向を探るための大諜報網を構築していました。
ロンドン、パリ、ベルリン、ウイーン、インドにある公使館に駐在する文武官による対露諜報活動には、見るべきものがあった。ロンドン公使館の林公使、宇都宮太郎陸軍中佐が明石元次郎陸軍大佐の対露工作活動を助け、明石大佐、宇都宮中佐の報告が最も効果があった。また、明石大佐が当時使用した諜報費は100万円(現在価値400億円以上?)、その内27万円は残った。日露戦役戦勝の一原因もまた、明石大佐ならざるか(原書房刊・谷 壽夫著:機密日露戦史より抜粋)。
このように、明石大佐は、日露戦争の全般にわたりロシア国内の政情不安を画策して、ロシアの戦争継続を困難にした、日本の勝利に貢献するための謀略戦を展開する駐在武官としての責務を遂行した人物です。彼の行ったロシア革命工作は、諜報活動のモデルケースとして陸軍中野学校の講義に取り上げられているなどのエピソードもあります。
いずれにしても、ロシアに宣戦布告してから僅か45日後に広瀬中佐が戦死します。それから1年2ヶ月後の明治38(1905)年5月27日、日本海海戦の火蓋が切られ、その顛末は歴史が証明している通りです。ここでは、イスタンブールにおける情報活動に触れたいと思います。
ご存知のように、トルコの北部は黒海、南部は地中海に面しており、ブルガリア、ギリシャの国境が西部にあり、東部はグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアとの国境に接しています。また、黒海とマルマラ海はボスポラス海峡で結ばれ、マルマラ海とエーゲ海と結んでいるダーダネルス海峡があるトルコ国土は、ヨーロッパとアジアの2大陸にまたがっています。
ふたつの海峡と内海で分断されているトルコは、西部地域をヨーロッパ側(トラキア)、東部地域はアジア側(アナトリア)と称しています。
特にイスタンブール市街は、ボスポラス海峡とマルマラ海で分断された地域と、ヨーロッパ側の街に切り込んでいる金角湾(きんかくわん)で分割されている地域があります。金角湾を挟んでギリシャ、ブルガリアに近い西側は旧市街、対岸の東側は新市街と区分して呼んでいます。
金角湾で2分割された旧・新市街を結ぶ交通手段は渡し船でしたが、1836(天保7:徳川11代将軍・家斉の時代)年に建設された可動式跳橋・ガラタ橋の架橋によって、ガラタ地区は新市街として発展し、現在に至ったようです。
ところで、旧市街のガラタ橋脇にある海峡クルーズ遊覧船が発着するエミノニュ桟橋から、ガラタ橋とガラタ塔が観えます。旧市街から新市街を結ぶガラタ橋に乗っかっているように観えるガラタ地区、その中央に尖っているガラタ塔(写真)。
ガラタ橋の右横に見える白い箱型の建物は、跳橋を運営・管理するために建てられた小屋でしょうか。橋の左に広がる金角湾や右のボスポラス海峡を行き交う船舶を監視する役割を、今も担っているかも知れまれせん。
ちなみに言いますと、隅田川に架かっている勝鬨橋(かちどきばし・中央区墨田区)には、運転室、宿直室、見張室など4つの小屋が設けられていました。それらから類推した元気印の独断は、そう的外れではないでしょう。小屋の外壁が綺麗なのは、周りの景観を損ねないように塗装しているんですよ、きっと!!
