Anteeksi.

すみません、ちょっといいですか。フィンランド留学の見聞録。

後記

2009-06-09 | 中東欧の旅
つい一週間前の日記に、フィンランドにも夏が訪れた、と書いたが、昨夜降り立ったヘルシンキの空港で肌に触れた空気はひんやりと冷たく、おおこれがフィンランドであるか、と思わず感嘆したほどであった。
さらに今日は寒かった。日中でも10℃そこそこ、夜になると6℃ほどで、一週間前にはそこら中を上半身裸の人が歩いていたというのに、今日はコートを着ている人すら珍しくない。自転車をこぐには、手袋が必須である。一旦整理した冬物用グッズから、再び取り出してきた。そんな感じで、ちょっと気まぐれなフィンランドのお天気。


旅行に関する余談だけど、外国を旅するときは、「こんにちは」「ありがとう」といった超基本的な用語に関しては、現地語を使うことを心がけている。我々が外国人を日本に迎える場合を想像してみると分かりやすいが、たとえそのような片言でも、現地の言葉を使ってコミュニケーションを図ろうとしてくれるのは、嬉しいものなのだ。
特に効果があるのは、「この料理はたいへんおいしい」という、飲食店で食事を頂いた後でのアピールである。だいたい、自分のような若者が、観光地のレストランにお一人様で入ると、「まったく大した理解もないくせに、日本人は金だけは持ってるんだよなぁ」というような顔をされることも少なくない(もっともそれは事実だが)。
そんなときに、お会計のときにでも一言、「料理がたいへんおいしかった」と現地語で言ってみる。すると、今まで笑顔一つ見せなかったその人が、にこりと微笑むのである。または、それまでの営業スマイルとは少し違う類の笑顔を見せる。この表情を見るのが、好きだ。
これは、現地語でというところが肝心なのである。日本で外国人にメシを食わせたとして、「very nice」と言われるのも嬉しくなくはないが、「トテモ オイシイ デース!」とでも言われれば、遠いところをわざわざようお越し下さいました、とこちらが感謝したくなるほどにでもなるのではないだろうか。

今回の旅で、外国でのお一人様の食事にだいぶ慣れた。けど、まだどこにでも入れるほどの度胸はない。英語メニューか、写真付きメニューの少なくともいずれかがないと、ちょっと足踏みしてしまう。
一方で、一つポリシーがあって、それは、店先で客引きが「コンニチワ コンニチワ」などと呼び止めるような店には入らないということだ。

ワルシャワ

2009-06-08 | 中東欧の旅
この旅の最終日。

ワルシャワではもともとあまり観光をする気がなかったのだけど、少ないながら楽しみの一つにしていたショパン博物館に行ってみたら、なんと改装工事中のため休みだった。がっくり。ふと右隣に目をやると、同じようにどこぞからいらした熟年夫婦が、やれやれ参ったなこりゃ、といった表情で肩をすくめている。(後で宿の人に聞いた話だと、かなり大掛かりなリニューアルを計画していて、少なくとも年内は閉まっているとのこと)

ついでに、もう一つ行ってみようかと思っていたワルシャワ歴史博物館というところも休館日だった。今日はなんだかツキがない。
しかたないので、その辺を大したあても無くぶらぶら。

ガイドブックのワルシャワのところをぱらぱらと眺めると、「第二次大戦で破壊され、その後に修復」「戦争中に美術品はあらかた略奪された」などといった記述が目につく。ガイドブックを流し読みするだけで、こんなにもやるせない気持ちになる都市というのも、そうない。

そのワルシャワの街を歩くと、1939とか1944とかいう数字をしばしば目にする。1939は、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次大戦の始まった年。もう一つの1944年は、そのドイツ軍の占領下にあったワルシャワ市民が一斉蜂起を起こした年なのだそうだ。これに対して怒り狂ったドイツ軍は、市街地の八割を焼き払ったと言う。



終戦後の復興作業では、可能な限り元の街の様子を再現するように努められたそうだ。このことは、旧市街の建物を眺めると、特によく分かる。それらの建物は、一見いかにも古めかしい趣ではあるが、例えば壁の質感なんかをよくよく見てみると、決して古くはない建物であることが分かる。

 

 

というセンチメンタルな話からショパンに話題を戻すと、旧市街の一角に、とある教会がある。そこの石柱の一つに、なんとショパンの心臓が納められている。

 

さらに、ショパンのでかい銅像があるという公園に散歩に出かけてみた。
この国におけるショパンの存在感の大きさを見るようでもあった(というのは錯覚かもしれない。何しろ、サンプルはたったの数人だが、ポーランド人たちに、なぜこの国の空港をショパン空港と呼ぶのか、と尋ねたら、さぁとりあえず適当に有名な人連れてきたんでないの、という極めてどうでもよさそうな雰囲気である)。なぜか悩まし気にも映るショパンの表情。

