Anteeksi.

すみません、ちょっといいですか。フィンランド留学の見聞録。

ヘイナクー

2009-07-31 | 日常/思索
7月ももう終わり。

フィンランドの7月と言えば、国民の休日ならぬ、国民の休月とでもいうようなものだと思った。

大学の機能はほとんどストップしている。平日でも4時に建物が閉められる。
研究室にも、ほとんど、あるいは全く人が来ない日もざら。7月に研究するなんて、君、大丈夫!?なんて言う人もいた。どういう意味なんだろう。
教授も、週に一回くらい、Tシャツにハーフパンツ、サンダルという海水浴にでも行くような格好でちょこっとだけオフィスにやってくる程度。秘書さんはほぼ全休。

オケの練習が9月までないのは、ちょっとつまらないな、と思う今日この頃。

フィンランドのテレビ番組は、7月は見る人も少なくなり、クオリティが下がるらしい。
でも、普段は日曜休業の店が多いのに、夏季のみ日曜もオープン、というところも結構ある。

普段は、周囲に構わずに自分のペースで研究をし、休みを取る自分としても、さすがに特に今月の後半はかなり遊んだ。

夏至からひと月経つと、さすがに日没が早まってきた。日本の夏の日没よりも圧倒的に遅いけれど、それでも、これによってちょっとわけが分かってきた気がする。この国の7月は、今を楽しまないで、いつ楽しむ!?ってことなんじゃないだろうか。きっと。実際、そう言う人は多い。けど、徐々に日の短くなってきた今頃になって、ようやく自分自身の実感に至った。

 

EU市民たるもの

2009-07-30 | 社会/文化
ちょっと前のものだろうけど、面白いポスターを見つけた。

EU市民たるもの…フィンランド人ほどにはお喋りすべし。

日本でも通説となりつつある「フィンランド人はシャイ」は、もはや自分の中では成り立たっていない。フィンランド人がtalkativeでないというより、よその国の人がtoo talkativeという印象すらあるけれど、そう思う自分は、やっぱりフィンランドが性に合っているのかな。


帰宅

2009-07-29 | 独墺の旅
午前中の便でヘルシンキへ帰還。

飛行機では隣にフィンランド人の母子が座り、「どれにするの?お水?オレンジジュース?」と喋っているのが聞き取れて、そんな程度でも嬉しかった。何しろ、ドイツ語はさっぱり分からない。チェコやポーランドでは、英語があまり通じずに苦労したけど、後から聞いたことには、それらの国では、むしろ英語よりもドイツ語の方が通用度が高いらしい。フィンランドでも、ドイツ語を多少でもやっているという人の割合は、日本に比べるとかなり高い印象。英語帝国主義に毒されているのは、自分の方か。

今回の旅は、ドイツを知るにはあまりに短過ぎた。別の機会を設けて、じっくり訪れたい。
好きな作曲家と言えば、お約束の、バッハ、ベートーヴェン、ブラームス。そういや自分のチェロはドイツ製だった。


ノイシュバンシュタイン

2009-07-28 | 独墺の旅
ノイシュバンシュタイン城などなどを巡るミュンヘン発バスツアーに参加。

ガイドは、白雪姫のような伝統衣装(?)をまとった、ドイツ人のおばさん。全部のことを、英語とドイツ語の両方で喋っていた。時折ぼそっと織り交ぜるブラックユーモアのようなものが、一部の客に大ウケ。「右手に見えますのが、メルセデス・ベンツ社でございます。…まだ倒産していないようです。」みたいな。先月のイギリスでのツアーと同様、またもや一番前の座席に置かせてもらい、おかげでフロントガラスから景色を堪能できた。ここでも日本人の一人客ということで、色々と気を使わせてしまったのだろうけど。

ヒトラーの政策にも後世に役立ったものもある、という文脈で語られることもある、アウトバーン。子供の頃は、どの車も時速180kmくらいでびゅんびゅん飛ばしている様子をイメージしていたけど、そんなことはなかった。かなり飛ばそうとしても、結局平均時速は100kmそこそこになる、とドイツ人の知人が言っていた。



昨晩から今朝にかけて雨が降り続いていたのだけど、最初の目的地に着く頃にはすっかり晴れていた。どうも自分は、旅行において天気に困らされたということが、あまりない。

二時間ほどのドライブで、リンダーホーフ城に到着。
まずバスを降りて、ひんやり心地よい空気を味わう。森の向こうに見える霧がかったアルプスの山々。これぞドイツの森、という感じ。

  

リンダーホーフ城は、城と呼ぶにはこじんまりした宮殿のようなものだったが、内部の豪華な装飾にはただただ感心させられるばかり。
この城を建てたのは、当代のバイエルン王ルードヴィヒ2世なる人物。ノイシュバンシュタイン城も同様なので、今日のツアーの最重要キーワードの一つでもあった。彼は、ちょっとばかり変人だったようだ。夢見がちな大人が、権力と金に物言わせれば、こういうものができあがる。この二つの城も、彼が建てた(建てようとした)他の城も、要はこの一人の若き王の夢を満足させるためのものだった。おかげで今日、観光地として大層盛り上がっているわけだけど、例えば、彼自身は、自分の死後にノイシュバンシュタイン城を破壊するよう周囲に指示していたらしい。

