根白石から国道457号線を大和町方面に進むと宮床の集落の入口付近の左手に「龍巌寺」の案内板がある。
そこを左折して300メートル位のところに「龍巌寺」の参道入り口がある。
参道の200メートル位先に寺の登り石段があるが、その前にこの寺の沿革などを記した案内板がある。
この寺は、角田館主の田手式部宗時が天正5年(1575)に開基したとしている。
その後、寛永18年(1641)田手備前高実(田手宗実の子)が、田手宗実の菩提寺であった柴田郡小泉(村田)の「祥光寺」を再興し、伊達宗高の菩提寺「龍島院」の末寺として、寺号を「龍巌寺」に改め、田手家の菩提寺とした。
その後も、田手家の世継ぎの変遷に伴って寺の場所が移され、享保8年(1723)に伊達村興(宮床伊達3代目)により川崎から現在地宮床に移されたということである。
宮床伊達家の初代当主「伊達宗房」の正室「法林院」が田手家の嫡女で、宗房が田手家の婿養子となって一時家督を継いだことなどから、宗房や代々の当主が、その後断絶した田手家の菩提寺に目を掛けたのではないか思われ、宮床伊達一族の篤実な思いを感じるところがあった。
この寺には田手高実の廟所があり、入口に大和町の文化財指定の木柱が建てられている。、
また、宮床出身の歌人「原阿佐緒」の墓のもあるという。
古い石積みの階段を登ると山門がある。
山門は質素な造りで「西河山龍巌寺」の表札が掲げられていた。
境内はそれほど広くはなく、本堂は白壁のこじんまりとした建物で屋根の大棟には伊達の紋が輝いていた。
本堂の正面に達筆の寺名と思われる扁額が掲げられていた。
参道入口の右側には「馬頭観世音」の石碑が2基立っていた。
建立時期は文久3年(1863)と比較的新しいものであった。
そこを左折して300メートル位のところに「龍巌寺」の参道入り口がある。
参道の200メートル位先に寺の登り石段があるが、その前にこの寺の沿革などを記した案内板がある。
この寺は、角田館主の田手式部宗時が天正5年(1575)に開基したとしている。
その後、寛永18年(1641)田手備前高実(田手宗実の子)が、田手宗実の菩提寺であった柴田郡小泉(村田)の「祥光寺」を再興し、伊達宗高の菩提寺「龍島院」の末寺として、寺号を「龍巌寺」に改め、田手家の菩提寺とした。
その後も、田手家の世継ぎの変遷に伴って寺の場所が移され、享保8年(1723)に伊達村興(宮床伊達3代目)により川崎から現在地宮床に移されたということである。
宮床伊達家の初代当主「伊達宗房」の正室「法林院」が田手家の嫡女で、宗房が田手家の婿養子となって一時家督を継いだことなどから、宗房や代々の当主が、その後断絶した田手家の菩提寺に目を掛けたのではないか思われ、宮床伊達一族の篤実な思いを感じるところがあった。
この寺には田手高実の廟所があり、入口に大和町の文化財指定の木柱が建てられている。、
また、宮床出身の歌人「原阿佐緒」の墓のもあるという。
古い石積みの階段を登ると山門がある。
山門は質素な造りで「西河山龍巌寺」の表札が掲げられていた。
境内はそれほど広くはなく、本堂は白壁のこじんまりとした建物で屋根の大棟には伊達の紋が輝いていた。
本堂の正面に達筆の寺名と思われる扁額が掲げられていた。
参道入口の右側には「馬頭観世音」の石碑が2基立っていた。
建立時期は文久3年(1863)と比較的新しいものであった。