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日本の風景 世界の風景

日本と世界各地の景観を、見直します。タイトルをクリックすると、目次(1)(2)(3)になります。

南濃町山除川

2007-10-04 | 世界地理
養老山地南端、岐阜県海津市南濃町石津の扇状地



養老山地の山麓には多くの扇状地が並んでいる。
石津付近の扇状地の扇央では、ぶどう、カキ、ナシ、ミカンなどの果樹が広く栽培されている。
石津の扇状地の扇端にはわき水がないが、海抜20m以下の低地であり、ポンプで簡単に地下水を汲み上げることができ、扇端集落ができている。
扇央と扇端部分には水無川がない。ほとんど全部が伏流水となって地下を流れ、扇端の山除川に流れ込む。山除川は扇端のわき水を集めて流れ、揖斐川に流入する。


(●部分が撮影地点。立体地図はカシミールと数値地図から作成)




デンマーク  Kingudom of Denmark

2007-09-26 | 世界地理
面積4.3万km、人口543万人の国
面積・人口だけを考えれば、デンマークは小国である。500の島の集まりであり、首都コペンハーゲンはシュラン島にある。世界最大の島グリーンランドはデンマーク領だが、グリーンランドは自治権を得て、デンマークからは政治的に独立している。


高福祉高負担
デンマークの一人当たり国民所得が40750ドルである。日本は37050ドルである(2004年)。デンマークでは付加価値税は例外なしの25%、所得税は50%、自動車取得税は80%である。収入の80%近くは何らかの税負担で消えてしまう。
しかし、デンマークでは医療費がすべてタダ、大学までの学費がタダであり、税の使途は明確である。
日本では子どもの教育費用と退職後の生活費用に預貯金をしなくてはならない。租税負担は40%程度であっても、手元で自由に使うことのできるカネは、デンマークよりもはるかに少ない。
日本の少子高齢化社会では、各自がカネを貯えて生きていくのか、高率の福祉税で生きていくのか、そろそろ、日本国民が決める時であろう。


酪農王国
デンマークは1848年、1864年にプロシアと戦って負け、ユトランド半島の農業地帯を失った。氷河地形の荒れ地が残ったが、そこでは牧草の栽培は可能であり、酪農に活路を見いだした。失われた領土にはホルツシュタイン地方で開発された乳牛ホルツシュタイン(ホルスタイン)種を飼育した。
乳牛になるのは出産直後のメス牛だが、生まれた牛がオスならば肉牛として飼育された。
乳製品、肉牛の加工・輸出などは、国と民間の連携する農業理事会が推進した。


デンマークの風力発電割合は20%
デンマークの総発電量の80%が火力発電、20%が風力発電である。風力発電の総量、比率ともにドイツの方が高く、デンマークが第1位ではない。
デンマークでは風力発電の機器の売買、電力料金に25%の付加価値税がかかり、電気料金が高い。そのため国内の電力消費量が停滞し、日本・アメリカのように原子力発電に依存することはない。デンマークは、風力発電の比率増大をめざしている。
デンマークの風力発電は、協同農場に風力発電機器を並べる形であったが、次第に海上に風力機器を並べる形に変わってきている。海上の方が発電機器の数を増やすことと、強い風力を得ることができるからである。
デンマークでは、第1次石油危機(1973)以後、農業機械メーカーが風力発電の発電の安定と増加、大型化・量産化を進めた。最終的に、3社が市場競争で勝ち残り、風力発電の基本特許を独占して、世界の風力発電市場において、圧倒的な支配力を維持している。