  

続いて、近くのオーバーアマガウという小さな町、というか村に途中下車。聞いたことのある地名だと思った。スキーのリゾート地として有名らしい。建物の壁に様々な絵が描かれているのが面白かった。

 

お昼過ぎ、本日のメイン、ノイシュバンシュタイン城(のふもと)に到着。
ノイシュバンシュタイン城の内部は、必ずツアーでの見学になっていて、ふもとでチケットを購入し、各自指定された時間までに山を登ってお城の入口まで行かなければならないというシステム。

城に上る前に腹ごしらえ。
ここで、ミュンヘン名物、白ソーセージを食す機会があった。一緒にプレッツェルとビール。このセットは、ミュンヘンの典型的な朝食なのだそう。朝からビールって、一体どうなっているんだ。
白ソーセージは、焼くのではなく、お湯の中で茹でたもの。食べ方も変わっていて、まずナイフを入れて大きく裂け目を入れ、フォークをうまく使って皮をぺろんとはがす(皮は食べない)。食感も、普通のウィンナーと違って、ムースに近いような柔らかさ。甘いマスタードをつけて食べる。同じツアーに参加していた、在独オーストラリア人が教えてくれた。
12時を過ぎたら白ソーセージを食べてはいけない、という言い伝えがあるらしいが、これは保存方法が発達していなかった頃の名残らしい。でも、今でも慣習として残っているみたい。ドイツには、「白ソーセージ赤道」(ドイツ語でも教えてもらったけど、忘れた)という言葉があるそうだ。白ソーセージは、ドイツ南部、特にバイエルン地方の文化であり、「赤道」をまたげば、全く違った食材、調理方法になるそう。一口にドイツのソーセージと言っても、色々あるらしい。



城に登るには、徒歩だと30分ほどかかるけど、バス、馬車もある。ツアーの時間も迫っていたので、行きはバスで、帰りは徒歩で下りてくることにした。
マリエン橋から見るノイシュバンシュタイン城。あらら、工事中…



続いて内部見学。ワーグナーの世界観に憧れた王は、オペラのコンセプトをそのままに体現するよう体裁を整えた。色々な感想がありそうだけど、ここまで狂えるのもすごいなと思った。そして同時に、その美しさ、芸術的技巧の高度さに純粋に感動を覚える(と言っても、この城自体は「未完成」である)。
ノイシュバンシュタイン城の完成を心待ちにしていたルードヴィヒ2世が実際にこの城に住むことは、わずか100日あまりだったそう。直後に若くして謎の死を遂げる。それに先立って、精神病認定されていたらしい。もはや王としての統治能力を認められていなかったのだ。有名なオーストリア皇后のエリーザベトは、この死の知らせに、「彼は決して精神病ではなく、ただ夢を見ていただけなのです」と述べたと言う。ふむふむ。
シンデレラ城のモデルになったとかいう程度のことしか知らなかったけれど、色々と興味深い物語がありそうだ。

  

そんなこんなでツアー終了。なかなか楽しかった。

6時過ぎにミュンヘンに着いたので、火曜のみ遅くまで開館しているアルテ・ピナコテークへ。
時間がなく駆け足だったけど、ポイントを絞って鑑賞。美術的な価値とかいう話題は全く分からないが、中でも、このラファエロの二点の作品は、隣にあったダヴィンチなどの作品がかすむくらいに大変に素晴らしいと思った。

 

夕食に、ミュンヘンで大変繁盛しているという日本料理店に行ってみた。居酒屋風のメニューで、オープンテラスでドイツ人たちがビール片手にお寿司等つまんでいる様子はちょっと愉快だった。
店員はみな日本人。「とりあえず生!」が通じる喜び。醤油ラーメンに焼き餃子、サラダがついて16ユーロ。はっきり言って、特に工夫のないごくスタンダードな醤油ラーメンなんだけど、何しろ、久しぶりのラーメン。感動した。デザートに抹茶アイスと大福もち。ここは、ドイツの中の日本、いや、ヨーロッパの中の日本だった。

 

ミュンヘン

2009-07-27 | 独墺の旅
お昼のミュンヘン行き列車までやや時間があったので、観光続き。と言っても、だいたいめぼしいところは昨日までに回ってしまった。
日本美術の特別展をやっていた美術館にふらり立ち寄ってみた。この美術館の入口付近はモーツァルト広場と呼ばれ、立派な彼の銅像もある。モーツァルトと日本語。なんだか似合わないな。それにしても、この企画の日本語版ロゴ、これ自分が書いた方が上手いんじゃないかという字だった。

広重の浮世絵、歌舞伎の衣装などが展示されていた。配置や照明のセンスがとても良かった。
ここで初めて知ったことに、ザルツブルクは、我がホームタウン川崎市と、友好都市なる関係にあるらしい。音楽のまちつながり?