 

 

昼飯には、またまたピエロギを食べた。昨日のは具が挽肉しかなかったが、餃子と同じように、具材に色々なバリエーションがあるものだそうだ。ポテト、野菜、キノコ、などなど。今回は食べる機会はなかったけど、甘味にすることもあるらしい。

ところでワルシャワに、文化科学宮殿という、ひと際目立つ建物がある。それは、高さの点においてもそうなんだが、何と言っても、明らかに周囲の建築の雰囲気と不釣り合いである。
これは、1950年代に造られた、スターリンからの「贈り物」らしい。権威主義の象徴的存在である。幕にある1989は、ポーランドで社会主義体制が崩壊した年である。20周年ということで、何かと催し物をやっているようだった。
ヘルシンキにも、大聖堂の前の広場にロシア皇帝の像が立っている。ロシア人というのは、こういうのが好みなんだろうか。



(左)ポーランドのポストは、ホルンのマークが目印で、これはチェコでも同じだった。
(右)クラクフでもそうだけど、やたらアイスクリーム屋を見かけた。



以上。ワルシャワはあまり書くことがないけど、一つには、ワルシャワは東京にも似た都会であると感じたからかもしれない。


ちょうど5日前の日記の初めに登場したショパン空港に戻ってきた。

それほどアクティブに動き回ったという感じでもないけれど、かなり充実した旅であったと、飛行機待ちにカフェでコーヒーをすすりながら振り返る。
特に意図していたわけではないけど、いつの間にやら、歴史や平和という概念が、主要なテーマになっていた。何と言っても、やはりアウシュビッツの印象は強烈過ぎた。これに尽きると言ってもいいかもしれない。そして、高校生の頃にもっと世界史を勉強しておくのだったと、反省した(何しろ、世界史が一番成績の良くない科目だった)。
クラクフ行きの電車で少し喋ったポーランド人の女の子にすすめられた、ヴェデル社(Wedel)のチョコレートをお土産に大量購入。思い出に浸りながら、これを当分のおやつにしよう。

フィンエアーで、ヘルシンキに帰還。飛行機はほぼ真南からやってくるので、窓から我が家(のあるオタニエミ)がよく見えた。そこらから聞こえる、心地よい呪文のようなフィンランド語。なんだかもはや、我が母国に帰ってきたような安心感でもある。
フィンランドに帰ってきて思った事は、肌寒い、夜でも明るい、もそうだけど、やはり物価の高さ。小腹が空いたので、その辺でケバブでも買おうかとしたら、ポーランドでは200~300円ですんだのに、ここでは700~1000円ほど。

クラクフ

2009-06-07 | 中東欧の旅
午前中、クラクフ郊外にあるヴィエリチカ岩塩採掘場というところに行った。ユネスコ世界遺産の一期生でもあるらしい。
歴史的背景を大して知らなかったので、行こうかどうか迷っていたんだけど、宿で同室だった人だちが、クラクフまで来てこれを見なきゃ嘘だぜ、みたいなことをしきりに言うので、ほほうどれどれ、というわけだ。

ヴィエリチカでは、中世ポーランド王国時代から岩塩が掘り続けられている。蟻の巣のごとく地下深く拡大した発掘経路は、全長、実に300km以上にもなるとのことだ。この内、3kmほどのコースが、観光客向けに公開されている(17世紀頃には、すでに観光名所化していたらしい)。
当時、天然の塩は大変に高価だったらしく、この岩塩抗から採れる塩だけで、ポーランドの国家収入の三分の一を占めていらとのこと。当然、その過程で、大勢の坑夫が犠牲になった。クラクフは、大いなる悲劇の場となった世界遺産を二つも抱えているところでもあるというわけだ(もちろん、もう一つはアウシュビッツ)。

以上、前置き。
ガイドツアーがスタートすると同時に、ひたすら階段を降り、それから地下数十~百メートル以上のところをうろうろする。3kmと言ったって、階段の上り下りもあるし、歩くとそれなりに疲れる。途中、ガイドさんが、昔の作業の様子を説明してくれる。
採掘の跡を利用した礼拝堂やホールのような空間もあり、またそういったところには壁を掘った彫刻などもあって、なるほどこれはたしかに見事だ。シャンデリアなんかも塩でできている。その昔、ショパンもここに来て、作曲のインスピレーションを得たと言うが、一体どんなインスピレーションだったんだろうか。
ちなみに、写真撮影はすべからく有料だということで、撮影権(300円くらいだが)を購入したのだけど、暗過ぎてほとんど良い写真が撮れなかった。ありゃ詐欺だ。