さて、写真には、ガラタ橋をくぐり抜け金角湾奥へ向かう遊覧船が写っています。
ボスポラス海峡へ船首を向けたクルーズ遊覧船は、ガラタ橋を背にして、新市街を左舷に展望しながら進みます。岸辺には古い木造の別荘・ヤルが並び、中には自家用モータボートを係留しているヤルもありました。その後ろに広がる小高い丘の斜面には高級住宅が建ち並んでいます。
やがて、ボスポラス橋(第1ボスポラス橋)をくぐり、ファーティフ・スルタン・メフメト橋(第2ボスポラス橋)の下を通過した遊覧船は、途中でUターンして桟橋へ戻ります。
桟橋へ引き返さずに直進すると海峡は黒海に合流しますが、黒海岸には軍事施設があるので、アナドル・カヴァーウから先への周遊は禁止されています。
Uターンした海峡周遊船が、マルマラ海に建っている乙女の塔を眺めながら進めば、ダーダネルス海峡を経てエーゲ海から地中海へ抜け、大西洋へと船足を伸ばします。あるいは、小型周遊船は地中海からスエズ運河を経由してインド洋へ出るかも知れませんよ。でもね、10日間の制限があるトルコ周遊ツアーでは、どちらも叶わぬ夢物語。エミノニュ桟橋へ下船した時には、イエニ・ジャミイの尖塔が眼前に聳え立っていたのです。
ここから、日露戦争にまつわる話になります。
日露戦争開戦当時、バルト海艦隊、黒海艦隊、太平洋艦隊から編成れていたロシア海軍の戦力は、次のようでした。
バルト海艦隊(リガ、リエパーヤを基地とする):戦艦9隻、海防戦艦3隻ほか
黒海艦隊(オデッサ、サバストポリを基地とする):戦艦8隻ほか
太平洋艦隊(ウラジオストックと旅順を基地とする):戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻ほか
他方の連合艦隊戦力は、戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻ほかです。
海戦の主力を担う戦艦、準主力の装甲巡洋艦を何隻保有しているか。これで戦力を測っています。
それらで戦力を比べると、戦艦はロシア23隻、連合艦隊が4隻、装甲巡洋艦はロシア6隻、連合艦隊8隻です。英仏に次ぐ世界3位を誇示していたロシア艦隊は、日本連合艦隊の3倍もの戦力を保持しています。
「日本とトルコとは共通の脅威を感じ、共通の敵を持っている。すなわち、ロシアである。ロシアは西洋における不凍港を求めてトルコと戦い、東洋における不凍港を求めて日本と戦おうとしている。ロシアによる南下政策はもはや本能といってよく、トルコがロシアと戦ったように、日本もまたロシアと戦って祖国を防衛しなければならなくなるだろう。バルト海にあるバルチック艦隊に黒海艦隊が合流し、さらに旅順艦隊が合流してしまっては、日本は、間違いなく叩き潰されるだろう。だから、ロシア艦隊の状態が知りたい。黒海艦隊の編成はどうなっているのか。日本まで遠征することが可能なのか」(新人物文庫:秋月達郎著:海の翼より抜粋)。
明治24(1891)年1月2日にイスタンブールへ到着し、ドルマバフチエ宮殿前に投錨した日本海軍の軍艦「比叡」に乗船していた幹部候補生・秋山真之(あきやま・さねゆき)は、宮殿に宿泊していたのです。
そして、ロシア艦隊の動静が日露戦争の趨勢を決めると情勢判断していた真之は、時事新報の記者・野田正太郎にロシア艦隊の動静を注視し連絡するように依願します。
一方の正太郎は、オスマン帝国(トルコ)海軍の小型木造巡洋艦・エルトウールル号の殉難と日本海軍の新鋭軍艦「金剛」「比叡」による生存者69名の送還を取材する記者として「比叡」に乗船していた際、真之と知遇を得る機会があったのです。
そんな縁で、真之から黒海艦隊の動静収集と報告の依願を受けるなどの事情から、トルコに定住する最初の日本人となるのですが、病を患っていたために、真之との約束を履行する責務を山田寅次郎へ委託して、正太郎は帰国します。
寅次郎は、台風の直撃を受けて沈没したエルトウールル号の犠牲者581名の遺族に、丸1年に及ぶ演説で集めた義援金5,000円(現在の1億円相当)の為替証書を持参してイスタンブールの土を踏みます。