グリーンランドはデンマーク領、面積は世界最大217万k㎡
デンマーク領グリーンランドの面積は約 220 万 k㎡ 。氷河は180万k㎡を占めるが、地球温暖化の影響で氷河は縮小傾向にある。これまでは航空機やスノーモービルが利用されていたが、陸地拡大とともに道路整備が進み、自動車が新たな交通手段として普及しつつある。
グリーンランドの人口は6万人。先住のイヌイットが5万人以上、デンマークなどからの移住民が1万人以下である。イヌイットは伝統的なグリーンランド語を使う。歴史的伝統的漁業としてクジラの捕獲が国際的に認められている。その他にアザラシ、セイウチなどの狩猟生活が行われている。
グリーンランド沿岸では北極エビやムール貝などの漁獲量が多く、冷凍加工後、日本に大量に輸出されている。
しかし、北極圏の温暖化が進んで、これまでのような付加価値の高い魚介類を漁獲、加工輸出することが難しくなることが予想されている。タラ・イワシ・サバなどのような値段の安い魚の漁獲が主体になる。漁業としての生計は成り立たないかもしれない。
1979年からはデンマークから政治的に自立し、自治権を得た。一院制の議会があり、首都名はゴッドホープからヌークNuukに変更された。
















東京タワー

2007-09-22 | 世界地理
東京タワーの正式名は「日本電波塔」
1957年、産経新聞グループの総帥前田久吉が日本電波塔株式会社を設立し、東京芝増上寺の墓地を移転整理し、その跡地に東京タワーを建設した。1958年には完成した。
TVについては、NHK総合・教育、フジTV、TBS、TV東京、TV朝日、放送大学TV、東京メトロポリタンTV、それに日本TVが、東京タワーから電波を送っている。


東京タワーの展望台から見下ろせば、増上寺。展望台売店のソフトクリームは安くて、おいしくて、涙が出て止まらない。


日本TVは正力松太郎支配下の読売新聞グループである。ライバル産経グループの東京タワーを利用せず、麹町本社隣接地のアンテナから放送した。アンテナが低くて受信エリアが狭いため、読売グループは、新宿に高さ500mの日本TVタワーを建設する構想を発表した(1968年)。しかし、立川の米軍基地を離発着する軍用機の障害になる恐れがあり、米軍が反対したため、新宿タワー計画は頓挫した。日本TVが東京タワーを利用したのは、正力松太郎の死後のことである(1970年)。

2011年の地上デジタル問題
2011年7月24日、全国のTV放送波は地上アナログから、地上デジタルに一斉変更になる。東京タワーの高さ333mでは、現在の受信エリアにデジタル波が届かない恐れがあり、新東京タワー構想が持ち上がっている。
これに対して、東京タワーを運営する日本電波塔株式会社は、東京タワーからのデジタル波で、現在のアナログ受信範囲をカバーできると主張し、引き続き東京タワーの利用を各TV局に呼びかけている。次の①~③が東京タワー側の案である。

①東京タワーの、デジタル送信アンテナの取付け位置を、現在よりも100m上げる。この経費は東京タワーが負担する。
②各放送局専用の送信管理ビルを、新たに建設する。この費用も東京タワーが負担する。
③東京タワーの利用料金は、現行のアナログ以下とする。

もし、新東京タワーが建設され、東京タワーが利用されなくなった場合、東京タワーは無用の長物となる。観光収入も送信料収入もなくなってしまう。それで、新東京タワーに対抗する提案をしたのである。


新東京タワー建設計画
浅草など東京下町に電車・百貨店などを経営する東武グループには、東武鉄道貨物専用駅(東京都墨田区押上)をつぶし、新東京タワーを建設する具体的計画がある。高さ600mとし、ここからのTVデジタル波は、現在の東京タワーのアナログ波到達域を全部含む。
各テレビ局が、現在の東京タワーを使うのか、それとも新東京タワーに乗り換えるのか、その判断次第で新東京タワーの建設が実現するのか、あるいは幻に終わるのかが決まる。
2011年のアナログ・デジタル転換までに新東京タワーを完成させるためには、2009年中に着工しなくてはならない。2009年が新旧東京タワーのタイムリミットである。


浅草から墨田川の向こうに見える新東京タワー(完成予想図)





