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緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

あとりえ "ぽみえ"

∞美容室です・・・完全予約制でマンツーマンでの完全技術∞ しっかりお話を聞き、丁寧な美容技術を提供させていただきます∞ 10:00~15:00(当日予約・時間外OK)不定休・・・ ★カット★カラー★パーマ★セット★着付けets.   ★スピリチュアルな会話もセッションもオーケーです ★

唱えている事がステレオタイプにハメているかも。

2024-04-25 | 意識・無意識
  ステレオタイプって話をしていましたが、
個性もそうだけど、性格とかもそうだけど、
色んな人生のシーンにも当てはめてしまっている場合が多いという。

昨日にも話したうちで、年取ればこんなヘアスタイル、
こんな服の色みたいな事だったり。
個人で切り取るだけでなく、年齢や時代で切り取る的な。
個人だけでなく、社会で観てみると……、的な。
それが段々というか、既に崩壊しているという。

そんな崩壊が起きているという話もしました。
崩壊していると言っても、それを捉えてすぐに変えられる人は中々いません。
周りの変化が付いて行っていないからです。

直ぐに自分が間違いだとか、自分が悪いんだとかと思いこんで、抜けられないからです。
それで良いんだよと自分で自分に言い聞かせても、孤独に耐えられなくなるんです。

不安にもなるし、心配にもなるし、それが深くなると恐怖心も沸いてくる。
孤独にどれだけ耐えれるか、
孤独をどれだけ楽しめるか。

その孤独をその域まで持って行って、って、感じですね (^.^)
サーフィンでもしている感じ!
大きな海で一人でサーフィンして乗ってる波にでも自分一人で乗り越えその波に乗り、次の波にまた控える。
それが朝なのか昼なのか夜なのかでも変わりますよね。

思い出すと、私がスキーしていた時、めちゃ下手くそで怖がりだったので、
三つギャップを超えたらすぐ止まってしまうし、諦めちゃうヘタレでした。

この諦め癖は自分で自分を型にハメては駄目だと直ぐ諦めるという性格でした。
まあ今でもそんな型にハメる事が残っているけど、
そんな時に自分で自分が観えてしまうので、
葛藤したり、勇気出したり、ただ勢いだけに頼ったりとしている私。

人生や年代や時代で切り取ったステレオタイプに自身で囚われたり、拘ったり、ハメ込んだりしているという話ですが。

病気もそうだったり、痛みもそうだけど。
今の時代なら政治家の責任もあるのか、お金や年金話もそうです。
年取ったらどう暮らしていくか、
どれぐらいのお金が必要か、
年金だけで暮らして行かないといけないか、

勿論、お金は実質的に必要だろうけど、
お金がないと暮らしていけないかも知れないけど、
ホントそうだろうか、
それも時代の型にハメているかも知れない。

それに惑わされている人は、それまでに病気や痛みで不安になっているからそうなって行ったかもしれない。
その前に病気や痛みと向き合う事はしたのか、
お薬代や病院代をこれから人生で使うと決めてハメ込んでいるのは自分かも知れないのに。

型にハマった自分の心は変えようとしないし、はみ出そうとしないのに。
と言う昨日のうちの母親の話のような矛盾と同じだろうと思うのです。

年だから病気になる、年だからどこか痛みがでる。
どこか悪くならないと死ねない、いつかは病院に入院しないと死ねない。
こんな事を言ってる人もいた。
でもその病気や痛みに向き合おうとする人は少ない。

お医者さんに行って言うなりになる依存症。
自分が孤独に不安になるのが怖いから、
自分が引き寄せられる型にハメようとしているのは自分なのかも知れないのに。

嘘でも良いから自分が思う人生を毎日唱えて暮らすのはどうでしょう。
それも良いかも知れない、自分の意識を変えるには。

よく、S学会の信者さんは、毎朝の勤行でお願いすると叶うのよと言ってた。
それは、神様や教祖様が飼えてくれるご利益なんかではない、
毎日自分が唱えているから意識が変わって行っただけです。