「比叡」艦長の田中綱常(つなつね)が認めてくれ紹介状のお陰で、海軍省が仕立てた英国艦に乗船して、明治25(1892)年1月30日に日本を離れます。イスタンブールでは、アブデユルミハト2世との単独謁見までこぎつけた寅次郎。その彼にトルコの士官学校教授になるように政府高官から懇願され、受託します。これがきっかけになり、既に士官学校教授を努めていた正太郎と再会するのです。
その当時、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡は、1856(安政3・徳川13代将軍・家定の時代)年に、イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、サルデーニヤ、オスマン帝国、ロシア間で締結した「パリ条約」によって、トルコ以外の軍艦が通過することを禁止していたから、ロシアはトルコに対して、黒海を航行していた3隻の商船が、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡を通過するという事前通告を行い、明治37(1904)年7月4日朝、商船に偽装した軍艦は、ボスポラス海峡を無事通過してしまいます。ロシアに宣戦布告してから5カ月後のことです。
黒海艦隊の軍艦3隻通過を確認した寅次郎ですが、国交断絶状態にあったトルコから日本へ知らせる手段がありません。イスタンブールから一番近いウイーン公使館へオリエント急行で向かうのです。寅次郎の情報は直ちに日本の公使館へ報告され、連合艦隊司令部へ届けられたのです。
この報告を受け取ったのは、連合艦隊司令長官・東郷平八郎に抜擢され、第一艦隊参謀に就いていた海軍中佐・秋山真之だったのです(同上)。
寅次郎が商船に偽装した軍艦を見破ったのは、ガラタ塔でした。
彼は、明治天皇を信奉していたケルマ・アタチュルク(トルコ革命を指導したトルコ共和国初代大統領)に、ボスポラス海峡を通過するロシア艦隊の動静を監視する絶好の場所を教示されていたのです。士官学校時代に寅次郎の講義を受講していたアタチュルクは、若者に昼夜を分かたずにガラタ塔からの監視を睥睨(へいげい)して、寅次郎の諜報活動を支援します。
1384(永徳元・足利3代将軍・義満の時代)年に建てられた高さ68m、53mの所に展望テラスが設けられている石造のガラタ塔は、申し分のない監視塔になり、寅次郎が正太郎との約束を果たす支えになったのです。
今回のトルコ周遊ツアーに参加するまでは、全く知らなかった秋山真之、野田正太郎、山田寅次郎の細やかな人間関係を構築した日本人としての誇り、小型木造巡洋艦・エルトウールル号の殉難がもたらしたトルコと日本との間に秘められていた誠の信頼を生み出した信義感の強さ、それを共有する度量の偉大さなど、などがありました。帰国してからは、それこそ、温故知新の連続ですよ。
商船に偽装した軍艦で極東の戦場へ向うロシア海軍の兵士達は、ガラタ塔で諜報活動をしていた寅次郎の報告を受けた連合艦隊に全滅させられる運命が待ち受けているとは、夢想だにしなかった筈です。しかし、事前通告をして通過するとは言っても、偽装が見破られない保障はありませんから、緊張感はあったでしょう。
そのような心理状態に陥っても、ボスポラス海峡の両岸に残っている遺蹟を眺めて緊張感を解放していた兵士が一人位はいた、と勝手に推察しています。
礼拝の呼びかけを告げる塔・ミナーレの本数が違うモスク(イスラム教寺院)は、やはり目立ちます。イエニ・ジャミイ、アヤソフイア聖堂、スルタンアフメット・ジャミイ(ブルーモスク)などの寺院は、107年前も今も変わらないでしょう。ドルマバフチエ宮殿、ベイレルベイ宮殿、などが船上から観えます。特に、トプカプ宮殿の風景には、開放感を味わったでしょう。
歴史に造詣のある兵士は、オスマン帝国のメフメト2世が東ローマ帝国を滅亡させた「コンスタンテイノープル陥落事件」をルーメリ・ヒサールの遺跡を観て思い起こしたかも知れません。
東ローマ帝国は、戦時に金角湾を鉄鎖で封鎖して、首都コンスタンテイノープル(イスタンブール)を防御していたので、メフメト2世の艦隊は湾内に入れなかった。鎖の役割を果たす「パリ条約」も事前通告という電動カッターで切断したので、黒海から大西洋へ出るのだ、と。