チェコ  Czech Republic

2007-09-20 | 世界地理
ボヘミアン



チェコの西半分がボヘミア地方であり、インド北部からの流浪の民ジプシーが生活する。ジプシーは定住地から追われているにもかかわらず、あたかも国境・言語・法・慣習にとらわれず、自由奔放に生きているように見られた。このような生活はある種の人々には理想の暮らしと考えられ、ボヘミアンといわれた。
窮屈な近代化の進むヨーロッパ社会において、チェコのボヘミアンのような自由奔放な生活を求める者も、ボヘミアンといわれた。ヨーロッパの大都市に生きるボヘミアンは、親の資産のある限りは奔放な生活を送ることができた。ボヘミアンによる新しい芸術はボヘミアニズムといわれたが、芸術的価値も歴史的価値もない。

チェコのボヘミア地方では、スラブ人がいわゆるボヘミアンの生活を模倣することなく、ガラス製品の芸術的価値を高めることに心血を注いだ。18世紀にはいわゆるボヘミアングラスがつくられた。
ボヘミアングラスは、ボヘミアンの自由奔放な生活から生まれた芸術品ではない。スラブ人の厳しい徒弟制度の中から生まれた商品である。高い芸術性が大きな特徴であり、世界の王侯貴族の愛好品になった。制作者の個人名は残らず、ボヘミアングラスという地域名として残った。




ピレゼンビール(ピレスナービール)
19世紀までのビールは灰色に濁っていた。チェコの工業都市ピルゼンにおいて、黄金色のビールがつくられ、ピレゼンビールといわれた。ピレゼンの地名は、ピレスナーとも発音される。ピレゼンビールは、ピレスナービールともいわれる。
黄金色のピレゼンビールつまりピレスナービールはヨーロッパで爆発的に売れた。

現在、全世界のビールは、基本的には、ピレゼンで開発された製造方法で生産される。チェコとその周辺諸国の人々は、ピレゼンのビールだけを理想的なビールと思っているのではない。それぞれの地域の「地ビール」に限りない愛着を抱いている。製造の基本はピレゼンビールであるが、地ビールには大麦とホップの調合により、味と香りに大きな差がある。



「プラハの春」を踏みにじった者たち
1968年チェコのプラハではドプチェク第1書記の指導で、ソ連からの自立と共産党の支配を再考する動きが強まった。言論・政治の自由であり、ソ連にとっては他の同盟諸国への影響を考えれば、最も恐ろしい事態であった。

1968年8月3日、チェコスロバキアのブラチスラバ(スロバキア)において、ソ連がポーランド・東ドイツ・ハンガリー・ブルガリアと、プラハ(チェコ)の自由化運動への軍事的対応策を話し合った。具体的にはワルシャワ機構軍によるプラハの占領と、ドプチェクらの自由化指導者の拘束である。

その会議中に、チェコスロバキア共産党のアロイス・インドラ、ドラホミール・コルデル、ビリャーク、アントニーン・カペクらから、チェコ共産党全体の意見として、ワルシャワ条約機構軍の軍事支援、つまりチェコへの派兵を求める文書が届いた。

要するに、プラハの反ドブチェク勢力が、ソ連のブレジネフと結託、ワルシャワ条約機構軍による自由化の圧殺を求めたのである。国内での政治的地位を上げるための、個人的動機もあった。
チェコ共産党の求めを名目に、1968年8月20日、ワルシャワ機構軍がチェコ全土を占領、ドプチェクの身柄を拘束した。チェコは再びソ連に隷属することになり、プラハの春は半年で終わった。

ソ連の戦争は、弱体化した地元共産党に請われて軍隊を派遣する形をとる。ハンガリー、アフガニスタン、カフカス諸国などへの、ソ連軍あるいはワルシャワ機構軍の派兵は、形式的には頼まれた派兵であり、ソ連の軍事戦略の都合による一方的派兵ではない。ということになる。

