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寮管理人の呟き

続・備後福山藩の御仕置場跡

水野家時代福山城下絵地図(現在はリム2F・セリア近くに展示)の最大の見所は實相寺の北西の方角に示された仕置場である。城と榎(木)峠との位置関係については学術論文の簡略図や地元の古老からの聞き取りで大まかに推測するしかなかったが、この地図は備陽六郡志の記述を裏付ける証拠であり近世警察の業績などを研究する人は必見だ。

地図(拡大)

榎木峠 磔塲、壹反四畝 除地
火屋
千人壼、火屋の上に有、寛文三年丙午、飢饉にて吉津龍興寺の前 大河と深津用水溝との間藪也、昔ハ平地也 に小屋を掛、大釜を七つ居、施行を行せらる此時の死骸を捨けるより行倒者を捨幷斬罪の塲となりける也。

寛文三年(1663)の干支は癸卯(みずのとう)が正しく、丙午では同六年となるが、いずれにせよ深津村の御仕置場が奈良津村に移されたのは17世紀の半ば頃だと分かる。久々に實相寺前から吉津の坂を上り旧奈良津村池田を目指した。道路脇に安置された合掌地蔵の上に見えるのが延命地蔵堂である。

坂

坂2

団地

私は団地の中に入って鼻毛を引っこ抜き「極悪人が野放し状態になっている現代は江戸期より酷いかもしれんな。屑どもの御仕置はそろそろ始まりそうだが…」と呟いた。そして己の分身に息を吹きかけると強風が巻き起こり忌み地の方へ飛んで行った。今時罪人の亡骸を埋めた千人壺の跡に手を合わせる者は私くらいだろう(笑)

団地2

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