出口のところで、ご婦人が二人、「とても良かったわねぇ」と英語でお喋りされていたのを耳にした自分は、今思えば何を勘違いしたのか、「お気に召していただけたようで光栄です」などとつい話しかけてしまった。イギリス人だった。

 

この頃すっかり旅慣れた感が出てきたけれど、それぞれの街を去るときに、ここはもう来ることもないかな、というところと、ここにはまた来る気がする、というところに分かれる。ザルツブルクは、後者と言える。もっとも、昨日、一昨日と二つの音楽会の満足の影響するところが大きいのだけど。



そしてお昼過ぎ、再びミュンヘンに戻ってきた。

戻ってきた、とは言っても、駅の外に出るのは初めて。ここは紛れもない大都会であるが、ものの数分も歩かないうちに、途方もないカオス感を覚えた。
ミュンヘンは、人口の多さではベルリン、ハンブルクに次ぐドイツ第三の都市だが、その市民130万人のうち、4分の1が外国人だそうだ。混沌を感じた理由はこれだろう。飲食店のバリエーションの多さ、というか煩雑さ。すれ違う人々、聞こえて来る言語の多国籍性。自分は一体いまどこを歩いているんだろうという気になる。

もっとも、この中央駅近辺の繁華街から離れると、このカオスはだいぶ薄らぐ、とすぐ後に分かった。

残念なことに美術館の類いが軒並み休館日だったので、自転車を借りてぐるっと公園巡りに出かけることにした。
ヨーロッパの都市では、自転車用の通路が設けられているところをよく見るけど、ミュンヘンは特に快適にサイクリングができた。

 

ミュンヘンの市内公園の美しさと、そこに佇む人々の様子は和辻「風土」にも記述があった。その頃(昭和一桁くらい)と今とでは、何が同じで、何が違うのか。そこにある伝統とかそういうものについて、想像を掻き立てられる。平日にも関わらず、大勢がくつろいだり、スポーツに興じていたり、とにかく平和な光景。

  

  

オリンピック公園。かつて世界中の視線を集めたであろうメインスタジアムに、自分一人、という不思議。2016年東京オリンピック、悪くないかも。
以前に見た、スピルバーグの映画「ミュンヘン」を思い出した。少なくとも今では平和が凝縮されたようにすら思えるこの場所で、あのような惨劇があったわけだ。

 

街の中心。有名なマリエン広場。

 

ザルツブルク2

2009-07-26 | 独墺の旅
ザルツブルク観光二日目。宿で安く貸し出していたので、一日自転車を借りた。

ザルツブルクと言えば「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台、だったらしい。Youtubeで名場面を復習。子供の頃に見たものというのは結構覚えているものだと思った。あぁこんなシーンあったね。

参考資料(ドレミの歌)

 

上記参考資料の終盤にも登場する、ミラベル庭園。青空に映えて、とても鮮やか。日本人多い。休憩がてら、木陰のベンチにてお昼寝。

  

昼食後、丘の上に聳えるホーエンザルツブルク城へ。徒歩でも登れるけれど、疲れそうなので、ケーブルカーにて。
この城は、建てられてから千年近くにもなるらしい。お城からの眺めは最高。

ちなみに、ザルツブルクと言えば、レッドブル。雄牛は町のシンボルでもある。その昔、この城がよその軍隊に包囲され篭城戦となって食糧が尽きかけたとき、最後の一頭であった牛を敵軍に差し出した。あれ、まだ食べ物たくさんあるのかな、と惑わされた敵軍は、包囲を解き、撤退したという。牛に救われた、そんなエピソード。

  

ザルツブルクは、人口の半分以上が何かしら観光業に携わっているという話も聞いたけれど、落ち着いた佇まいの中にも活気のある、魅力的な地方都市。もっとも、ちょうど音楽祭の時期でもあるし、季節的にも過ごしやすい今が一番その良さを満喫できるのかも。

  

  

お待ちかね、ザルツブルク音楽祭。オーケストラの最高峰、ウィーンフィルの公演。これのためにはるばるやってきたようなもの。
会場は観光名所にもなっている祝祭劇場。2500人も入るそう。何ヶ月も前からこの日を待ち焦がれていたであろう紳士淑女が続々と集結。そんな中、自分は期待に胸を膨らませつつも、自転車こいでのんびり駆け付けました。

 

Vienna Philharmonic

Nikolaus Harnoncourt, Conductor

FRANZ SCHUBERT / ANTON WEBERN Six German Dances, D 820
JOSEF STRAUß Frauenherz – Polka mazur, op. 166
JOSEF STRAUß Delirien – Waltz, op. 212
JOSEF STRAUß Pêle-mêle – Polka schnell, op. 161
FRANZ SCHUBERT Symphony No. 8 in C, D 944

その昔(それほど昔でもないか)、少なくない数の作曲家たちが、このウィーンフィルによって自身の曲が奏されることを念頭に創作に励んだと言う。まさに、音楽における一つの標準基底として君臨してきたオーケストラ。

一分の隙もないアンサンブル、気品溢れる美しい音色。昨日の演奏会が「楽しい」なら、今日のは「完璧」。
曲がりなりにも音楽を趣味にしてきたことに対し、幸運だったと心から思った。全部がこのときにつながっていた気さえする。このシューベルトのシンフォニーは、いま自分の人生において格別の意味を占める音楽に化けた。もう語れない。以上。
それにしても、例えばこのオーケストラの定期会員みたいな人たちは、この前は良かったけど今日のはいまいちだったわねぇ、とか何とか言ったりするのだろうか。何と言う贅沢!