東京駅の金の鈴

2007-09-17 | 世界地理
金の鈴ではなくて、銀の鈴はどこですか、ご老人に訪ねられたが
1968年、東京駅八重洲口の待ち合わせ場所として、第1代の「銀の鈴」がつくられた。くす玉のように竹で鈴の形をつくり、銀紙をはりつけた「銀の鈴」であった。



現在の「銀の鈴」はブロンズ製で、1985年につくられた。東京駅の絶え間ない改修工事で構内をあちこち移転し、どこにあるのか分からない状況が続いたし、鈴は傷だらけになった。それでも「銀の鈴」は東京駅の重要な待ち合わせ場所である。
しかし、誰が見ても「銀の鈴」は銀色ではなく、金色である。
田舎から大きな荷物を抱えて上京、娘と会う約束の場所「銀の鈴」を捜し当てたものの、よく見ると金メッキの「金の鈴」である。もしかしたら、「銀の鈴」は別にあるのでは・・・、と他人に訊きたくなるのは当然だろう。


スロベニア共和国   Pepublic of Slovenia

2007-09-01 | 世界地理
2004年にNATOとEUに加盟
旧東欧では親ソ派と反ソ派とが反目し、内戦が絶えないものであった。しかし、チトーの独裁下のユーゴスラビア(1929~91)では内戦が少なかった。また、1980年にチトーが没した後、ユーゴスラビアでは内戦に突入したが、スロベニアだけは内戦を避けることができた。スロベニアはイタリア資本との協調により、工業国として安定的に発展した。一人当たりGNPが1万ドルである。
2004年にEUに加盟した。西ヨーロッパ全体を輸出市場とする可能性を見込んだが、他の旧東欧諸国よりは賃金が高く、西側先進国の企業誘致は困難であった。むしろ、ポーランド・ハンガリー・スロベニアなどの低賃金のEU加盟国に企業が進出した。スロベニアの旧東欧における優位は崩れた。




カルスト地方は石灰岩の溶食地形
石灰岩は地下水と雨に溶ける。地表面のくぼ地には、大きさによりドリーネ、ウバーレ、カレンフェルトに区分される。地下には、地下水が鍾乳洞をつくる。
Postojnaから南には鍾乳洞の出入り口が地表に多数現れて、「シュコツィアン鍾乳洞群」として、世界自然遺産に指定されている。
巨大なポストイナ鍾乳洞(Postojna cane)があり、スロベニアの代表的観光地になっている。その近くの小さな鍾乳洞には、入口をふさいだ「プレッド洞窟城」がある。地下水が城内を通って流れ出ている。



スロバキア共和国   Slovak Republic

2007-08-31 | 世界地理
1993年にチェコ・スロバキアから分離独立
ドナウ川がスロバキアの首都ブラチスラバを通り、そこから下流ではスロバキア・ハンガリーの国境を流れ、ハンガリーの首都ブダペストへ流れる。
スロバキアは、ドナウ川でつながるハンガリーに支配されてきた。1918年にオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊、チェコスロバキア共和国がつくられた。
第2次大戦後はソ連の強い軍事的圧力を受け、1960年にチェコスロバキア社会主義共和国になった。反ソ連の気運が強く、1968年にはチェコで自由化要求運動が起こった(プラハの春)が、ワルシャワ条約機構軍の軍事圧力のため、元の社会主義に戻った。ソ連崩壊から3年後、1993年にチェコとスロバキアは分離独立することができた。

スロバキアはスラブ(東ヨーロッパの白人)を語源とする。そのスラブは西ヨーロッパではslave(奴隷)に由来する。古代ローマにおいて、スラブ人が捕らえられて奴隷として使われたことがある。
しかし、東ヨーロッパのスラブ語では、スラブとは「栄光」の意味であり、奴隷の意味ではない。




