緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

葛藤編

2021-05-17 | 意識・無意識
  昨日も葛藤の話をしました

肉体で感じる有意識、

自分では気づかない無意識やエネルギー体の無意識部分との関係を綴っています

ずっとこんな話を綴りながらも私自身は自分発信して良いのか間違っているのか…なんて自分の中で考えることはありますが (^_^;)

人に伝えようと思う事も自分の役目や使命だったりと思っているのも確かだし、

人に伝わらなくても良いんだと理解できなくても当たり前かと、そんな人の事も尊重しようと思うのも確かだし

私自身が、自分の考える世界を再認識しながら確かめているのも確かだし

どこかで勉強して習った事を情報として流しているわけでもない自分の体験から導き出された事を発信する事で信念とか哲学に構築しているのも確かで

人生ってどんな事も葛藤しながらというか、自問自答しながら認識しながら前世とか世の中と宇宙とバランスを取っていく事で悟っていく、そのものが生きていると思っているので

日常そのものが悟りの道だと思い

そこのバランスとる事が無意識やエネルギー体と一体化していく事の中で「葛藤」って成長に不可欠だなと思っています

「葛藤」て辞書で調べると、

「もつれ」という意味、葛藤の葛は「かずら」、藤は「ふじ」と読み、どちらも植物のつる草で、絡み合ってなかなか解けないという事から葛藤の語が生まれたとありました

仏語でもあり、正道を妨げる煩悩のたとえ、禅宗では文字言語にとらわれた説明、意味の解きがたい語句や公案、あるいは問答・工夫などとありました

つる草が単にもつれあっていたら外せば良いと思うけど、絡み合っているのを解くのは結構大変です、つるを切らず、花を傷つけず、元のカタチを保ちながらと如何に解くかが本質に繋がりますね

表面的と実際は違うという事です、その中身の心理的葛藤という事ですね

それが自分自身の中で起きているという事です

私は子育ての時にその「葛藤」を常々感じていました

もちろん最初は親の言う事を子供は聴くのが当たり前だと思っていたり、我が子を思う気持ちを子供は何故わからないんだと思っていたりして、あーだこーだと言っていましたが

たまたま最初の子の長女は、独立心が早くから強く、口答えもせず、反抗せず、だけど、自分の意思を曲げず、はい!って答えるけど分かっているのか分からないのかが分からない反応で、思う反応が返ってきた事がありませんでした

口答えしたらまたその上を行って怒れるけどって感じやけど、私の怒りをどこへ持って行ったら良いか分からなくて初めから自分の中で悶々としていました

そのうちに何に怒っているのか分からなくなり、子供の反応が無い事に怒っていると気づいたんです

「分かってるの?分からないの?どっちか言いなさい!」なんて言って

そのうちに自分の怒りが自分の感情だと気づき、怒る事が虚しく感じ、

自分の気持ちが伝わってるのか伝わっていないのかがイライラしていたのが分かった

でもよくよく考えると、子供の気持ちも理解してないのにこっちの気持ちが伝わるわけないと思い、子供と自分の考えが違うんじゃないかと思うようになり

先ずは落ち着こう、先ずはお互いの考えや思いを理解しよう、怒る事のしんどさを分かり怒らない人間になろうと自分の中で決めて子供と付き合うよう努めました

後に、多分神様は私にこんな事を気づかせようとこの長女を与えてくれたんだと思うようになりました

もちろん一度に納得した訳ではなく、子供達と向き合う事で、いろんな思いや考えのくい違いに遭遇し、

その度に自分の中で葛藤している事に気づいて行きました

そして最初は子供とのくい違い、外(他人)とのくい違いだと思っていた事も

それが過ぎると自分の中でのくい違いに進んでいくんだと感じだしました

例えば

うちの長女はメチャ寝るんです(小さい時から就職するようになってまで)

早く寝るんですよ(子供の頃は20時半にはお布団の中に入れる段取りで育てていました)

起こすのが大変でした、一度や二度起こしたぐらいでは起きません

大きな声で「起きなさいよ~」って部屋に向かって叫んでも「は~い」って返事しながら寝るんです

何回も「は~い」って何とも柔らかい返事で!!

私はその間、起きてきて顔洗ってちゃんとご飯を食べれる時間を測りながらピッタリのタイミングでパンも焼けれる準備でやろうとしているけど、中々上手くいかない事に段々イライラしてくるんですよね

何度も起こし、部屋まで行って起こし、いろいろ試し、目覚ましもいろいろ買ったり、あーでもないこうでもないと根気よくやり続けました

友達には、そんなん一回起こしたら、ずーっと起こしてやらなあかんよ!そうやっとけば良いねんとか言われて

あ~私のせいかなって考えるようになり

もう起こすの止めよう!、遅刻したって良いやん!、子供の気づきやん!困るのは子供自身やんって思いながら、起こすの止めたりするんですが

そうしながらも遅刻して迷惑かけたらどうしよう、遅刻したら皆勤賞も駄目になるやん…子育てが間違っていたのかなとかって

それに起こさなくなると、子供はどうして起こしてくれないのって、起こしてもらっていた事も忘れ起こしてくれない母親しか知らなくなると、「昔はちゃんと起こしてたんよ」と自分の思いを分かって欲しいと思うようになったりして自己承認欲求が強くなったりして行きます

私は子育てや夫婦と過ごす中で「やめる努力」という事に取り組むようにして行きました

まあこれは私自身の自立や自律、自尊心や人も尊重するといった事に結び付けて行ったんです

自分が過干渉になり過ぎかもって思い出したからですが

止めたら止めたで自分の中で葛藤が始まったんです

その承認欲求が認識してもらえないという葛藤です

止めたら止めた理由なんて人には伝わらないし、止めた後の姿は気の緩みかサボりでしかないと思われそうで

その過程を分かってもらえないという葛藤です

誰もそんな事はどうでもいいと思うやろうに

自分で自分が許せない葛藤です

どんどんと、子供との表面的な葛藤から自分の中での葛藤に変化して行った事に気づいて行きました

その、自分で自分を赦せない葛藤については気づいただけに手放す事に苦労しました

だから人の事でも行き場のない気持ちがどこにあるのかが分かってしまう

とでも言いましょうか (^_^;)

昔からよく言われますよね「神様はちゃんと見てくれているよ」「神様は解っているよ」なんて

仕事場でも、主婦の仕事でも、人の見えないところでの努力を分かってもらいたいと思う葛藤が表面的に出てきた時なんかによく思う

人や物事への葛藤もあれば見えない自分との葛藤

昔は食器棚の中まで一つひとつ出して掃除したり、拭いたりしていたけど、誰にも気づいてもらえない仕事程そう思ったり

人の心理や深層心理は自分自身の「葛藤」で、自分が認識し、自分が理解し、自分自身を褒め讃え、自分に敬意をはらう事が終着点なのかなって

人との葛藤や出来事への葛藤も最終は自分の中での葛藤へ向かいだす

その先には成長があり、終わりがある…よね (^.^)




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