「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

覚照寺(宮床伊達家の廟1)

2015年05月19日 | 日記
宮床にある「覚照寺」は、寛文6年(1666)宮床伊達家の初代領主の伊達宗房公が生母のために建立し、はじめ「慶雲寺」と称したが、宗房の長子で伊達藩の五代藩主となった伊達吉村公が、その後「覚照寺」として建立したものである。
境内には宮床伊達氏累代の墓があり「宮床伊達の御廟」と現在に至っている。
墓所は時の経過等に沿って3つの区画に配置されている。
 1.初代領主宗房公の墓と関わりの深い方々の墓
 2.2代目以後の領主と取り巻く方々の墓(伊達家廟)
 3.宗房公の正室法林院の墓
である。

それぞれの墓所の位置は次の「案内図」のとおりである。



現在は、参道とは別に墓所への太い道が整備され、入口には「臨済宗妙心寺派大義山覚照寺」と刻した大きな門碑が建てられている。



また、要所要所に各墓所への案内柱が立っている。



本堂の左手の山道を登っていくと初代宗房公の墓と2代目以降の墓(伊達家廟)への案内柱がある。



右の急な坂を登って大きく右に曲がった所、この山の一番高い所に「宗房公に掛る案内版」が立っている。



その正面に大きな石塔が2つ並んでいる。



向って左には「伊達宗房之墓」(覚照院殿)とあり、右側の塔には「伊達宗房室片倉氏之墓」(貞樹院殿=継室まつ)とある。

宗房公夫妻の墓碑であるが、どちらも明治初年に取り壊され、この碑は後に再建されたものとのことであった。

説明板を通り過ぎたところに小石で囲まれた法輪塔風の古風な石塔があった。



この碑「宗房公の実母(慶雲院殿)」の墓碑で、この墓所で最も古いものある。
(慶雲院殿は龍ヶ崎出身の山戸氏、二代藩主忠宗の側室でここ大和町宮床に宗房とともに移り住んだ)

その斜め後ろに2つの石塔があった。



左には「法源院殿…大姉」と右には「円明院殿龍領妙珠大姉」と刻されていた。


次に、「伊達家廟所」の方へ回って見ることとする。