ある時代には唱えるという宗教の時代もありました。
融通念仏教、観音経も、何ならお経そのものはそういう事です。

毎日そういう生き方をしますと自分自身で唱えているのです。
その内容と違う生き方をしてたらそりゃ違和も出てくるし狂うの当たり前でしょう。

自分らしく生きるために、望み通りの念仏を唱えてみて、
それが型にハマらなくても自信が持てるように生きて行けばそれでいい。
文句や愚痴ばかり行ってる人生ならそんな型にハマってしまうという事なんでしょう。

これがステレオタイプの時代崩壊の次のステージですよね。



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ステレオタイプも都合によって?

2024-04-24 | 意識・無意識
ステレオタイプという話をしましたが、
「型にハマる」とか、「どれをとっても同じ」
そんな事に反抗しながらも自分らしくを求めている私だと。
それを強く常に思っているのかな
だからそうじゃ無い人を観ると何だか違和感を感じるんでしょう。
今はちょっと違うけど、昔ならイライラしてたような!!

半世紀過ぎて初めて人間は個を知るために生まれて来たと知り、
そのイライラの原因を知ってホッとした事を覚えています。
その後イライラすることも無くなりました。

こうだからとかこうしないといけないとか、
タラレバ的な事が大嫌いなのにそうしていた自分が嫌いだったと。
ハマるのも嫌いだけど、ハメるのも嫌いだったんですね。

最近私も年をとっていくにつれて、母親でもそうですが、
自分と共にまわりにそんな高齢者が多くなって行っている中で特に思う事が。

うちの母親との因縁ともいえるんでしょうね、同じような苦手があったり、
鏡であったり、真反対であったり、その中で反抗しながら学んできたなと。

そんな母もよく言います。
まだそんなもの(杖や押し車)を使う年じゃない、
まだそんな仲間(老人センター)に入る年じゃない、
まだそんな服着ない、まだそんなヘアスタイルにしないと。
年取ったら服はグレーとか茶色、ヘアは後ろ刈り上げぐらい短くなんていうのは高齢者の象徴だと。

でもそんな事を言いながらどこかが痛いとか、ちょっと病気になったらもう年だからという。

そんな言葉の時には年齢にハメる。
そんな都合が悪い時にはハマったら安心感があるのか。
そう言いたい気持ちは分かるし、寄り添いたいとも思うけど、
そんな矛盾な言葉が大嫌いです。
都合よく自分の意識を型にハメる。
それにずっと浸っていてそこから脱出しようとしない事にモヤモヤしてしまうんでしょうね。
他人なら放っておきますが、自分と同じ目標持とうとする縁のある親だから感情的になるんだと。

まあ今となってはそんな母でもそのままで良いんじゃないかと、本人の望むところを尊重しますが。
意外と多いそんな人たち。

どっちかに統一しないのも嫌だけど、勝手にハマったり、ハメ込んだり。
自分が観えていないのがどうなのって?思ってしまう。

尊重もするけど、成長もして脱出もして欲しい。
人間の意識に対して自分にもだけど、
尊重もするけど願いもする。
これもまだ期待なのか、期待はエネルギーを削がれるし、消耗するのでしないでおこうと思うけど、つい人間の成長を観てしまう (-_-)

型にハマったステレオタイプな人間ばかりにならんように、
良い意識が個性いっぱい広がるように、
祈りたい (^.^)

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自分を棚に上げていて起こる事。

2024-04-18 | 意識・無意識
  思考癖から当たり前になり、無意識化していくというはなしをしていますが、
そこから言葉や行動にも癖が出てきて、
その中には自分の歪みや傾きや偏りの影響から肉体の状態にも症状として出ているという話でもありました。