生涯の思い出をプレゼントしてくれた、ウィーンフィルハーモニーの皆さん。ブラボー。


ザルツブルク1

2009-07-25 | 独墺の旅
ミュンヘン空港に降り立ってから、両替をしなくてすむ初めての海外旅行と気付いた。

今回は、ザルツブルク&ミュンヘン四泊五日の小旅行。
すでにチケットを確保したザルツブルク音楽祭に行く事がまず目的で、そしてそのザルツブルクへ行くには、ミュンヘンから入るのがだいぶ便利そうだということで、ミュンヘンを足してみた。

ミュンヘン空港からSバーンでミュンヘン中央駅へ。

ドイツが初めてである自分は、その電車内からの一見何の変哲も無い風景、遠く広がる草原と高く晴れ渡る青空の二層という単純な景色にさえ、ああこれがドイツか、と感傷を覚える。
最近は、和辻哲郎の「風土」を読んでいるおかげで、視点がすっかり影響を受けている。ドイツの木は真っすぐに生える。自然が人間に対して従順であることは、この地に理性的な文明をもたらした。加えて、寒帯的な性質のもたらす陰鬱は、人間の内なる発展を刺激した。ゲーテの詩、カントの哲学、そしてベートーヴェンの音楽がそれである。和辻に言わせれば、「ただドイツの陰鬱の中でのみ純粋音楽の創造という偉大な事業は成し遂げられた」。かなり端折ってまとめるとそんな感じ(ちなみに、彼の本では北欧に関する記述は皆無に等しいが、このドイツに関する比較的詳細な説明をより一層極端にしたものが、それに該当するということになるかもしれない)。



話を戻して、ミュンヘン中央駅にてザルツブルク行き国際列車に乗り込み。ザルツブルクまでは、片道たったの90分。便数も多い。往復で62ユーロ。
二等車のコンパートメントでは、フロリダからはるばる来たという朗らかなアメリカ人老夫婦とご一緒した。マイアミでは今やスペイン語が話せないと暮らせない、とかそんな話を聞いた。先月チェコ~ポーランドを列車で旅して、そのときにも思ったことだけど、ヨーロッパの鉄道の旅というのは、この乗り合わせになった客が、一つのスパイスになり得る。
なぜかパスポートチェックはランダムで、向かいに座っていたドイツ人の若者はチェックされていたのに、自分は素通りだった。どうなっているんだろう。

そんなこんなで午後二時過ぎ、最初の目的地ザルツブルクへ到着。

宿に荷物を降ろして、早速観光へ。好天で何より。

 

ザルツブルクと言えば、モーツァルトの生まれた町。実際。モーツァルトは、ほとんどこの町の最重要の観光資源と言っていいんじゃないだろうか。しかしどうも、モーツァルト自身は、ザルツブルクを気に入っていなかったようだ。
モーツァルトの生家と、彼がそこそこ大人になってから一家で移り住んだ家と、二つが一般公開されている。正直、両方とも高い金とる割りには見せ方が微妙だったけれど、モーツァルトがこういう場所で生まれ育ったのだと想像するだけでも感慨深いものがある。何しろ、彼がこの場所で鍵盤をぽろろんと奏で始めたそのときにはもう、今日我々アマチュア演奏家が、「モーツァルトのフレーズの終わりの四分音符三つは、ジャンポンポン、て上品にね」なんて指揮者やピアノの先生に言われることを宿命づけられていたわけだ。
この神童を授かった父レオポルドの感じたプレッシャーは相当なものであったようだが、誰もが認める天才音楽家モーツァルトの誕生を見るに、氏の父親かつマネジャーとしての手腕は並外れて優れたものだったに違いない。全てのモーツァルトファンは、彼にこそ感謝を捧げるべきかもしれない。というわけで、お墓参り。

  