  

クラクフは、首都がワルシャワに移る以前のポーランド王国の首都だった。16世紀頃までの話である。当時のクラクフは、ヨーロッパでも指折りの大都市で、文化や学問などにおいても中心的だったそうだ。コペルニクスはこの時代の人物であり、クラクフの大学で学んでいる。

ちょうど週末だったこともあって、旧市街のあたりはかなり賑やかであった。

  

  

  

昼飯は、ポーランド料理を出す軽食堂のようなところで。
右は、ビゴスといって、代表的な家庭料理のようだが、キャベツなどの野菜とソーセージを煮込んだもの。これは日本にもありそうな味だ。一方、左はピエロギという、餃子のようなもの。実際、中国の餃子がルーツのようだが、餃子とは全然違う。これが、絶品だった。今回の旅で、グルメ関連での一番の発見かもしれない。



ワルシャワ行きの電車まで少し時間があったので、マンガ館なるところへ行ってみた。
ここは、日本の文化や美術を扱う博物館で、別にマンガの博物館ではない。少し前に亡くなられたらしいが、ポーランド人の日本美術コレクターがいて、その熱心ぶりと言えば、ミドルネームに「マンガ」を名乗るほどだったそうだ。そのマンガさんのコレクションを展示しているというわけ。
浮世絵や、鎧、武具など数多く展示されているという話だったが、今日は特別展(伝統舞踊のお面や衣装を展示したいた)以外はお休みだったようで、ちょっとがっかり。しかしながら、日本文化に特化した施設で、これだけの規模のものは、海外にはそうないのではないだろうか。何年か前に、天皇夫妻もいらしたとのこと。

 

ちょうど、地元のお祭りをやっていた。子供が主役の行事なのか、家族連れが多く、和やかな雰囲気。
全く昨日の話を引きずらずにいられないほどその印象は強烈だったのだが、この平和というものほどありがたいものもない。

 

夕方にクラクフを出る列車に乗る。
とても居心地の良い街だったので、もう少しじっくり滞在してみるべきだったかもしれない。今朝のツアーで一緒になった外人がこの街をして、too nice to live、と表現していたけど、まぁそんな感じだ。

クラクフとワルシャワを結ぶ特急列車となれば、日本で言えば東京―大阪間ののぞみみたいなもんだろうけど、二等車のコンパートメントは、快適とは言い難い。というのは、同乗者によるのかもしれない。三、四人ずつが向かい合って座るそこには、一つの社会が創出される。乗り合わせたのは、まさに大阪のおばちゃんたちの東京見物よろしく、賑やかなおばちゃんの集団であったが、ななめ向かいに座ったそのうちの一人がリラックスして足を伸ばしてくる。この目の前に差し出された足の臭さといったら、それはもうほとんど拷問であった。

午後七時、ちょうど三時間ほどで、ポーランドの首都、ワルシャワに到着した。

ワルシャワは、大都会だ。
他人の旅行記などを拝見すると、よくワルシャワを東京、クラクフを京都のように例えてあるが、まさしくその通りだと感じた。この感覚、身に覚えがあるなと思ったら、それは京都旅行から東京に帰ってきたときの気分だということに気付く。
クラクフでは、片手で数えられるほどしかお目にかからなかった日本企業の広告も、ワルシャワではそれなりによく見かける。

 

アウシュビッツ

2009-06-06 | 中東欧の旅
アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所。

クラクフから西に60kmほど離れたところにある。予め申し込んでおいたツアーに参加した。
ポーランドには、このアウシュビッツを初めとして、いくつかの収容所(跡)があるのだが、なぜこの場所にあるかと言えば、それは単に、当時ナチス・ドイツの勢力範囲の及んでいたあらゆる地域から収容者を連れて来るのに、効率的だったからである(西はフランス、北はノルウェー、東はロシアの一部、南はギリシア、と言えば、たしかにそういうことになりそうだ)。

初めにアウシュビッツを訪れた。ここは、今では博物館になっている。修学旅行のような団体もちらほらいたが、よくこんなところで白い歯を見せて記念写真を撮る気になれるもんだ。と言って、自分も子供の頃に広島の原爆ドームを訪れたが、あのときはどうだったであろうか。
小休憩のときに、一緒のツアーで回っていた、オーストラリアからはるばる来たというおばあさんと少し話をした。ご友人に、アウシュビッツの生き残りがいると言う。22人の大家族の全員がここに連れてこられ、生きて帰ったのは、そのご友人ともう一人だけだったそうだ。

続いて、少し離れたところにあるビルケナウ収容所。こちらの方は、打って変わって、実に惨憺とした風景であった。当時の様子をできる限りそのまま残すようにしてあるようだ。ガイド用の説明書きなどはほとんどないが、リアルさという点においては、ビルケナウの方がむしろ多くのことを語りかけてくるような感じだった。