それには捉え方や受け止め方の癖にも注意し、
ヒントとして受け止めてみるという。
それを素直にフラットにして自身を俯瞰してみると良い、という話 (*^^*)


よく人を観察洞察していると自身を棚に上げて、という人をよく見るのですが。
勿論そんな人を観た時や出くわした時には私自身も我振り返ってみることはするのです。
それで、自分の事を考察して、自分の事なのか他人の事なのかをしっかり分析しながら双方の深層心理というより潜在意識を知るようにしています。


そんな中でも自分を棚に上げている人に限ってそんな言葉を耳にするのが苦手だと見受けられます。
自分を俯瞰するのも避けたいし、自分を知る事からも逃げている人が多い。
まあ私の認識の中で一概には言えませんが。


大概、どこかに痛みを抱えているとか、眼や耳を閉ざしているとか、血液疾患やリュウマチなど、表面に現れにくい自分の中に潜めている症状に出てたりします。
知らないうち気づかないうちにひそめている(秘めている)。
知らないうちに壁を造ったり、ガードしていたり、循環が苦手な感じ。
人には厳しく言うけど、自分は何でもええやんという!
大概人に厳しい人は自分に厳しいっていう事が分かっていない。
自分の事を棚に上げて、自分を痛めつけている事に気づかない。


自分の事、俯瞰?そんなん知らんわ!という。
自分と対話?それ何?という感じです。


双方に対立の出来事が起きた時、喧嘩などになったとして、
人と同じものを観て、価値観が違うと必ず対立は起こるでしょう。
でももう関わりたくないとしても自分の脳裏に残るのでいつまでも自分が悔しい。
その人がもしも腹立った時にでも、出来事は共有で起こります。
見ているものは同じで捉えている物事は同じでも、見方や捉え方は違います。
そこには感情の行き違いが起こります。
その人の事を認めなあかん、受け入れてあげなあかんと言いながら一生懸命に蓋をしようとします。


そんな時に人の事をどうのこうのいう前に、自分を棚に上げる前に。
自分がその出来事をどう観ているのか、どう感じているのかも俯瞰してみるのです。


どちらが正しいとか間違いとか、受け入れるとか拒否るとかの前に、
自分の感情を知る方が大切です。


その思考癖、受け止め癖も病気の要因だと言っているのです。


まあ私のこんな言葉なんかも受け入れる必要だって本当はどうでも良いかも知れないけど、
自分を俯瞰してみるという事や
出来事が起こっている事は全てが自分の必然だと考えてみる事


これは真実かなと (^^;)


たまたまここのところ、そんな話で盛り上がってたもんで (^^;)
哲学してみました !(^^)!

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受け取る思考癖もある。

2024-04-17 | 意識・無意識
    思考癖という話を数日以来していました、途中違う話もはさみましたが (^^;)

普段からの思考、思いとか考えている事が癖になり当たり前になり、無意識化し、自分発信の言葉や行動が自分の価値観の世界のまま無意識化されるという話。

たまには自分を俯瞰してみる癖や人の話しや考えも素直に受け取ってみるのも大切だよという話。

何でも当たり前になったり、無意識化していると自分に気づかず、よく言うところの自分を棚に上げてという事にも気づかずにいるという。
私のまわりにも多いです。
それを他人の私から見ればすんなり分かります。
だからこそ私はどうかなって不安になったりするので、
人からあなたはこうだよとか言われるのが意外と好きだったりするのです。

昔からそんな感じで、言われたりした時に嫌な事でも怒らなかった。
そうなんだと落ち込むことも多かったし、傷ついた。
自尊心も無かったし、自己肯定感低かったからだろう。
まあそれも後には傷つく事だと知ったし、それはある意味自分で自分を擁護できないで自分が自分を傷つけている事でもあると気づいた私は、言われた事でも自分でしっかり考えようとしました。