ザルツブルク名物、グルメ関連。
ボスナ(左)は、基本ホットドックだけど、カレー風味のスパイスと、ふんだんに盛り込んだたまねぎのみじん切りが特徴(多分)。小腹が空いたときの食べ歩きに。
そして、楽しみにしていた甘味、ザルツブルガーノッケルン(右)。メレンゲとカスタードクリームをアルプスの山のごとく盛ったもの(Wikipedia)。いわゆるスフレと同じような要領か。通常は三人前から出すところが多いそうだけど(ザルツブルクの山には峠が三つあるらしい)、数少ない一人前を用意してくれるお店をわざわざ調べて行った。こ、これは…さすがに甘い物好き&食べ物は残さない派の自分でさえ、ギブアップ寸前だった。これで一人前って、一体ザルツブルク人はどういう腹をしているのか。ただ、相当甘いと聞いていたけど、少なくともこのお店のはそうでもなく、品の良い甘さだった。まぁネタの一つに。

 

夜はお待ちかね、ザルツブルク音楽祭の公演。会場はモーツァルテウム。ほとんど確信犯だけど、ジーパンなぞはいてやって来たのは自分だけであった。明日はスーツにしよう。



Die Deutsche Kammerphilharmonie Bremen(ブレーメン・ドイツ室内フィルハーモニー管弦楽団)

Paavo Järvi, Conductor

LUDWIG V. BEETHOVEN Symphony No. 1 in C, op. 21
LUDWIG V. BEETHOVEN Symphony No. 2 in D, op. 36
LUDWIG V. BEETHOVEN Symphony No. 3 in E flat, op. 55 – Eroica

何でも、四日かけてベートーヴェンの交響曲全曲を演奏するという企画らしく、その初日。
このオーケストラについて何も知らなかった自分は、正直、明日のウィーンフィルの前座(失礼)のような意味でこの演奏会のチケットを取ったんだけど、どうもすみませんでした。最高に素晴らしかった!!
こんなにもアクションのある演奏というのを初めて見た。ほとばしるエネルギー、情熱。一言で言うと、アツい。ベートーヴェンはこうやって弾くんだよ~。この直前に調子に乗って夕食がてらビールを二杯(1リットル)飲んでしまってまずかったかなと思ったんだけど、全然眠たくならなかったし、この重々しいプログラムでもほとんど全ての瞬間を心から楽しめた。「楽しい」という評価軸で言えば、これまでに聞いたあらゆる生演奏の中でも、間違いなく最高クラス。
まぁさすがにこれだけ熱のこもった演奏をすれば時間経過とともに少々雑になってきた感はなきにしもあらずで、そういう意味では最初が一番良かったかも。ベートーヴェンの交響曲1番がこんなに良い曲だったとは知らなかった。

客席でちょっと面白いことがあって、自分の二列前に座っていた多分ドイツ人の中年男性が、音楽がフィナーレに向かうにしたがって興奮を禁じ得ない様子で、あろうことか、曲のダイナミクスに合わせて大小に震え出し、指揮のふりを始めた。そのすぐ後ろに陣取るご婦人方は、なにこの人ちょっと面白いんだけどぉ~とくすくす微笑んでいるようだった。そして終演。否や、当のおっさんは、ものすごい巻き舌で、ブララララビッシモぉぉぉ、と叫んだ。これには、さすがに自分も笑いをこらえられず、でも自分の気持ちを代弁してくれたかのようでもあったから、それはむしろ清々しかった。そして彼はその後、ご婦人方に振り向き、ごめんねごめんね、とにこやかに詫びていた。
良い音楽は人を幸せにし、そして幸せの共有をもたらす。

このオケはわりと頻繁に来日しているようなので、今後も要チェック。
どうでもいいけど、「järvi」は、フィンランド語で「湖」。

ヘイノラ

2009-07-23 | 交流


ヘルシンキから車で二時間ほどのところにあるヘイノラという町に行き、三日間、Outiさんの実家のお世話になりました。

寝泊まりしたのは近所のアパートだけど、ほぼ毎食ご馳走になったり、車であちこち連れて行ってもらったりと、フィンランドのローカルなファミリーとの交流が初めてだった自分としては大変に思い出深い体験だった。


大学などで出会うフィンランド人に、フィンランド料理って何?と聞くと、うーん、ピザかな、ケバブかな、なんて言われたりするし、学食の食事も正直大しておいしくない。これまでいまいちフィンランド料理というもの、特に家庭料理的なもののイメージをつかみ損ねていたんだけれど、なんだ、ちゃんとおいしいものが色々あるんだ、と知った。
ご両親は、早起きして近所でブルーベリーを20リットルも摘んできたそう。それらをふんだんに盛ったベリーパイをおやつにいただきました。



二日目には、一家で所有するサマーコテージがあるという、タンペレに近いカンガサラという町までドライブに連れて行ってもらった。途中、展望台から湖を眺めたり、ベリーの摘み食べ歩きしながら森の中を散歩したり。

コテージでは、もう何日もここに滞在しているというご親戚の方がいらして、お菓子やら振る舞ってくれた。
サマーコテージにも色々あるけれど、ここには電気はあるけど、水道はない。トイレは衝撃かもね、と言われたけど、いわゆる和式の汲取式を見慣れている我々にとっては、さほどそうでもない。

 
 