ガラタ塔は、金角湾を封鎖するための塔として建設されたのですが、1204(元久元・源実朝の時代)年に破壊され、現存しているのは、1348(貞和4・足利尊氏の時代)年にジエノバ人がキリスト塔として再建したものです。
やっとこさ、話は諜報活動の舞台、ガラタ塔に戻りました。
ガラタ塔は、ボスポラス海峡を通過する船からでも際立って観えますから、監視されていると推理されても不思議ではありません。塔の展望テラスからは、海峡を通過する船は丸見えです。107年前のガラタ地区には、現在のような建物はなかった筈ですから、船上から逆監視をしていた可能性もあります。
軍艦に搭載した砲台を偽装してあったのですが、寅次郎は砲筒の先端に気がついて偽装を見破り、そのことを確認してからウイーンへ急行したのです。祖国防衛に必須条件である情報戦での勝利を念じながら・・・。
日露戦争と縁の深いガラタ塔へなんとしても登りたい一心で、ツアー最終日にホテルから空港へバスが発つ10時30分までの時間帯に単独行動に踏み切った訳です。
ボスポラス海峡を行き交う船は、寅次郎が監視した軍艦ではなく遊覧船や貨物船などでしたが、それらの船の動向を把握できる展望でした。朝焼けに染まって佇むトプカプ宮殿は、必見の価値があります。新・旧市街を結ぶガラタ橋とその背後にあるモスクを入れると面白い構図の写真が撮れます。
たった30分しか取れなかったガラタ塔視察は、バスがアタチュルク空港へ出発する5分前にホテルへ戻ったスリル満点の単独行動をもたらし、ツアー最大の記念になりました。
ところが、ところがです。
緊急事態の連絡方法まで打合わせてガラタ塔へ行っているから、バスは10時30分に予定通り出発する手筈になっていた、と帰りの機内で家内が呟いたのですよ。9箇所あるトルコの世界遺産、その4箇所を巡ったローマ帝国の遺跡に盛者必衰(じょうじゃ・ひっすい)を思い起こしたと書けば嘘になります。でも、諸行無常(しょぎょう・むじょう)の響きを、家内の呟きに感じたのです。ガラタ塔からの帰りが5分遅かった時に元気印が起こすべき事態を想像して、冷や汗をかく一幕がお土産になるガラタ塔見学だったのです。さらに、アタチュルク空港の機内に90分も待機させられる特別付録も付いたのですから。
「なんだ、かんだと愚痴が言えるのは、思い出に残る旅の証でしょう。元気印さん」
ボケ封じ観音さまが、最後を締めてくれました。
福井丸指揮官・広瀬武夫海軍中佐が戦死したのは、旅順港を基地とするロシア太平洋艦隊を港内に封鎖する第二次封鎖作戦を決行した明治37(1904)年3月27日でしたが、明石元次郎(あかし・もとじろう)のロシアに対する諜報工作の一端が話の冒頭に描かれていました。
日露戦争開戦当時、日本陸軍は、中国、ロシアの動向を探るための大諜報網を構築していました。
ロンドン、パリ、ベルリン、ウイーン、インドにある公使館に駐在する文武官による対露諜報活動には、見るべきものがあった。ロンドン公使館の林公使、宇都宮太郎陸軍中佐が明石元次郎陸軍大佐の対露工作活動を助け、明石大佐、宇都宮中佐の報告が最も効果があった。また、明石大佐が当時使用した諜報費は100万円(現在価値400億円以上?)、その内27万円は残った。日露戦役戦勝の一原因もまた、明石大佐ならざるか(原書房刊・谷 壽夫著:機密日露戦史より抜粋)。
このように、明石大佐は、日露戦争の全般にわたりロシア国内の政情不安を画策して、ロシアの戦争継続を困難にした、日本の勝利に貢献するための謀略戦を展開する駐在武官としての責務を遂行した人物です。彼の行ったロシア革命工作は、諜報活動のモデルケースとして陸軍中野学校の講義に取り上げられているなどのエピソードもあります。
いずれにしても、ロシアに宣戦布告してから僅か45日後に広瀬中佐が戦死します。それから1年2ヶ月後の明治38(1905)年5月27日、日本海海戦の火蓋が切られ、その顛末は歴史が証明している通りです。ここでは、イスタンブールにおける情報活動に触れたいと思います。
ご存知のように、トルコの北部は黒海、南部は地中海に面しており、ブルガリア、ギリシャの国境が西部にあり、東部はグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアとの国境に接しています。また、黒海とマルマラ海はボスポラス海峡で結ばれ、マルマラ海とエーゲ海と結んでいるダーダネルス海峡があるトルコ国土は、ヨーロッパとアジアの2大陸にまたがっています。