2004年にNATOとEUに加盟
スロバキアは独立後、NATOに加盟した。軍事的に親ロシア(旧ソ連)路線を捨て、アメリカの同盟国になったことであり、ロシアの国際軍事戦略は大きな変更をせまられた。
スロバキアがEUに加盟すると、先進資本主義国の企業が進出しやすいように、優遇税制を適用した。さらに工場の立地条件を整えた工業団地を用意した。スロバキアは政治が安定し、労働賃金も安い。国際河川ドナウ川がハンガリーとの国境を流れ、ウィーン、ブダペストなどに船舶輸送ができる。また、ドイツでマイン・ドナウ運河を利用すれば、ライン川を利用して大西洋への船舶輸送も可能である。
日本からスロバキアには松下電器、ソニー、矢崎総業などが進出した。ドイツ、オランダなどの企業もスロバキアに進出した。


ブラチスラバのドナウ川








スペイン Spain

2007-08-30 | 世界地理
スペインのオリーブ生産は世界第一位
スペイン全域でオリーブが栽培されている。栽培面積は242万ha、栽培本数は3億万本である。スペインのオリーブ生産量は世界の30%以上を占める。オリーブ栽培の中心は南部のアンダルシア州であり、スペイン国内の80%を生産する。
輸出先はイタリアである。イタリアは自国産オリーブ油として、世界中に輸出する。
スペインのオリーブは近年はピクアル種の栽培が増加している。含油率は20%以上である。

スペインは強盗・泥棒の発生率は世界第一位
日本の外務省が、スペイン旅行者に注意をよびかけている手口。
(1)物乞い盗
数人の子供が物乞いのふりをしながら日本人に近づいて注意をそらし、テーブルの上の携帯電話や椅子の背もたれにかけたカバンなどを盗む。物乞いを相手にしないこと、所持品から手を離さないこと。
(2)車の窓ふき盗
信号で止まった車の窓を拭いてチップを要求し、運転者の気をそらしているスキに、ドアを開けて車内に置いてある物を盗む。あるいは運転者が窓を開けた瞬間に車内の物を盗む。「窓拭きの必要はない」ことを告げ、相手にしないようにすること。また、窓やドアを開けないこと。
(3)パンク盗
高速道路などで、タイヤがパンクしていることを指摘し、車両を停止させる。タイヤの確認をしている隙に、車内の物や、車両自体を盗む。「タイヤがパンクしている」と指摘されても、その場で停止して確認や修理をしないこと。確認や修理のために車外に出る時には、必ずドアをロックすること。

ジブラルタルはイギリス領、セウタはスペイン領
ジブラルタル海峡は、ヨーロッパとアフリカを隔てる海峡である。大西洋と地中海の境に位置している。水深286m、海峡の幅14km~44km、長さ60km。
ジブラルタルはかつてスペイン領であったが、1704年にイギリスが占領、1713年のユトレヒト条約によりイギリス領として認められた。第二次世界大戦中はイギリス海軍の重要な拠点であり、ジブラルタル海峡の封鎖を行った。
現在、スペインはジブラルタルを自国領と主張しているが、イギリス政府にとっては、地中海と大西洋を結ぶ軍事的要衝であり、スペインに返還する考えはない。





セウタは、アフリカ大陸側モロッコの領土であった。ポルトガルのエンリケ王子が1415年にセウタを占領、ポルトガル王国領となった。セウタからイスラム教徒を追放、キリスト教を伝えた。
1580年にスペインのフェリペ2世がポルトガル王位を継承して以来、セウタはスペイン領となった。1668年のリスボン条約で、セウタは正式にスペイン領土として認められた。