そう発した方の状況や思いや考えを考察して、何でそう思われるのか、何でそう見えるのかと。
自分が傷付く事がありたり前にならないでいようと思ったからです。
相手の思い込みかも知れないし、勘違いかも知れないし、妬みや嫉みやひがみかも知れない。
そんな事に振り回される自分も自分を傷つけるし。
一旦自分の中の思い込みや先入観やすべての当たり前を外さないと相手の事でも分からない。
常に自分の気持ちや考えは対峙する時点でフラットでありたい。

自尊心が無いのも自己肯定感が低いのも自分の責任ではないかも知れないし、そう育ったトラウマかも知れないけど、それにも気づかず、そのまま生きている自分でもあったのは間違いない。
そう生きている自分自体が自分で自分を傷つけているのかなと思ったりした。

そう思えるようになると、余計に自分を棚に上げてッという人に敏感になって行った。
自由にモノ申す人が悪い人などとは思わない。
ある意味憧れでもあったので。

でもギャップが見えると辛そうだな苦しそうだなと思うのはある。
魂とのバランスのギャップが感じられる。

自分の世界感を自信持ってるのだろうけどそれを堂々と発するのと受け止める世界が低いのとバランスが取れていないとしんどそう!!

その人はそうも感じていないけど、肉体にきっと現れる。
現に表れている。
この現に表れているって言葉にも現れているように、それが表現でもある。
その人の言葉、その人の行動、その人の身体の表現。
それは痛みだったり、病気だったりするのかなと。

生活習慣病もその一つかなと。
普段の自分の当たり前や価値観や無意識化。

「発する」という癖や当たり前や無意識化もだけど、
受け取り方、捉え方も癖になっている思考癖の一つでしょう。

よく使われて、よく聴く事の中では、コップの水。
残り少ない水を、「もうこれだけしかない」というのと、「まだこれだけある」という。
時間で言うと、「後30分しかない」というのと、「まだ30分ある」

これも癖になって当たり前になっていると無意識にそう受け取っている事にも気づかない。
そうすると次の行動が変わっている事にも気づかない。

私もマイナス思考だったので、「でも」「だって」などとよく使っていた。
ある時から気づけば直すようにしたりした。

言葉もそうですが、
以前も話していますが、
情報社会で、情報というのはテレビやSNSから入って来る者だけが情報ではないという。

普段の眼や耳から普通に流れ込んでいるのです。
朝に目覚めた瞬間から光の強弱も、外からの物音も。
自分が心地よく思っているもの、不快に思っている事、無意識なものでもです。
それに対しての価値観、当たり前に決めつけている事。

思考が働く前に脳に入ってきています。
その脳に思考癖があったらどうでしょう。
捉え方の癖です。
ただ入れている事でいっぱいになっている事もあるでしょう。

人と接している時でも、映像の中からの人を観ている時でも。
全てに思考癖などないと思っている自分でも嫌いだと思い込んでいるかも知れないし、大事だと思い込んでるかもしれない。

今、高齢なってからの眼や耳の症状に白内障、緑内障、難聴などもありますが、
白内障はレンズが曇る事、緑内障は視野が狭まる事、難聴は聴きづらくなる事、
それを心と繋げてみればどんな表現であるか、
私は哲学ってみたりしています。
自分でも幼い頃から視力が弱く、乱視が強かったのでそれを哲学するようにです。
どうして自分はそうなんだろう、何故それが必要だったのかと考える様にです。

レンズを曇らせてまで見たくないのか、見せたくないのか、もっと奥の本質をみろと言ってるのか、物の本質をみるレンズを磨けと言われているのか。

視野が狭いとはどういうことか、思考の視野か、心の視野か、受け止め方の視野か。

聴きたくないのか、聞こえなくしているのか、聴く事とはどういうことか、心の耳は使っているのか、

これはきっと両親とのトラウマや学びなども環境で作用していますが、
魂の課題でもあるので、
自分がそうしているのか、
神様がそうしてくれているのか。
今生の命の期限までに達成したい真の目的なのか。