ふたつの海峡と内海で分断されているトルコは、西部地域をヨーロッパ側(トラキア)、東部地域はアジア側(アナトリア)と称しています。
特にイスタンブール市街は、ボスポラス海峡とマルマラ海で分断された地域と、ヨーロッパ側の街に切り込んでいる金角湾(きんかくわん)で分割されている地域があります。金角湾を挟んでギリシャ、ブルガリアに近い西側は旧市街、対岸の東側は新市街と区分して呼んでいます。
金角湾で2分割された旧・新市街を結ぶ交通手段は渡し船でしたが、1836(天保7:徳川11代将軍・家斉の時代)年に建設された可動式跳橋・ガラタ橋の架橋によって、ガラタ地区は新市街として発展し、現在に至ったようです。
ところで、旧市街のガラタ橋脇にある海峡クルーズ遊覧船が発着するエミノニュ桟橋から、ガラタ橋とガラタ塔が観えます。旧市街から新市街を結ぶガラタ橋に乗っかっているように観えるガラタ地区、その中央に尖っているガラタ塔(写真)。
ガラタ橋の右横に見える白い箱型の建物は、跳橋を運営・管理するために建てられた小屋でしょうか。橋の左に広がる金角湾や右のボスポラス海峡を行き交う船舶を監視する役割を、今も担っているかも知れまれせん。
ちなみに言いますと、隅田川に架かっている勝鬨橋(かちどきばし・中央区墨田区)には、運転室、宿直室、見張室など4つの小屋が設けられていました。それらから類推した元気印の独断は、そう的外れではないでしょう。小屋の外壁が綺麗なのは、周りの景観を損ねないように塗装しているんですよ、きっと!!
さて、写真には、ガラタ橋をくぐり抜け金角湾奥へ向かう遊覧船が写っています。
ボスポラス海峡へ船首を向けたクルーズ遊覧船は、ガラタ橋を背にして、新市街を左舷に展望しながら進みます。岸辺には古い木造の別荘・ヤルが並び、中には自家用モータボートを係留しているヤルもありました。その後ろに広がる小高い丘の斜面には高級住宅が建ち並んでいます。
やがて、ボスポラス橋(第1ボスポラス橋)をくぐり、ファーティフ・スルタン・メフメト橋(第2ボスポラス橋)の下を通過した遊覧船は、途中でUターンして桟橋へ戻ります。
桟橋へ引き返さずに直進すると海峡は黒海に合流しますが、黒海岸には軍事施設があるので、アナドル・カヴァーウから先への周遊は禁止されています。
Uターンした海峡周遊船が、マルマラ海に建っている乙女の塔を眺めながら進めば、ダーダネルス海峡を経てエーゲ海から地中海へ抜け、大西洋へと船足を伸ばします。あるいは、小型周遊船は地中海からスエズ運河を経由してインド洋へ出るかも知れませんよ。でもね、10日間の制限があるトルコ周遊ツアーでは、どちらも叶わぬ夢物語。エミノニュ桟橋へ下船した時には、イエニ・ジャミイの尖塔が眼前に聳え立っていたのです。
ここから、日露戦争にまつわる話になります。
日露戦争開戦当時、バルト海艦隊、黒海艦隊、太平洋艦隊から編成れていたロシア海軍の戦力は、次のようでした。
バルト海艦隊(リガ、リエパーヤを基地とする):戦艦9隻、海防戦艦3隻ほか
黒海艦隊(オデッサ、サバストポリを基地とする):戦艦8隻ほか
太平洋艦隊(ウラジオストックと旅順を基地とする):戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻ほか
他方の連合艦隊戦力は、戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻ほかです。
海戦の主力を担う戦艦、準主力の装甲巡洋艦を何隻保有しているか。これで戦力を測っています。
それらで戦力を比べると、戦艦はロシア23隻、連合艦隊が4隻、装甲巡洋艦はロシア6隻、連合艦隊8隻です。英仏に次ぐ世界3位を誇示していたロシア艦隊は、日本連合艦隊の3倍もの戦力を保持しています。