スペイン語は一つではない
独裁国家は各地方の固有言語をつぶし、国家言語を一つにする傾向がある。たとえば、現在の日本語・フランス語・インドネシア、そしてフランコ独裁時代(1939~75年)のスペインである。
現在のスペインでは、首都マドリッドを中心とするカスティーリア語が国家言語ではあるが、各地方では、地方言語が公用語として使用されている。
カスティーリア語
スペインの首都マドリッドを中心とする地域はカスティーリア地方といわれる。乾燥の強い高原メセタが大部分を占め、ブドウの生産と羊の遊牧が今でも盛んである。15世紀にはアフリカからのイスラム教徒侵略を撃退し、イベリア半島にカトリックを植え付けた自負がある。カスティーリア語そのものをスペイン語と確信している。
カタルーニャ語
地中海岸のバルセロナを中心とする地域では、フランス語に近いカタルーニャ語が公用語として使われている。バルセロナは19世紀には鉄鋼・造船・繊維産業などの近代化が進んで、スペイン最大の工業都市になった。しかし、フランコ独裁時代(1539~75)にはカタルーニャ語の使用が禁じられて、カスティーリャ語の使用が強制された。
1992年のバルセロナオリンピックにより、カタルーニャ語の重要な地位を国際的に認知させた。またカタルーニャ州は州憲法を制定、幅広い自治権を得た。
ガリシア語
スペイン北西部、カンタブリカ山脈が大西洋に沈み込み、リアス式海岸になっている地域である。スペインの他の地域よりは、船によるポルトガルとの交流が盛んであり、ポルトガル語の混じったスペイン語が使われる。これがガルシア語である。
アンダルシア語(カスティーリア語の方言)
スペイン南部。コルドバやセビリアにはイスラム教と北アフリカの影響が強い。アンダルシア語にはアラビア語が混じっているが、カスティーリア語の方言とみなされる。アンダルシア地方からは、中南米の植民地経営に行った者が多く、中南米のスペイン語は、アンダルシア語が主流である
バスク語(バスク人固有の言語)
ピレネー山脈西麓に50万人のバスク人が住む。バスク語を話すが、スペイン語との共通性はない。バスク語は世界のどの言語とも共通性のない、系統不明の言語である。
バスク語はフランコの独裁時代には使用禁止になり、スペイン語を日常生活で使う者が増加した。フランコの独裁政治の終わったあと、自治権を得たが、バスク語を使う者は30万人以下に減少した。スペインでは役に立たないバスク語の復活は難しく、バスク民族は滅亡の危機にある。
1959年に「バスク祖国と自由(ETA)」が結成され、バスク民族を守ることを目的に、スペイン政府に対してテロ活動を展開している。

スウェーデン Kingdom of Sweden

2007-08-26 | 世界地理
高福祉高負担の典型
スウェーデンの人口900万人のうち、公務員が300万人である。公務員のうち、福祉分野への女性の進出が著しい。社会福祉関連の公務員を雇用するため、スウェーデン国民の租税負担率は55%、社会保障負担率が20%である。家計収入の75%が、税金と福祉関連費用でなくなってしまう。スウェーデンの消費税は25%である。
スウェーデンの女性の職場進出率は80%である。女性が働くための職場として社会福祉分野が多い。つまり、スウェーデンの高福祉・高負担は、女性公務員への賃金を、支払うためというのが現実である。
高福祉高負担の政策が限界に達し、財政の赤字が問題になっている。財政再建を優先するために福祉水準の切り下げる立場と、高い福祉水準を維持するために25%の消費税を引き上げて税収を増やする立場とがある。政策的には一貫してはいない。



大企業も中小企業の税金の安い国に移転
スウェーデンの国際的大企業エリクソン(電話システム)、ボルボ(自動車)、SAAB(自動車)、イケア(家具)などは、法人税の低い国に別会社を設立して工場を移転して、法人税を節約した。さらに、残る国内工場を海外企業に乗っ取られたことにして、スウェーデン国内の税金支払いを軽減させた。
スウェーデンの中小企業は、経済成長の著しい中国・インドには中小企業も進出した。特に繊維・衣料においては、現地の低賃金労働力を利用して、アメリカ・日本市場に進出した。
スウェーデン企業は海外において大企業に成長している。一方、国内の産業空洞化、政府の財政難が大問題になっている。