「人生の終着点」―ここに降り立った人々の心境とはどのようなものだったのだろうか。なんて、戦争を知らない若僧が問いかけても、これほどの愚問もなさそうだ。その答えは、存在するとしても、とても自分の引出しの中にはないものであるような気がする。
列車を降ろされると、すぐさま、悪名高き「セレクション」(つまり、強制労働要員か、ガス室行きか)が行われた。自分が今立っている、この場所で…



と、ここまで敢えて淡々と書いてきたが、正直に告白すれば、予想していた以上に、気がおかしくなった。脳みそにふたをして、ぶんぶんと振り混ぜられたような感覚だ。それはもう、これまでに味わったことのない、強烈な揺さぶりであり、意識をどこかにつなぎとめておくのに精一杯だった。気がおかしくならない方がおかしい、と言いたいくらいだが、どうだろう。

実のところを言えば、自分はどうも職業柄(?)というか、物事を批判的に眺める癖があって(良い意味で解釈していただけるとありがたいですが)、例えば、これはナチスがユダヤ人から没収した貴金属の山です、と言われたところで、本当かいな、という思いが、幸か不幸か何%かくらいは出てきてしまう。
アウシュビッツのガス室は、南京虐殺なんかのように、捏造論も絶えないのだ。歴史検証家でもない自分が、何を信じるかは、とても難しい(というか原理的には判断不可能な)問題ではあるのだが…。

しかし。この場所の負の遺産としての価値について自分が感じたものを、ちょっと人の言葉を借りて表現してみよう。

実は、少し前に、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」を読み、これは今回の訪問の一つの動機ともなっているのだけど、その中に次のような一説がある。

「わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった『人間』を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」

アウシュビッツは、この命題の実現可能性を、世界でも稀に見る強烈さで放ち続ける場所なのである。それで、十分過ぎるのではないだろうか。少なくとも、自分はそう感じた。
肝心なのは、我々がそこから何を汲み取るかということであり、誰かを恨むとか、人の愚かさに絶望して世を捨てるとか、そういうことではないのである。というようなことを、今日のツアーのガイドさんも言っていたが、全くその通りだろうと心から思った。

ちなみに、「夜と霧」には、終わりの方に解放後の記述があり、著者による次の「分析」がある。

「未成熟な人間が(中略)今や解放された者として、今度は自分が力と自由を意のままに、とことんためらいもなく行使していいのだと履き違えるのだ」

この物語は、まだ終わっていない。

  

  

  


あれだけのものを見せられた後にクラクフの街を歩くと、一方でこれほどの平和を築き上げたのもまた同じ人間なのだということ、そこに無上の尊さを覚える。

ここらで現実的な話題に戻ると、ポーランドの物価の安さときたら、フィンランドの1/3~1/4ほどに感じる。1000円ばかりあれば豪華ディナーにありつける。ワインがグラス一杯130円ときたもんだから、2回おかわりした(なんか毎日お酒飲んでるな)。
ポーランド料理らしいものを食べてみた。「チーズパイ」と表記されていたが、鶏肉とトマトや茄子などの野菜がどかっとのっかって、ボリュームたっぷり。ソースが何種類かあって、色んな味を楽しめる。



自分の旅のスタイル、というかお金の使い方として、特に一人旅の場合は、宿代を切り詰めて、その分を食費に回す。宿は、最低限の安全保障があれば十分だが、食べ物に関しては、ご当地料理を満喫しなければ機会損失甚だしいというものだ。

というわけで、宿は基本的にユースホステルなんだが、アメリカやカナダで利用したことはあったものの、そっちでは経験したことがない、という経験をこちらでする。それは、部屋が男女共同ということだ。部屋に入ると、目の前で外人の女性が(と言ったって、向こうからしたらこっちが外人だが)Tシャツ一枚ですやすや眠っているわけだから、すっかり部屋を間違えたんだろうと思ったら、そうでない。どうもヨーロッパではわりと一般的なことのようだ。シャワーも共同だったりするから、向こうの方が気にするんじゃないだろうかと思いきや、さすがにこんなところに泊まる女性はタフなのが多いようだ。

プラハ~クラクフ

2009-06-05 | 中東欧の旅
チェコ語でも、口語で肯定の相槌を「ヨー」と言うらしい(フィンランド語もそうだ)。みんなやたら、ヨーヨー、と言ってるから、あれフィンランド人か、と一瞬思うんだけど、明らかに外見が違うし、やっぱりその後に話される言葉は全然別ものだ。
ちなみに、チェコ語でYesは「アノ」、Noを「ネ」と言うそうだ。続けて読むと、あのね。