「日本とトルコとは共通の脅威を感じ、共通の敵を持っている。すなわち、ロシアである。ロシアは西洋における不凍港を求めてトルコと戦い、東洋における不凍港を求めて日本と戦おうとしている。ロシアによる南下政策はもはや本能といってよく、トルコがロシアと戦ったように、日本もまたロシアと戦って祖国を防衛しなければならなくなるだろう。バルト海にあるバルチック艦隊に黒海艦隊が合流し、さらに旅順艦隊が合流してしまっては、日本は、間違いなく叩き潰されるだろう。だから、ロシア艦隊の状態が知りたい。黒海艦隊の編成はどうなっているのか。日本まで遠征することが可能なのか」(新人物文庫:秋月達郎著:海の翼より抜粋)。
明治24(1891)年1月2日にイスタンブールへ到着し、ドルマバフチエ宮殿前に投錨した日本海軍の軍艦「比叡」に乗船していた幹部候補生・秋山真之(あきやま・さねゆき)は、宮殿に宿泊していたのです。
そして、ロシア艦隊の動静が日露戦争の趨勢を決めると情勢判断していた真之は、時事新報の記者・野田正太郎にロシア艦隊の動静を注視し連絡するように依願します。
一方の正太郎は、オスマン帝国(トルコ)海軍の小型木造巡洋艦・エルトウールル号の殉難と日本海軍の新鋭軍艦「金剛」「比叡」による生存者69名の送還を取材する記者として「比叡」に乗船していた際、真之と知遇を得る機会があったのです。
そんな縁で、真之から黒海艦隊の動静収集と報告の依願を受けるなどの事情から、トルコに定住する最初の日本人となるのですが、病を患っていたために、真之との約束を履行する責務を山田寅次郎へ委託して、正太郎は帰国します。
寅次郎は、台風の直撃を受けて沈没したエルトウールル号の犠牲者581名の遺族に、丸1年に及ぶ演説で集めた義援金5,000円(現在の1億円相当)の為替証書を持参してイスタンブールの土を踏みます。
「比叡」艦長の田中綱常(つなつね)が認めてくれ紹介状のお陰で、海軍省が仕立てた英国艦に乗船して、明治25(1892)年1月30日に日本を離れます。イスタンブールでは、アブデユルミハト2世との単独謁見までこぎつけた寅次郎。その彼にトルコの士官学校教授になるように政府高官から懇願され、受託します。これがきっかけになり、既に士官学校教授を努めていた正太郎と再会するのです。
その当時、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡は、1856(安政3・徳川13代将軍・家定の時代)年に、イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、サルデーニヤ、オスマン帝国、ロシア間で締結した「パリ条約」によって、トルコ以外の軍艦が通過することを禁止していたから、ロシアはトルコに対して、黒海を航行していた3隻の商船が、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡を通過するという事前通告を行い、明治37(1904)年7月4日朝、商船に偽装した軍艦は、ボスポラス海峡を無事通過してしまいます。ロシアに宣戦布告してから5カ月後のことです。
黒海艦隊の軍艦3隻通過を確認した寅次郎ですが、国交断絶状態にあったトルコから日本へ知らせる手段がありません。イスタンブールから一番近いウイーン公使館へオリエント急行で向かうのです。寅次郎の情報は直ちに日本の公使館へ報告され、連合艦隊司令部へ届けられたのです。
この報告を受け取ったのは、連合艦隊司令長官・東郷平八郎に抜擢され、第一艦隊参謀に就いていた海軍中佐・秋山真之だったのです(同上)。
寅次郎が商船に偽装した軍艦を見破ったのは、ガラタ塔でした。
彼は、明治天皇を信奉していたケルマ・アタチュルク(トルコ革命を指導したトルコ共和国初代大統領)に、ボスポラス海峡を通過するロシア艦隊の動静を監視する絶好の場所を教示されていたのです。士官学校時代に寅次郎の講義を受講していたアタチュルクは、若者に昼夜を分かたずにガラタ塔からの監視を睥睨(へいげい)して、寅次郎の諜報活動を支援します。
1384(永徳元・足利3代将軍・義満の時代)年に建てられた高さ68m、53mの所に展望テラスが設けられている石造のガラタ塔は、申し分のない監視塔になり、寅次郎が正太郎との約束を果たす支えになったのです。