福祉国家だが、原子力発電は49%を占める
2000年5月、与党の社会民主党が、2020年までに国内11基の原子力発電所を段階的に閉鎖することを、第1の政策目標とした。
そのための具体的政策として、リトアニアの原子力発電所の余剰電力を輸入する、石炭火力発電所をスウェーデン国内に増設する案が検討されている。
しかし、リトアニアの原発はチェルノブイリ原発と同じ設計であり、スウェーデンの原発よりは危険性が大きい。また、石炭火力発電は低コストだが、温室効果ガスと酸性雨の原因になってしまう。
風力発電は、デンマーク・ドイツの発電状況実績から、原子力発電に代わるほどの発電量を期待できないことが、明らかになったのである。
一方、現在稼働中の11原子力発電所を改修すれば、原子力発電所の寿命が30年から50年以上にのばすことができる。2020年までに原発を閉鎖する決定は、見直しが迫られている。


パーセベック原子力発電所の運転休止


スウェーデンのバーセベック原子力発電所は、コペンハーゲン(デンマーク)までの距離が25kmである。1975年に2基の原子力発電炉の運転を開始した。特に事故・故障はなかったが、建設位置についてデンマークから強く批判され、2001 年に1号機が運転が休止された。その代わりに、リトアニアのチェルノブイリ型原発でつくられた電力を輸入することになった。バーセベック2号機は運転中である。
スウェーデンが国内の原発1基を閉鎖し、リトアニアの原発から電力を輸入するエネルギー政策の矛盾が、国内外から指摘されている。
バーサベック発電所の1号機を再開するのか、2号機を閉鎖するのか、他地域に原発を増設するのかしないのかなど、スウェーデンの原子力政策が大きく揺らいでいる。

スイス連邦  Swiss Confederation

2007-08-21 | 世界地理
スイスは中立国だが、徴兵制国家
スイスでは、18才になると徴兵のための身体検査を受ける義務があ。女性には兵役義務がない。男女間に差があるので、厳密な意味の国民皆兵制ではなく、徴兵制である。
18歳の誕生日をむかえた男性は、全員即座に兵役につくのではない。15週の軍事教練のあと、36才まで随時2週間の補充教練を受ける。36歳までに通算260日間の兵役を果たす義務が課されるのである。心身に障害のある者の兵役免除や良心的兵役拒否は認められている。
アインシュタインがスイス在留時(1894~1932)に徴兵検査を受けたが、「扁平足」であることを理由に兵役を免除された。本当の理由は、すでに天才的物理学者であることが世界的に知られていたことと、ユダヤ人だからであった。
ついでながら、わが夏目漱石も徴兵忌避のため、明治25年25歳の時に東京から北海道岩内に本籍を移した。当時の北海道は屯田兵制度が施行され、徴兵制度は適用外であった。

2005年のスイスの人口は725万人、常備軍人数は5000人である。厳格な徴兵制がありながら、兵役につく者は少ない。
18歳で軍事教練を受けたあと、戦闘用具一式を各自の家庭に持ち帰り、非常時に戦闘用具一式を持参し、指定場所に24時間以内に集合することが義務づけられている。
スイスの徴兵制の実質は、スイス人の民兵化訓練であり、同時に国防意識の高揚である。36歳になると兵役期間は終了、戦闘用具を国に返還する。

現代の戦争において、徴兵制で集めた素人に短期間の軍事教練を課しても、近代兵器を使うことはできない。職業軍人の後方を旧式カービン銃を背負ってついて行くだけである。したがって敵軍の人質になったり、同胞を背後から誤射したり、自分の銃で自殺したり、ろくなことがない。米軍のベトナム戦争・イラク戦争の泥沼長期戦が好例である。スイスでは、軍人の中から徴兵制を廃止する声が出ている。


鳥インフルエンザ流行予測で、ボロ儲け
日本は、独占販売権のある中外製薬
2006年末、日本の厚生省は鳥インフルエンザウィルスの亜種が人間に感染し、新型インフルエンザとなって爆発的に流行する。日本で500万人が罹患、16万人が死亡すると予測した。
インフルエンザ感染から48時間以内であれば、タミフルで治療できる。日本の厚生労働省は、1200万人分のタミフル備蓄計画を立てた。日本の独占発売元中外製薬は、2007年3月決算では128億円の利益を見込んでいたが、タミフル特需で238億円に上方修正した。

