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自分で選択してその力を付けていくには『概念』の手放しが必要ですという話でした
私自身も結婚を機に「感情」の手放しに始まり、
親や義理の親たちの概念の呪縛から逃れるための検証をし出し
世の中の常識の検証までに至り
検証するには理解して納得しないといけません
大きな枠の常識という概念が如何に自分の選択にとって邪魔だという事も知り
それを考えだすと自分の生まれて来た地球や日本という事にも興味が沸き
その地球や日本の歴史や時代も関わって来ているのも知り
真には「正しいも間違いもない」「善いも悪いもない」
「全てオーケーなんだ」という事に至り、それに沿って自分の考えを手放したりバージョンアップしたりして
魂と共に自分を磨いてきたという話です (^.^)
そんな中でも「生きる」とか「死ぬ」といったセンシティブな事でも人生にとってはとても基本で大切な事だと気づき常に考えています
その概念ですら時代の背景や環境状況によって変化してきました
人間が決めてきた事に従い、支配され、翻弄されてきている事ばかり
自分の意見を言えない時代もありました
反対に今の時代は自由も多くなっている
その世の中の概念が崩れつつあるからですよね
そう思ったら支配され、人に従っていた頃もある意味守られていたという事にも気づき、自由になると不安にもなります
だからこそ物事の本質に向き合って、選択して行くチカラが必要となって行くわけです
結婚を機に「気づき」の世界に入って、そのきっかけが宗教問題だったという話はしましたが
それは生きていく上で、それに、人の生活に密接しています
その宗教ですら分裂してその主となる人や教典が人を導いて行くので、その導かれる人も人の考えも分裂していきました
その導く人はそうやって人を導いている事に真に自信を持てるのかも揺らぐ世の中にもなっています
そして今の時代に崩れようとしていて、自分の奥に直繋がって選択して行くチカラをつける時代になっているんですよね
私自身そうやって宗教問題と常に共に考えを構築してきた中で
その「死の世界」もですが、「それに関わる儀式」も共に考えてきました
体験も通してです
宗教、開祖、教祖、宗派、分裂、弾圧、規律、支配、儀式、葬儀、通夜、お墓、仏壇、供養、先祖、先祖供養、法要、こういった事です
全て人間が決めた事
でも物質次元に生まれて生きていると、儀式や形式があると安心してしまうんですよね
そこに委ねたら安心だと思うのと、儀式をしている事で、先祖の世界や死後の世界としっかり繋がって役目を果たしている感覚に安心するんですね
でもその人間が決めた事、すべて「迷信」だと思います
たとえ神様が決めた事でも仏様が決めた事でも、人間が解釈した事です
人間が体験を通して決めた事
「本来」「そもそも」「真実」「本質」を見つめながら体験してきた事を解釈してきた事です
最初の人は体験を通していますが。
我々は、自分なりの考えを持たないまま、向き合わないまま来た事
大人になると、それなりに人の死に遭遇し、葬儀にも参列し、仏教宗教に属していなくてもたくさんの宗派に遭遇します
私は、興味をもちだしたので故人を弔う気持ちもありつつ儀式の内容に興味津々です
その都度、その仏教宗教の宗派の、その分派の僧侶の人格が垣間見れたり、その儀式の違いを知ったり、その教義教典の一部を知ったりしながら
その正しいとか間違いとか批判とかではなく、ただただ違いを知りたいのと種類や知識を知りたいという単純な気持ちです
そうすると本当にそれぞれ様々だという事に気づきます
死んだらおしまいですという僧侶もいました
単純な気持ちでも、疑問や違和感は湧いてきます
疑問や違和感が私の気づきや学びに繋がります
本当にこの方法とかこの宗派で納得しているのか、故人も遺族も何を求めているのか、真意は何に、どこに在るのか
そんな事を考えます
私なら…どうだろうか…とかです
先日、84歳で叔父が亡くなり通夜と告別式に参列してきました
最期4年ぐらい寝たきりで自宅での介護でした
ヘルパーさんや看護師さん、叔母と息子と娘、叔母の妹が交代で看ていました
意識はハッキリしていたのである意味元気でした
我がままで食にもする事にも好き嫌いが多く、リハビリやお薬も拒否したリ周りは大変苦労もしていましたが、お薬をやめた途端元気になったりして、最期は前日まで意識は元気であっけなく老衰で亡くなりました
この人の人生そのものなんだと、家族もやっぱりそれまでの関わりが最期まで現れるんだと
改めて家族の縁ってその家族なりのカタチがあるんだなと思ったのでした
そのお葬式は真言宗で行われていました
今までで初めてでした
耳慣れた御真言に興味が深まり、儀式もこれまで見た事がなく不謹慎かも知れないけど見入ってしまいました
その宗派によりお焼香の仕方も変わり、見送る捉え方も意味も違います
自分達の先祖が選んだ宗派かも知れないけど、昔はその土地土地でも幕府や政府からその土地のお寺も与えられていたもので、それ自体が民衆支配の根本でもありました、そしてそれしか知らないのでそれが正しいものと思い込んでいた
今回のお坊さんは若くて美男、声も良くて読経も素晴らしかった、誠実そうで丁寧で、でも多少冷たそうな流石高野山が本山の弘法大師さんの真言宗で、位にプライドがありそうな姿勢と態度(私の主観ですが (^^;))
キッパリと淡々と答え、言葉少ないところにそんな感じを受けた
叔母や従妹の質問にもキッパリとそれは迷信ですという答えも出ていました
お祀りや法要の事だったけど、「迷信」という言葉を使うんだとビックリしました
迷信だというと、他の宗派で行っている事を否定している様な…
やっぱりそれも在りなんだなと私も自分の考えに確信をもつ根拠ともなりました
お坊さんはさすがに出家して人生かけてその大師と経典に向き合っている、そもそもがその人の今生の生き方です
誰がどうしようと何を求めようと、何を信じようと、その根本を知って、自分で選択して行くのも全然ありなんです
私は自分が死んだときの事を子供らによく話します
今話すと、今何言ってるのと「ハイハイ!」とだけは答えてくれますが、真剣には取り合ってもくれませんが
自分の人生観、死生観、死後の世界観、宇宙観なんかも交えて話し
お母さんの意識は宇宙へ帰りますと (^.^)
肉体はただの炭素、海に散骨してくださいと言っています
平凡だけど親の生き様を知ってもらって、先祖や貴方たちの両親がいないと自分達が存在しないという現実を受け入れてもらって、生まれてこれて、生きているだけでも感謝だという、これだけです
考えを押し付ける事はしませんが私の考えを伝えて先祖代々の宿題とすれば良いのかなと思います
飾りか、その象徴が手元に欲しくて、それが無いと親や先祖と繋がれないようというのなら、何か自分の好きなもので補って下さいと言います
お墓やお仏壇が全てでは無いので、自分たちなりによく考えて下さいと、提言だけはしておくのが親の務めだと思っています (^.^)
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