
JR呉線・汐入川踏切を越えて右折し三井金属鉱業の脇道に入る。塩町という名は塩浜(塩田)跡地にちなむ。現在の竹原駅(※)周辺および南側には忠海駅のそれと同じく塩田が広がっていたのである。
竹原塩田の沿革(廃田)
竹原に塩田が開かれたのは、いまから凡そ三〇〇年まえの応安三年(一六五〇)である。はじめは塩浜の軒数も三一軒であつたが、四、五年の間に八七軒に増加し、畝数も六〇町歩におよぶ大規模なものとなり、江戸時代を通じて播州赤穂とともに瀬戸内海屈指の塩田として知られた。やがて三都(大阪・京都・江戸)をはじめとする都市生活の発展は塩の需要を増大し、竹原塩は全国的に供給され、その良質を誇つた。延宝八年(一六八〇)に赤穂塩の桝目が竹原枡に統一されたことは、当時全国市場における竹原塩の占める地位をうかがうことができる。
『芸南風土記 / 芸南新聞社(昭和三十六年五月五日発行)』
※著者注…昭和7年(1932)7月10日、三呉線の停車駅として開業

竹原塩田の沿革(廃田)
竹原に塩田が開かれたのは、いまから凡そ三〇〇年まえの応安三年(一六五〇)である。はじめは塩浜の軒数も三一軒であつたが、四、五年の間に八七軒に増加し、畝数も六〇町歩におよぶ大規模なものとなり、江戸時代を通じて播州赤穂とともに瀬戸内海屈指の塩田として知られた。やがて三都(大阪・京都・江戸)をはじめとする都市生活の発展は塩の需要を増大し、竹原塩は全国的に供給され、その良質を誇つた。延宝八年(一六八〇)に赤穂塩の桝目が竹原枡に統一されたことは、当時全国市場における竹原塩の占める地位をうかがうことができる。
『芸南風土記 / 芸南新聞社(昭和三十六年五月五日発行)』
※著者注…昭和7年(1932)7月10日、三呉線の停車駅として開業