アメリカの、ラムズフェルド国務長官
アメリカのイラク戦争をブッシュに進言したのは、ラムズフェルド国務長官(当時)である。1997年にブッシュ政権の国防長官に就任するまで、タミフルを開発したギリアド社会長をつとめていた。国防長官就任とともにギリアド社会長は辞任したが、ギリアド社の大株主のままである。
ラムズフェルドは国防長官という地位を利用し、日本をはじめアジア諸国の政治家、マスコミ、医療関係者に鳥インフルエンザの脅威を吹き込み、タミフルを大量に販売することに成功した。3年間で世界中に4800万パックのタミフルを販売、そのうち2800万パックを日本に販売した。ラムズフェルド所有のギリアド社の株は1000万ドルから5倍に値上がりした。毎年100万ドル以上の株主配当を得ている。



スイスのロシェ社がタミフルを独占的に製造販売
タミフルの研究開発をし、特許を得たのはアメリカのギリアド社だが、タミフルを独占的に製造販売しているのはスイスの大手製薬会社ロシェである。ロシェはギリアド社に10%の特許料を払い、世界中にタミフルを輸出している。ロシェ社はタミフルだけで年間10億ドルの輸出をしている。
最大の輸出先は、ラムズフェルドのアメリカである。イラク戦争従軍中の兵士に鳥インフルエンザが流行しないように、大量のタミフルを戦地と米国内に備蓄している。
次の輸出先は、ラムズフェルドの警告に従った日本である。小泉政権は日本国内に1200万人分を備蓄するだけではなく、鳥インフルエンザの発生するベトナム・中国に大量のタミフルを、無料配給したのである。

ロシェの本社はライン川沿いのバーゼルにある


スイス人の風邪対処方法
スイスでは風邪やインフルエンザでは病院の診察を受けない。薬も服用しない。数日安静にしていると、インフルエンザも風邪も自然に治る。罹患数日後であるから、たとえ新型インフルエンザであったとしても、タミフルは効果がない。
風邪もインフルエンザも基本的に医者と薬で治療するものとは考えていない。栄養のある食事をとり、ゆっくり休めば、自然によくなる、と考えているのである。
その背景として、スイスには日本のような国民健康保険制度がないため、病院で診察治療を受けると、非常に高額になる、ということがある。スイスは医師数も看護師数も世界トップクラスで、手厚い治療を受けることができる。しかし、医療費は高いし、一度は全額本人払いである。
スイスでは高額の治療費に備え、民間保険会社の疾病保険に加入する者が多い。なお、1000人当たり医師数はスイスは3.8人で世界トップクラス、日本は2.0人で発展途上国クラスである。

スイス銀行
「1934年スイス銀行法」ではスイスの大小の銀行は顧客情報の秘密保持を最優先し、ユダヤ人資産を、ヒトラーのナチスから守り抜いた。戦後は国際麻薬取引資金の秘密保持、フィリピンのマルコス大統領の横領資金、ペルーのフジモリ大統領の政界工作資金など、巨額の裏金を扱った。
先進国が発展途上国に贈った援助資金が、発展途上国の政府高官によってスイス銀行に秘匿される例も多い。国際テロリストの軍資金も貯えられた。
1990年、スイス政府は、脱税と不正の温床とされるスイス銀行への規制を強めた。スイス銀行は、匿名口座や代理人口座であっても、その資金は最終的に誰のものか、全部掌握することになった。また、政府高官の預金も扱わないことになった。
スイス銀行に資金を隠匿するためには、マネーロンダリングをして、一応は正常な形の資金にしなくてはならない。
不正資金を隠匿する国としてはスイスは不適当であり、カリブ海諸国が使われるようになった。