ご一家は昭和56~59年の三年間、滋賀の大津に住まわれていたそうで、ご両親は少し日本語をお話しになる。大津には、フィンランド人の集まるミッション系の学校があるらしく、そこで先生をされていたそう。当時の昔話など、楽しく伺いました。あのときは、チヨノフジってスモウレスラーが強かったなぁ、とか。お母様は、もうほとんど日本語を忘れてしまった、とおっしゃいつつも、「大きな栗の木の下で」をそらで完璧に歌って下さいました。びっくり。
この機会に、覚えたての超ウルトラ初級フィンランド語会話が実践できたのも良いことでした。

とてもお世話になったイハライネン一家の皆さん。そのうちフィンランド語でお手紙しようと思う。


ご新居訪問

2009-07-20 | 交流
先月末にエスポーに引っ越したAnssi & Outiのご新居にお邪魔させてもらった。

サウナが自宅にある!というのはフィンランドではそう珍しいことではないのだろうけど、初めて見た。日本家屋に浴槽のあるがごとく、さも当然のようにそこにあるサウナ。
夕食後、温めてもらい、一緒に入りました。サウナの石に水をやるための柄杓のようなもの(これも専門用語があるんだろうけど)は、Anssiが子供の頃に学校の授業で作ったものだという。いかにもフィンランドなエピソード。

フィンランドのサウナでは熱した石に水をかけることで温度を調節するんだけど、このときに発生する蒸気をlöylyと言うそう。löylyは、近年日本でも広まりつつある言葉のようで(これを体感できるサウナが徐々に増えているらしい)、ちょっと検索してみたところロウリュとかリョウリュとかって片仮名表記がされているけど、実際の発音ははっきり言って全然違う。と言って、片仮名表記は不可能(特に「ö」は、エとオとヨとが混ざった感じ?発音が超難しい)。
ただ、この日本に輸入された「ロウリュ」の理解は表面的なものに過ぎない。löylyはどうやらもっとずっと奥が深い概念のようだ。つまり、それは単に熱蒸気という物理的な対象を示すのみならず、そこに生じるある種の精神的なアトモスフィアをも包括する概念なのだ。と説明を受けたところで、自分にはよく分からない。たぶん、フィンランド人の感性をもってでしか見出すことのできない何かがそこにはあって、それを表現する言葉だと思われる。そもそもlöylyという単語は、もともと「魂」のような意味を持つらしい。サウナ魂、てことか。

サウナで汗をかいたら、ビールとともにバルコニーに出て涼み、汗がひいてきたら、またサウナに入る。繰り返し。将来、家を建てられるなら、こういう家が欲しい。単純。

例の騒音問題など、色々と話を聞いてもらって、本当に二人の支えなしには自分はフィンランドで生きていかれなかったと思いました。謝々。

ヌークシオ

2009-07-19 | ヘルシンキぶらり歩き
ちょっと暗い記事が続いたところで、気分転換。

映画「かもめ食堂」に、正確な記憶ではないんだけど、たしかこんなようなシーンがあった。
主人公の日本人女性が「フィンランドって、何でこんなにのんびりなのかねぇ」と言うと、そばにいたフィンランド人の若者がこう答える。

「フィンランドには、森があるからだよ」


そのかもめ食堂のポスター撮影にも使われたとかいう、ヘルシンキの郊外にあるヌークシオ国立公園というところでハイキングを楽しんできた。
ああ、よかった。ここには、求めていた静寂があった。Silence is fun!


  

一緒に出かけたフィンランド人の友人に、上記のかもめ食堂のやりとりを話すと、さすがにいささかの誇張を感じずにはいられないようだったけど、それでも、首都の真ん中からでさえこういった場所にすぐアクセスできるということにはありがたみを感じるし、そういう事実に自分のパーソナリティが規定されているというのはあながち間違ってもいないかもね、という話だった。数時間のハイキング中にすれ違ったよその人はせいぜい10人くらいだけど、それでも、今日は人が多い、と言う。「だって、ここに来るのは、一切の喧噪を離れて、一人になったり、親しい人たちと過ごすためなんだ。」

この場所は、映画の効果もあって日本人旅行客にも近年人気のスポットのようだけど、車を持たない観光客にとってはアクセスが悪いところにある。分かりづらいバスを乗り継いで、最寄りのバス停から2kmも歩いたところがようやくハイキングコースの入口になる。
最近は、観光客誘致のために状況を整備する動きがあるようだけれど、たしかに、こういう場所は、(少なくとも自分たちのような人間にとっては)静寂が何よりのバリューなんだから、そのバランスはなかなか難しいなと思った。

続き

2009-07-18 | 日常/思索
騒音問題について。

ちょっと前に一度、こんなことがあった。

近所で大音量で音楽をかけながら飲み騒いでいる連中がいた。夜中の12時を過ぎても全くおさまる気配がなく、我慢の限界。意を決して彼らのところへ行き、あくまで紳士的を装いつつ、もう夜も更けたので静かにしてもらえませんか、と声をかけた。対する彼らの返事ときたら、呆れて物が言えないとはこのことだ。開いた口がふさがらない、でもいいか。

