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中江藤樹記念館

2010-05-22 21:25:23 | 博物館

 中江藤樹記念館を訪れた
 近江の偉人と言うことだがイマひとつ業績なり思想などわからない方である。しかしいきなりの中国庭園(陽明園)にはおどろいた。奇石と龍に囲まれた色鮮やかな東屋 (-_-)ウームここは一体どこやねん。しかしこの庭園の名前は「陽明園」なるほどきっと彼は陽明学者だったのだ。しかし陽明学者の記念館に中国庭園なら、フランス哲学者の記念館にはエッフェル塔か??ちょっと奇異な感もあるアプローチであります。藤樹記念館で彼の生い立ちから業績について学びました。生い立ちはちょっと複雑で、安曇川で農民の子として9歳まで過ごすが、9歳で武士の祖父に跡継ぎとして引き取られるとあります。(-_-)ウームこれはいわいる鬼平犯科帳の長谷川平蔵と同じではないですか。つまり彼はたぶん庶子だったのですね。ところが当時のこと、跡継ぎが絶えて彼に白羽の矢が立ったのでしょうねえ。そして米子に引き取られるが、藩の転封により四国の大洲で成長するのです、学問も得意で最初は朱子学を学ぶが、途中から陽明学に傾倒したとあります。陽明学は幕府にとって正統な学問朱子学の何よりも秩序を重んじる考えと全く反対の立場 知行合一! つまり正しいと思ったことはすぐ実行しなくてはならないという思想です。養子にもらわれてからの藤樹が母のアカギレを聞いて取るものも取り敢えず駆け付けると「学問を途中で放り出してどういう事だ」と逆に叱られ、家の中にも上げてもらえなかったとか。それが戦前の尋常小学校の教科書には美談として載っていたそうです。
 結局母への思いが断ち切れず、なんと脱藩して安曇川に帰ってきたとか。脱藩と聞いても、どうも現代の我々は辞職ぐらいにしか思わなかったけれども、それが実は武士にとっての大罪であることは、吉田松陰や坂本龍馬の例から理解できますねえ。そしてなんとか村人を相手に私塾を開き「近江聖人」と呼ばれるようになるのですが、折角門人たちの努力で立派な塾の建物が完成した直後に彼は病没してしまうのです・・。しかしこれがそこで終わってしまわずに現在も藤樹院や墓所の手入れが集落の方たちの手で行われているのはすごい事ですね。

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