プラハ三日目の今日、まず向かったのがドヴォルザーク博物館(オリジナルの発音は、ドボジャーク、が近いようだ)。
(左)彼が使用していたというビオラ。(中)チェロ協奏曲の楽譜(の写し)

(右)その足で、ドヴォルザーク大先生のお墓参り。
このご対面は、なかなか衝撃的なイベントだった。瞬間、ドボ8の4楽章が頭の中に流れ出した(たぶん、昨晩聴いていたから)。もちろん単純に物理的な意味においてでしかないのだが、今、ここに眠るドヴォルザークに、誰よりも側にいる。ただの妄想癖だが、どうも自分はこの種の感慨に浸るのが好きらしい。

  

昼食は、ビールを自家醸造している、いわゆるマイクロブルワリーとでも言うようなところに入った。
肉料理に添えられている、丸いパンのようなもの、これはクネドリーキとかいうものらしく、よく見かけた。英語メニューにはdumplingと表示されているけど、蒸しパンに、肉が入ったような感じ。
この店では、毎日、数百リットルものビールを製造しているらしい。面白いことに、バナナ、チェリー、といった、フレーバー付きビールのようなものも色々あった。せっかくなので、ちょっとずつ色々飲めないか、と言うと、1cl×8種類のビールを出してくれた。

 

この三日間、フィンランドではあまり使う機会のなかった(観光をしていないだけだが)国際学生証が威力を発揮した。どのくらいかと言うと、もろもろの学割で浮いた分で、十分過ぎるほどのチェコビールを楽しむことができたほどである。

というわけで、ここらでプラハ飲んだくれの旅、終了。



14時9分、ポーランド・クラクフ行きの列車に乗り込む。
指定席だったのだけど、座席の表示が全く分からず、20分ほども電車の中を行ったり来たりしていた。車掌は全く英語を話さず、あっち、と言われてあっちに行ったら、違うよそっちだ、と別の車掌に言われ、そっちに行ったらやっぱりまた、あっちだ、と言われたりする。不親切だ。疲れた。そこら中の客に、あの日本人、まだうろうろしてるわね、みたいな哀れみ表情を投げかけられる(多分)。

結果的に席を見つけて、ようやく落ち着いて、外の景色を眺められるようになった。

実は、外国で本格的に列車で旅をするのは、これが初めてのことで、これ自体が今回の旅程の一つの楽しみでもあった。もちろん頭の中でお馴染みの音楽「世界の車窓から」、そして、一人で実況。とは言っても、いったん都市を離れたら、基本的にど田舎だ。だだ広い平原が広がる。

それにしても 、8時間の電車というのは長い。ただ飛行機と違うのは、それなりに移り変わりのある景色を楽しめるということだ。
満員で、立ちっぱなしの客もいるから、座っている自分はまだ良い方なのだが、足も伸ばせないし、これで8時間はきついな、と思っていたら、2時間ほどして着いた駅で客の大部分が降りた。隣が空いたので、三座席分を一人占め。最後までゆったりできた。

ところで、どういうわけか、ポーランドに入ったところから、急に電車の速度がのろくなった。どのくらいのろいかと言えば、世田谷線並みだ。おまけに、電力供給に問題があるのか、時折車内の照明が落ちる。向かいに座ったポーランド人の女の子は、「よくあることよ」と、慣れた口調だ。
国境を越えた辺りで、査証のチェックがあったが、実に簡単な手続きだった。しかも、3回か4回に一度くらいの割合でしかチェックが入らないらしい。チェコもポーランドも、20年前までは「東側」だったというのに、最近では実に緩やかになったもんだ。というような話を、そのポーランド人と少しだけした。少なくとも20世紀以降の国際社会での立ち位置を見る限り、チェコとポーランドの印象は、かぶるところが少なくない。

21時49分、ほとんど定刻通り、クラクフに到着。

続・プラハぶらり歩き

2009-06-04 | 中東欧の旅
プラハの公共交通機関の券売機は、お札が使えない。小銭しか受け入れない。つまり、日本にいるときのような発想で、買い物の度に小銭を減らそうと考えると、地下鉄の券が買えない(あと、トイレに入れないとか)、ということになる。
昨日、空港で両替してもらった中に小銭がなかったので、いきなりバスの券が買えず、しかたなく、その辺のキオスクで別に欲しくもない水を買った。
その数時間後、またやってしまった。つい小銭を減らす方向で使っていたら、地下鉄に乗ろうとしたときに券を買えるだけの小銭が無い。そして、またまた別に欲しくもない、その辺の出店で売っていたビワのような果物を買った。