「おいおい、何言ってんだ、今日は土曜だぜ!?」


ちょうど今読んでいるオバマの自伝に、祖父から伝え聞いたという、こんなエピソードがある。
当時小学生だったオバマ母が黒人の子供と遊んでいると、そのことで近所の子供たちにひどくからかわれた。父親であるオバマ祖父は、そのいじめっ子の親たちに抗議した。すると、どの親からも、こんな言葉しか帰ってこなかったそうだ。

「お嬢さんによく言って聞かせるべきですよ、白人が黒人と一緒に遊ぶなんておかしいことだって。」


ごく基本的な人権の尊重というものをモラリティの一つの公理とするなら、このフィンランドの若者たちもアメリカ南部の白人たちも、彼らのモラルは、いずれも死んでいると言わなければならない。個人的にはもはや、脳が死んでいる、と主張したいくらいだ。
もっとも実際に、彼ら(近所の若者)は相当酔っ払っているようだったから、もうその脳みそはふやふやだったに違いない。それでも、根本的な理念を備えていれば、たとえひどく酒に酔っていようが、そんなふざけた言葉が口をついて出てくるはずもないのだ。


一見話は変わって、携帯電話のマナーモードを「マナーモード」と呼ぶのは、日本だけなんだそうだ。外国の携帯でも同様の機能はあって、それはサイレントモードとか別の名前で呼ばれたりするけれど、それが使われる頻度は日本社会に比べると圧倒的に少ない。

マナーとかモラルとかいう言葉は、ときにファシズムに帰結する。つまり、本来は何事かの手段であるはずのマナーが、悪意のあるなしによらず自己目的的なものとはき違えられてしまったときに、その悲劇は起こる。だから、マナーモードのマナーをここで振りかざすことは全く意図ではないのだけど、ここで言いたいのは、とにもかくにもこのことにマナーという名を与えた日本人の感性、これを自分は一つの美意識、あるいは美徳と呼びたい、ということだ。

ノキアの携帯には、マナーモードに相当する機能へのショートカットがないという話を聞いた(最近のはそうでもないらしいけど)。
ユニバーサルデザインという言葉があるけれど、ユニバーサルなユーザーインターフェースというものは、それに比べればなかなか成り立ちにくいものなのかもしれない。つまり、意識の違うところでは、ユーザーフレンドリーなインターフェースは必然的に異なる。けれど、これは逆に言えば、ユニバーサルなインターフェースを目指す路線からの脱却に、イノベーションの種があるということでもある。でも、本当の意味でどちらが良いのか、難しい問題。何て言ったって、自分としては、人の家の目の前で夜中に平気で騒げることの意識の方を変えてほしいものだ。

この日々目の当たりにするそこらの若者の「モラリティの欠如」と、ノキアの携帯に「マナーモード」のないことは、遠いようで、そうでもないんじゃないか。
そう考えてしまうのは、もうノイローゼの末期症状なんだろうか…

耳が聞こえなかったらどんなに楽か、とか考えてる時点で、かなり重症だ。今はただ、無音、沈黙が欲しい。

もういやだと思う瞬間

2009-07-18 | 日常/思索
騒音は拷問だ。

特に週末の夜はひどい。そこかしこで若者が騒ぎ立てている。夜中の二時、三時、お構いなし。一体どういうモラル感覚をしているのだろうか。異文化体験とか、そういう問題じゃない。
ごくたまに、乗り込んで行って注意することがあるけど、これ実はかなり勇気がいる。でも安眠には代えられない。

人間、どうしようもないストレスに侵されると、思考回路が狂うみたいだ。つまり、全員死ねばいいのに、と平気で思う。この一点のためゆえに、フィンランドを嫌いになりそうにすらなる。だいたい、フィンランドは静けさが売りだったんじゃないのか。

で、ただちに引越したいんですけど、と大学の留学生担当の人にメールをしたら、八月まで夏休みにしてます、との自動返信。

ああもう鬱になりそうだ。

ここには、あまりネガティブなことは書かないようにしていたつもりだったけど、まぁ日々それなりに色んなものと格闘しています。

フィン語の勉強

2009-07-17 | フィンランド語
7月は、ちょっと腰を入れてフィンランド語の勉強に取り組んでみることにした。

TKKの初級クラスのテキスト一学期分をこの一週間でざっとこなしてみると、ゼロが1になった感じがする。つまり、それまで町中で見かける文字、人々の話す言葉、全くさっぱり分からないのがデフォルトだったけど、あ、いまの分かった、という体験が少しずつ増えてきた。
でも、お店なんかで店員にフィンランド語で話しかけても、相手の返答はもはやほとんど理解できない(テキストに書いてある通りの返事が帰ってくるわけがない)。それでも、自分の言ったことが相手に伝わったことを確かめられるというのは、それだけでも無駄じゃない。例えば、バスに乗るとき、分かっているのにわざと、meneeko tämä bussi keskustaan?(このバス、中心街行き?)なんて聞いてみたりする。テキストによれば、meneeとか、jooとかって返事が帰ってくるはずなんだけど、生身の人間は、その代わりにわけのわからないことをごちゃごちゃ言う。それでも、どうやら雰囲気的には、正しい。そんな些細なことに、ささやかな手応えを感じたりする。