今回のトルコ周遊ツアーに参加するまでは、全く知らなかった秋山真之、野田正太郎、山田寅次郎の細やかな人間関係を構築した日本人としての誇り、小型木造巡洋艦・エルトウールル号の殉難がもたらしたトルコと日本との間に秘められていた誠の信頼を生み出した信義感の強さ、それを共有する度量の偉大さなど、などがありました。帰国してからは、それこそ、温故知新の連続ですよ。
商船に偽装した軍艦で極東の戦場へ向うロシア海軍の兵士達は、ガラタ塔で諜報活動をしていた寅次郎の報告を受けた連合艦隊に全滅させられる運命が待ち受けているとは、夢想だにしなかった筈です。しかし、事前通告をして通過するとは言っても、偽装が見破られない保障はありませんから、緊張感はあったでしょう。
そのような心理状態に陥っても、ボスポラス海峡の両岸に残っている遺蹟を眺めて緊張感を解放していた兵士が一人位はいた、と勝手に推察しています。
礼拝の呼びかけを告げる塔・ミナーレの本数が違うモスク(イスラム教寺院)は、やはり目立ちます。イエニ・ジャミイ、アヤソフイア聖堂、スルタンアフメット・ジャミイ(ブルーモスク)などの寺院は、107年前も今も変わらないでしょう。ドルマバフチエ宮殿、ベイレルベイ宮殿、などが船上から観えます。特に、トプカプ宮殿の風景には、開放感を味わったでしょう。
歴史に造詣のある兵士は、オスマン帝国のメフメト2世が東ローマ帝国を滅亡させた「コンスタンテイノープル陥落事件」をルーメリ・ヒサールの遺跡を観て思い起こしたかも知れません。
東ローマ帝国は、戦時に金角湾を鉄鎖で封鎖して、首都コンスタンテイノープル(イスタンブール)を防御していたので、メフメト2世の艦隊は湾内に入れなかった。鎖の役割を果たす「パリ条約」も事前通告という電動カッターで切断したので、黒海から大西洋へ出るのだ、と。
ガラタ塔は、金角湾を封鎖するための塔として建設されたのですが、1204(元久元・源実朝の時代)年に破壊され、現存しているのは、1348(貞和4・足利尊氏の時代)年にジエノバ人がキリスト塔として再建したものです。
やっとこさ、話は諜報活動の舞台、ガラタ塔に戻りました。
ガラタ塔は、ボスポラス海峡を通過する船からでも際立って観えますから、監視されていると推理されても不思議ではありません。塔の展望テラスからは、海峡を通過する船は丸見えです。107年前のガラタ地区には、現在のような建物はなかった筈ですから、船上から逆監視をしていた可能性もあります。
軍艦に搭載した砲台を偽装してあったのですが、寅次郎は砲筒の先端に気がついて偽装を見破り、そのことを確認してからウイーンへ急行したのです。祖国防衛に必須条件である情報戦での勝利を念じながら・・・。
日露戦争と縁の深いガラタ塔へなんとしても登りたい一心で、ツアー最終日にホテルから空港へバスが発つ10時30分までの時間帯に単独行動に踏み切った訳です。
ボスポラス海峡を行き交う船は、寅次郎が監視した軍艦ではなく遊覧船や貨物船などでしたが、それらの船の動向を把握できる展望でした。朝焼けに染まって佇むトプカプ宮殿は、必見の価値があります。新・旧市街を結ぶガラタ橋とその背後にあるモスクを入れると面白い構図の写真が撮れます。
たった30分しか取れなかったガラタ塔視察は、バスがアタチュルク空港へ出発する5分前にホテルへ戻ったスリル満点の単独行動をもたらし、ツアー最大の記念になりました。
ところが、ところがです。
緊急事態の連絡方法まで打合わせてガラタ塔へ行っているから、バスは10時30分に予定通り出発する手筈になっていた、と帰りの機内で家内が呟いたのですよ。9箇所あるトルコの世界遺産、その4箇所を巡ったローマ帝国の遺跡に盛者必衰(じょうじゃ・ひっすい)を思い起こしたと書けば嘘になります。でも、諸行無常(しょぎょう・むじょう)の響きを、家内の呟きに感じたのです。ガラタ塔からの帰りが5分遅かった時に元気印が起こすべき事態を想像して、冷や汗をかく一幕がお土産になるガラタ塔見学だったのです。さらに、アタチュルク空港の機内に90分も待機させられる特別付録も付いたのですから。
「なんだ、かんだと愚痴が言えるのは、思い出に残る旅の証でしょう。元気印さん」
ボケ封じ観音さまが、最後を締めてくれました。
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