「どうでもいい」公衆サービスにお金をかけられるのが、本当に豊かな国だと、誰かが言っていた。


本日のぶらり歩きスタート。

通りがかりのヴァーツラフ広場。今でこそプラハ随一の繁華街だそうだが、1968年、当時のチェコスロバキアの民主化の動きを抑圧するため、この場所は、国境を越えて侵入してきたソ連軍の戦車に占拠された。これに抗議し、ここで焼身自殺をした若者がいる。彼の死は、20年の時を経て、ようやく報われる。1989年、再びこの場所を起点にして革命が起こり、社会主義体制が崩壊したのである。
なんだ、つい最近のことじゃないか(何と言ったって、子供の頃に買ってもらった地球儀には、まだチェコスロバキアという国が存在していたのを覚えている)。

 

というようなあらすじをほんの少し頭に入れて、今日まず出かけた場所、共産主義博物館。
共産主義とは一体どういうもんか。それは、この国が、紛れもなく現実として体験してきたものなのである。第二次大戦前後から、そのついこの間の民主化革命までのチェコスロバキア社会のありようを、様々な資料とともに追う。

そこで見たものは、一つの大いなる狂気だった。
労働者は英雄である、とされながら、囚人(法律など関係ない、ただ反政府主義者であったり、無実でも密告の対象とされたりした人たち)には誰よりも厳しい労働が与えられる。プラハの歴史的町並みを修復、修繕する金などない、と言いながら、バカでかいスターリンの銅像を作らせる。世界平和を謳いつつ、初等教育から敵(つまり西側諸国)を認識させる。もう何もかも矛盾だらけだ。

1968年に起こった民主化運動の波を、「プラハの春」と言う。プラハの春は、上に書いた通り、ソ連軍の侵攻により、あえなく潰されてしまうのである。プラハの街において、ソ連軍の戦車が闊歩する。このときの市民の心情とは、一体どのようなものであったか。その疑問に答えるがごどく、その様子を写した一枚の写真の下には、こうキャプチャーが付されていた―We welcomed Soviet tanks with tears in our eyes.
圧巻は、映像資料であった。1989年のビロード革命は、無血革命だった、と手元のガイドブックには一言記されている。しかし、映像はそうは語っていない。同じ国の人どうしが、つまり国家の警官隊と市民デモの参加者たちとが、本気のぶつかり合いをしている。血なまぐさい。ちっとも、無血どころじゃない。死人が出なかった、という意味で無血という表現を借りているだけだ。デモ隊には私服警官も紛れ込んでいて、少しでも周囲におかしな動きをする人がいると、いっせいにリンチを加える。だが、そのリンチを加えている警官たちもまた、同じ国民なのだ。みんな、血を流している。それも、たった今さっき歩いて来た、あの広場で!

共産主義博物館は、マクドナルドに包囲されていた。

この場所は、なかなか衝撃的だった。ここに入る前と出た後では、この街、そこにいる人々を見る目というものが、すっかり変わっていた。

   

本日のランチは、すごいボリュームのトンカツ。そして昼間からビール。食事と一緒にソフトドリンクかビールがつきますが、と言われたら、ビール、と答えないわけにはいかないというものだ。



時間帯のせいか、カレル橋は昨日よりだいぶ賑やかだった。さらに、天気が良い。どんよりとしていた昨日と違い、おかげでプラハの街もより鮮やかに色彩を帯びているように映る。
モルダウ川を渡り、少し山登り。プラハ城を横目に、まずは丘のてっぺんにある修道院を目指した。ここからは素晴らしい街並みが一望できる。休憩がてらテラスのベンチに腰掛けてアイスクリームをほおばり、しばし目の前に広がるこのパノラマ風景を堪能。

 
 

続いて、プラハ城。大統領府も兼ねているそうだ。
ここは、歴史的な価値や、建造物としての存在感、色んな意味で、プラハの中でも間違いなく最重要ポイントの一つであると思われるが、しかしそれにしても、この「見せ方」は何だろう。ディズニーランドみたいなところだな、というのが感想だ。つまり、あからさまなくらいに、作り込まれ過ぎている。
正直、ちょっとがっかりした。とは言え、そもそも自分が何を期待していたのか、それ自体必ずしも明確であるわけではないが、少なくとも実際に目にしたものとは違う気がする。つまり、ここでは、例えば70年ほど前にヒトラーがここからプラハの街を見下ろしていた、というような歴史からの連続性といったものが、全くリアル感を伴わないのである。



もちろん、「観光地化」ということは、多かれ少なかれ、このような要素を伴うことは避けられない。それは、日本で旅行をしてもそれを感じることはあるし、どこだってそうだ。しかし、節度というものがある。