今更、この年になって、語学の面白さが少し分かってきた気がする。なんで昔はあんなに興味がなかったのか。その昔、一年半も学んで単位もしっかり取ったはずのフランス語は、アン、ドゥ、トゥロワ、の後はもう続かない。

2009-07-15 | 日常/思索
分かりきっていたことだけど、日本語の読み物がそう簡単に手に入らない。

このご時世、オンラインでいくらでも注文できるけれど、送料が本代よりも高かったりするので、ほとんど利用しない。
それに、ふらふらと立ち読みする楽しさというものが全く味わえない。

そんな中、ヘルシンキでもいくらか日本語の書籍の貸し出しをしている場所が(自分の知る限り)二つあって、一つはパシラというところにある公立の図書館、もう一つは日本大使館の図書室。一応どちらものぞいてみたけれど、あまり利用しようという気にならず。古本屋で売れ残った本が置いてあるだけ、みたいな感じ。

そこで、日本語ができるフィンランド人にしばしば日本語の本を借りたりしている。他人に借りて読むと、自分の趣味でない(と思っていた)ものも意外に面白かったりするので面白い。最近は、毛嫌いしていた村上春樹が、だいぶ「読める」ようになってきた(でもやっぱり分からない)。いま日本で流行っているという新作もちょっと読んでみたい。

あとは、そんなこともあってか、代わりに英語の本を日常的に読むようになった。いま読んでいるのは、オバマの自伝。正直、きちんと読むのはそれなりに骨の折れる作業(オバマの文章が悪いんじゃなくて、自分の理解力のせいで)。研究の必要で読むアカデミックな論文や教科書なんかは、本当に分かりやすい英語だとつくづく思った。

ついでに、日経ビジネスオンラインの記事をあちこち熟読するのが最近の日課。

さらについでに、この前のフィンランドバス旅行のときに、車内での暇つぶしにと思って、数独の問題集を買ってしまった。これはやばい。

左手のピアニスト

2009-07-14 | 音楽
フィンランドにいる間に一度は、と思っていた、ピアニスト館野泉さんの演奏をライブで聞く機会があった。
(館野さんをご存知ない方はこちらでもどうぞ)

テンペリアウキオ教会での、オーケストラのコンサート。ここでチェロを弾いたのはもう一月半も前か。早いような、そうでもないような。
観客の1, 2割は日本人だった。こんなにたくさんの日本人を久しぶりに見た。大使館のメルマガで宣伝していたからか(まぁ自分もそれで知ったんだけど)。
チケットには長蛇の列。もちろん地元の人にも相当愛されている様子が伺える。

オーケストラ/La Tempesta 指揮/Erkki Rautio ピアノ/館野泉
シベリウス:アンダンテ・フェスティーヴォ
シベリウス:即興曲
吉松隆:左手のためのピアノ協奏曲「ケフェウス・ノート」
武満徹:映画のための作品から3曲
シベリウス:ロマンス
ノルドグレン:民俗楽師の肖像

このオケは、多分プロフェッショナルな団体なんだろうけど、フィンランド人の曲と日本人の曲とでは、まるで別のオケのようだった。言わずもがな、前者の方が圧倒的に生き生きした音楽、清々しさと躍動感があり、響きもよくまとまっている。一方、日本人二氏の曲は、なんだかよく分からない曲を弾かされているような雰囲気しか漂っていなかった。
そのうちの一つに館野氏がソリストとして登場したのだったから、この点はちょっと残念だったけど、それでも氏の演奏には、素直に人を感動させるものがあると思った。くっきりと一つの世界観を構築する。瑞々しい。日本の梅雨のじめじめより、マイナスイオンに包まれたフィンランドの湖畔にて。勝手ながら、そんな想像。

もっと長い間、このピアノの音色に浸っていたかったけれど、今日は一曲のみ。また機会があれば是非足を運びたい。
実は今日、ひじょーーーーーーに不愉快な出来事があったのだけど、すっかり癒された。

オケをちょっとぼろくそのように書いたけど、フィンランド人作曲家の4曲はどれもそれぞれに面白かった。知らない曲でも、良い曲がたくさんある。


余談だけど、この左手のためのピアノ曲、という一つのジャンルの発生は、オーストリアのピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインに由来すると言われる。第一次大戦で右腕を負傷した彼のために、ラヴェルやプロコフィエフなど名だたる作曲家たちが左手のみで演奏可能な曲を生み出した。名字でピンとくるかもしれないけど、パウルは、哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの兄にあたる(ルートヴィヒもアマチュアのクラリネット吹き)。
いま自分の中でウィトゲンシュタインがちょっとアツいので、ここで面白い縁を感じるのでした。それだけ。