こんな事でも思考癖により当たり前になったり無意識化している事ってたくさんあると思います。
何か気づくきっかけが与えられた時にはチャンスです。
それを哲学するだけだと思っています。

あ~だから私も人から言われた時がどこか何か傷ついているにしても嬉しかったんだと思えたんかなと、今ではそう思う。

人間今生の命が無くなるまで何かしら気づきはあります。
気づかなければ終わりません。
ボーっと生きて平安だとしてもそれに気づいたら次のステージがあるように (*^^*)


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思考脳には笑い脳にするのも良いかも

2024-04-13 | 意識・無意識
  思考が挟まると直感の行動が出来ないという話でもありました!!
そんな事分かってるよと言いながらでも、
その思考は普段から同じように使っていると当たり前になり、無意識化し、知らず知らずに思考脳になっていくと話でもありました (^.^)
思考の答えを出さないまま整理できないまま絡みまくっていくという。

いつしか自分は直感で生きていると言いながらも自分の思考の制限がかかっている場合もあるのですと。
自身の思考が自身の価値観になりますので、そんな生き方をしてしまうという。
なので、如何に自身を俯瞰できるか、そして素直力という事ですねと (^.^)

思考が間に挟まると心まで固まってしまったり、緊張したりする。
思考が邪魔をするんですね。

私もお笑いが好きで、漫才、新喜劇、ドリフなんかで育ち、ずっとお腹抱えて大笑いで転げまくってましたと話しましたが (^^;)

何も考えてなかったんですよね。
勉強も嫌いだしという話もしましたが、
好きな事だけしてればいいやという話。
まあそんな平和な家庭に育ったんだと思います。
親の世界観の中にいた時はそれなりに幸せだったんですね。
認めてもらえてなくても褒めてもらえてなくても、無難に親の機嫌を損ねなければ平和でした。

仕事し出して、結婚して、カルチャーショックがいっぱいあって脳がいっぱい考えないといけなくなったんです。
それはそれで、認めてもらえることばかりが出て来たので必死に頑張りました!!
自分がやる事に責任が出てくることが増えたからでもある。

幼い頃から育った心や深層心理で、怖がりで心配性で不安症、緊張症、ビビり、完璧を求め期待に応えるとかの心が根底にあったので、失敗しないように嫌がれないようにと、常に緊張していたと思います。
親の顔色見たりしてね。

そのための思考がどんどん働きだした。
そうなると、直感というよりほぼ思考脳で生きていたかも!!

ある子育てが落ち着いた時に美容師の友達から講習や飲み会に誘われ出した頃、自分の好きな服のカラーやデザインもすっかり忘れていたのもそういう事だと。

大袈裟に笑っていた自分も笑いまで制限したり、
好き嫌いが出て来たりしてね、

直ぐ直結して笑えたら面白いし楽しいのに!!
馬鹿笑いして!!
そんな風に俯瞰して自分を見ている私もいた!!
その時には気づかなかったけど、きっとその思考脳のせい!!

最近ウクレレやキャンプ仲間といて、
何も考えなくて良くて、他愛もない話をして常に笑ってる。
それでこんなにも笑えるって楽しいって思い出したように思う。
先日も言ったようにお酒の席もそうだけど。

脳の普段の緊張を解くのが一番ですね
普段から笑っていると一番良いように思います。
そういえば笑いの教室も癌にも効くってありましたね。
プロレスの浜口親子の笑いとかも。
その笑いでいつもの癖ついた当たり前に無意識化したのを意識しながら思考を外して解いていくのも正解の一つでしょう。

一人で家で出来るかは分からんけど (^^;)
お笑いのYouTube見たりしてね!!
やってみようかな (^.^)
それかカラオケで思いっきり大きな声で歌うかでしょうね (^.^)
早くそれをソロで行けたらって言うてから20年は経ってますが、それが出来ない思考を解かないとアカンかな (^^;)




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