実は、このことは、旧市街全体についてうすうすと感じていたことであったのだが、それをもっとも象徴的に感じたのが、このプラハ城だった。
旧市街という名の通り、たしかに古くから物理的な構造としての街はあったのだろうが、精神的なコンセプトとしてのつながりはどうなのであろう。それは、全く新しく作られたディズニーランドのようなもののように思える。
このことは、この国が辿ってきた歴史の必然なのかもしれないが、どうも、まだ実験段階というか、この先の道を模索しているような印象も受ける。資本主義が流入したのは、わずか20年ほど前のことだ。「歴史的街並」の中には、この後に修復されたものが少なくないらしい。民主化し、資本主義を取り入れることとなったものの、さてどうしようか、というときに、とりあえず観光立国の道を選んだ。その結果、多くの外国人観光客が、マクドナルドやスターバックスと一緒に、やってきたのだ。したがって、プラハの街を歩くと、例えばウィーンが比較的自然なプロセスを経て「老いた貴婦人」と呼ばれるようになったのとは、かなり異なった印象をそこに認めたい衝動に駆られる。そこかしこで観光客に媚を売る人々を見ると、なんだか、彼らはそういう方向に追いやられたのか、という気もしてくる。

この直感がある程度的を射ていたとしても、別にそこに価値判断を挟むつもりはないが、次のことを言いたい。
今、チェコの民族的アイデンティティの拠り所としてのプラハというものがあるとして、それを「プラハ」と書き、一方でこのディズニーランド的なプラハを<プラハ>と書くことにしよう。<プラハ>は、実に楽しいところである。かく言う自分も、短い時間に<プラハ>を相当満喫したつもりである。しかし、それを「プラハ」での思い出としてしまうことは、いささか傲慢ではないだろうか。「プラハ」は、どこか別の場所にあるような気がしてならない。

価値判断をしないと言ったけど、どうだろう。例えば、東京や京都の真ん中がこんな風になっていたらと考えると、いくら経済的に潤うことの近道であるとは言え、手放しで快いとは言えないのではないだろうか。

この国の歴史に大いに興味を持った。


夜は、室内楽の演奏会で音楽鑑賞としたが、色んな意味でうんざりして、途中で出てきた。
観光客相手のイベントなので元々ある程度は割り切っていたものの、一言で言えば、それはもう完全に「見せ物」なのである。そこには奏者と聴衆のインタラクションなるものが一切ない。演奏中であろうとお構いなしに、十秒置きにカメラのシャッター音が響く。隣のカップルはやたらいちゃいちゃしている。さらに、演奏者の側も、もちろんプロだから下手だということはないのだが、明らかにやる気がない。それでも、曲の終わる度に熱狂的な拍手である。なんだこりゃ。

だけど、これは別に、誰の責任ということもないのである。これが<プラハ>なのだ。

まぁ唯一の良かったことと言えば、スメタナホールで音楽が聴けたことである。素晴らしいホールだと思った。ホールもまた一つの楽器であるということを改めて思い知る。

 

ホールを背にして、しばらくふらふらしていたのだが、どこからともなく聞こえてきたバイオリンの音色に誘われ、ちょうど夕食にと、イタリアンレストランに入った。そこでは、バイオリン、ギター、ベースからなるバンドが、タンゴのような音楽を演奏していた。うまい料理、酒、音楽。コミコミでさっきの「見せ物」より安いときた。


プラハぶらり歩き

2009-06-03 | 中東欧の旅
フィンランドより、初の海外旅行。これもまた留学生活の楽しみの一つ。

何気にお初のフィンエアーでまずはやってきたのが、ポーランドのワルシャワ・オケンチェ国際空港、またの名をフレデリック・ショパン空港。
政治家や歴史的偉人の名を与えられた空港はいくつか思い浮かぶけど(ジョン・F・ケネディ、シャルル・ド・ゴール等々)、音楽家の名を冠する国際空港なんて他にあるだろうか(と思って調べたら、リバプール・ジョン・レノン空港なんてのがあった)。
よほどショパンは敬愛されているのか、はたまた単純に他に取り立てて国を代表する人物が見当たらなかったのか。後者のような気もするが。ショパン、キュリー夫人、コペルニクス、がポーランド三大偉人だそうだ。コペルニクスってポーランド人だったんだ。



そのまま飛行機を乗り継ぎ、今回の旅の出発点である、チェコ共和国の首都プラハへ。

フィンランドを空から眺めると、想像通りの森と湖の国だが、対して、チェコやポーランドは、草原や平原、そんな景色が印象に残る。
つい数十年前まで、こんなところでいくつもの悲劇的な歴史が繰り返されていたなんて嘘のような、実に牧歌的な風景だ。しかしたしかに、プラハの周辺には、共産主義国家的とでも言えるような、無機的な匂いのする集合住宅の数々が見受けられる。何が現実だろう。ただの観光ではあるけど、少しそんなことも考えてみたい。


