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そっと芸術  郷津晴彦のブログ

アーチスト郷津晴彦。展覧会の案内、『平和な小国』、流木作品、絵や彫刻、写真に小説、漂着物、超芸術トマソンなど。

原子力発電のこと その4

2011-04-05 10:50:54 | 原発
メディアは「原発の安全神話が崩壊した」という決まり文句を繰り返しています。
そう簡単に「安全神話」などという言葉を使わないでもらいたいです。
ほとんどすべての人が絶対的に信じている場合のみ「神話」という比喩が使えるのであって、
「(日本の)原発は安全である」なんて信じていない人は大勢います。
多くの人たちが「原発は危険だ」と言い続けてきたのです。
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原子力発電のこと  その3

2011-04-04 11:22:21 | 原発
原発の「安全基準」を見直そう、より厳しい基準にしよう、という話が具体化してくるでしょう。
世界基準をつくるべきだ、と班目もサルコジも言いだしました。

そのサルコジが来日しました。
この核兵器保有国にして原発大国の大統領のねらいは、自国の技術力の高さをアピールして、世界基準作成の主導権を握り、もって新興国をはじめ世界中のプラント市場で優位に立とう、ということでしょう。
(だのに管さん、「雨の日に来てくれる友人は真の友人である」なんて外交辞令ゆわないでよ。たのむよ。)

しかしどんなに基準を厳しくしたところで、自然現象は人間が「想定」できるものではありません。
地震も津波も「想定」を超えることはあり得えます。(実際、超えました。)
隕石の直撃も、テロや戦争で標的になることも、あり得えます。

「安全基準」は、とどのつまり「確率の低いリスクには目をつぶる」ということでもあります。
そして、原発の場合、それは許されません。

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原子力発電のこと  その2

2011-04-03 15:57:19 | 原発
最近わたしが注目した発言が二つあります。それについて書きます。

政府の原子力安全委員会の班目春樹委員長は、2007年2月の中部電力浜岡原発運転差し止め訴訟で、(非常用発電機が複数同時に機能喪失すれば大変なことになるのではないかと問われ)「そういう事態は想定しない。そこまで想定したら原発はつくれない。割り切らなければ設計はできない」と証言していた人物です。
そしてこの3月22日の参院予算委員会で同氏は、福島第一原発の事故に関し、福島瑞穂の質問に答えて、「割り切らなければ(原発は)設計できないのは事実」「割り切り方が正しくなかった」「事象が想定を超えていた」「想定が悪かった」と答弁しています。
(このやりとりは参議院公式サイトの「審議中継」→「予算委員会」→「過去の審議中継/3月22日/発言者等・福島みずほ」で見られます。)

また元同委員会委員長で現在は原子力安全協会理事長である松浦祥次氏は「何もかもがダメになるといった状況は考えなくてもいいという暗黙の了解があった。隕石の直撃など、何でもかんでも対応できるかと言ったら、それは無理だ」と話したと報道されています。

この二人の発言は率直な発言だと思います。(きわめて重要な発言であるにもかかわらずメディアでの扱いが小さいのが気になりますが。)

つまり、そうしないと設計できないから一定のレベルの事態を想定する。想定以上の事が起こった場合はどうなるかわからない。ということなんです。
設計とはそういうものでしょう。原発に限ったことではありません。
問題は、原発では、想定以上の事が起こった場合、人間が管理できる範囲を超えてしまい、その影響はあまりにも甚大かつ広範囲、また、たちの悪いものになるということです。

私は、今回の地震や津波を超える天変地異も、隕石の直撃さえも想定すべきだと思います。それから、(それらよりも確立は高いであろう)テロ攻撃も想定するべきだと思います。(核兵器などなくても核攻撃はできるわけです。)

結論はひとつしかありません。
原子力発電所はつくってはいけないものである。
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原子力発電のこと  その1

2011-04-02 16:21:30 | 原発
やっぱり原子力は人間が扱うには危険すぎるということが、いよいよはっきりしたと思う。
原発の危険性は多くの研究者、技術者、ジャーナリスト、市民などから、ずっと指摘され警告され続けてきた。
にもかかわらず、その声を無視して、原発は「安全」で「クリーン」なエネルギーだと宣伝し、推進しつづてきた電力会社、国、御用学者らの責任は重い。

事態が可能な限り悪くない方向に終息することを祈るしかない。
同時に、いまこそエネルギー政策をはじめ、どんな生活を、社会を目指すのかを根本から問い直す、人々の議論と行動がもとめられる。
この機会をのがしたらもうチャンスはないかもしれない。
危険な現場で困難な作業にあたっている全ての人たちには充分な敬意が払われなければならない。
しかし彼らの努力が(マスメディアの大好きな)「感動物語」に仕立て上げられることによって、議論や行動が抑制されることのないよう、注視が必要だ。
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