昼過ぎには到着。とりあえずはバス、地下鉄を乗り継いで、宿を目指す。

一カ所、途中下車し、ベルトラムカ(モーツァルト記念館)に立ち寄った。ここはもともと貴族の別荘だったが、しばしばモーツァルトが滞在し、作曲活動に専念したそうだ。プラハは、最も早くからモーツァルトを評価していた都市の一つだった。

  

記念館というわりに、直接にゆかりのある品物はそれほどなく、自筆の譜面の「写し」などが多い。そんな中、二点ほど、ダイレクトに接点のありそうな品があった。モーツァルトが弾いていたというピアノ、そして、モーツァルトの髪!本物なんだろうか。肖像画などでお馴染みの通りの色だった。

 

この辺りはやや郊外であり、それほど観光地化されていない。意外に人口密度が高く、活気のある印象。
屋台で売っていた、ユーロドッグとかいうジャンクフード。フランスパンの真ん中にソーセージが刺さっている。

 

実は、ショパン空港にて、ロストバゲッジ騒動があり、結局乗り継ぐ前に発見されたのだけど、あろうことか鞄が破損されていた。というわけで、旅行保険で補填されるだろうという楽観的な読みのもと、ついでにその辺にあったデパートに立ち寄り、新しい鞄を購入。
どうもフィンランドと違い、シャレにならんほど英語が通じにくい(もちろん旧市街は別だが)。だけど、鞄屋の若い女性が、この鞄のいいところはね、なんていくつかの商品について、中身を開いたりして親切に(チェコ語で)説明してくれた。なんだか少なくとも、取っ付きにくい人たちではなさそうだ、チェコ人。それともただの商売根性か。


宿にチェックインし、荷を軽くしたところで、旧市街の散策に出発。

  

通りを抜けると、視界が開け、目の前に大きな川が横たわる。ヴルダヴァ川、つまりモルダウ川。そこにかかる一本の石橋、カレル橋。そして、向こう岸の丘の上に悠然とそびえるプラハ城。この絶景、鳥肌が立ち、ふっとため息が漏れる。紛れもなく、プラハ観光のハイライトの一つだろう。

モルダウは、てっきり「モルダウ」のクライマックスのところが否応無しに頭に流れ込んでくるような圧倒的な存在感を想像していたけど、意外にひっそりとしていて、静かだった。しかしそれは決して、拍子抜けということではない。むしろ、このずっしり感、安定感が、チェコ国民の心の拠り所となっている所以なのではないかと、そんな勝手な推測を立ててみた。

 

橋の真ん中ほどのところまで歩き、しばし川を眺めてぼーっとした後、引き返した。この先、プラハ城はまた日を改めて。

夕飯。牛肉のグラーシュ。
そして、早速ビール。やはりフィンランドの缶ビールとは、悪いけど次元が違ううまさ。
ちなみにチェコは、一人当たりビール消費量が世界一。そのおかげか、ビールが安い。レストランやバーで注文しても、コーヒー一杯より安い。天国だ。



今日はプラハの春音楽祭の最終日で、チェコフィルの公演があり、当日券を入手できないものかと少しもがいてみたけど、甘くなかった。というか、そもそも、とてもジーパンで入れる雰囲気ではなかった。
代わりになんか面白そうなイベントはないものかとふらふらしていると、そこかしこで音楽会の客引きに声をかけられるけど、あまり惹かれるものがない。

で、結局入ったのが、人形劇オペラ。マリオネットでモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」をやると言う。
この人形劇がチェコの代表的な文化の一つであることは知っていたが、特に事前に興味があったわけでもない。一時間程度の公演だと言うから、どんなもんかいな、という感じで足を踏み入れてみたが、これは予想をはるかに上回る面白さであったと言わねばならない。
陳腐な表現だが、きちんと音楽に合わせて、人形が表情を持つのだ。そして、その人形どうしがうまく絡みを見せる。さらに、何かと芸が細かい(オケピの人形も、曲に合わせて各楽器の人形が違う動きをしたりする)。きちんと笑いも取る(ていうか、ドン・ジョバンニって、原作よく知らないけど、こんなコントみたいな物語なのか)。
ふらっと入ったわりに、なかなか高い満足度だった。

  

そして、帰り際の夜景。

そういや、フィンランドにはスタバがないのだが、ここで二ヶ月ぶりにスタバのコーヒーを飲んだ。
どこに行っても同じ味というのは、アメリカ的だ。プラハでは、やたらマクドナルドが目に付く。このあたり、ちょっと思うところがあったので、気が向いたら改めて書こうと思う。

長い一日だった。