たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

近代化遺跡一斉公開2011

2011-10-20 | ぶらり盛岡
歴史的建造物

盛岡市は近代化遺産の日(10月20日)に合わせ、全国近代化遺産活用連絡協議会の全国一斉公開事業の一環として、旧石井県令私邸、旧盛岡銀行本店本館、旧第九十銀行本店本館の3施設を市内の近代化遺産として公開し、各施設を案内している。

① 旧石井県令私邸
第2代目県令(現在の県知事)石井省一郎の私邸で、 明治17の大火による自宅罹災と、移転新築された盛岡監獄署服役者の煉瓦製造および組積労務との関連から、明治19年頃の建築と指定され、市内でも最も古い洋風建築になる。地階、屋根裏部屋のある簡素なヨーロッパ民家風の建造物で主要構造はイギリス積煉瓦組積造です。外壁には煉瓦の積出バンドが施され、寄棟屋根の南・北にドーマー窓、西・南面に煙突があります。内部は、床が広巾の寄木貼、腰壁は板張り、壁と天井は漆喰塗、一部木製の飾り天井、換気口には木製透かし彫りの装飾が施されている。各室に暖炉を配しており、一部はオランダ産のタイルが用いられている。この建物は、下の橋(しものはし)から歩いて数分の所にあります。








旧石井県令私邸




② 旧盛岡銀行本店本館
岩手銀行旧本店本館は,1911年(明治44年)に3年の歳月を要して旧盛岡銀行本館行舎として竣工されました。1984年(昭和59年)の岩手銀行本店新社屋完成に伴い,中ノ橋支店となり,現在に至ります。
設計は辰野金語と葛西萬司が主宰する辰野・葛西建築設計事務所によるものです。煉瓦造り,2階建で,外壁は煉瓦の壁面に花崗岩の帯を回し,1階窓はまぐさ,2階窓にはアーチを用い,コンソールやアーチなどの要所にも白色花崗岩を使っています。屋根は銅版葺きでドーム部分のみスレート葺とし,ドーマー窓で飾っています。サンマード型の屋根に,西は寄棟屋根が接続し,南東隅にドームを冠した八角塔と南側に矩形塔を配して出入口としています。また,東面北端に切妻屋根が張り出す凸凹に富んだ外観となっています。内部はロビーと営業室を吹き抜けとし,2階に回廊をめぐらしています。付け柱を用い,天井に石膏モチーフを施す等豪華な内装が,明治期の銀行建築の姿をよく示しています。
東京駅丸の内口の赤煉瓦駅舎で有名な建築家辰野金吾が設計した建築としは,東北地方に残る唯一の作品であり,辰野の作風をよく示しているとともに,角地という敷地条件を活かした象徴的構成にも優れています。
明治44に建てられた旧盛岡銀行本館は,現在岩手銀行中の橋支店として,盛岡市中心部の中津川に架かる中の橋のたもとに優美な姿で建っている。1994年国指定有形文化財(建造物)に指定されている。この建物は、中の橋(なかのはし)のすぐ傍です。




旧盛岡銀行本店本館





③ 旧第九十銀行本店本館
旧第九十銀行本店本館は,1910年(明治43年)12月に竣工しました。設計は東京帝国大学を卒業して間もない,盛岡出身の若き建築家横濱勉によるものです。
構造は,煉瓦造2階建(一部地下1階),建物面積264.61平方メートル,正面から見て非対称の建物で,屋根はドーマー窓により飾られ,天然スレート及び銅板で葺かれたマンサード型を基本とし,建物の隅石や入口・窓のアーチは川目産の花崗岩の切り石で飾られています。
明治期の銀行は営業室を高い吹抜けとするのが主流でしたが,ここでは2階に広い総会室(集会室)を設け,1階を営業室・客溜・金庫室・頭取室及び応接室としています。
大正期にあらわれる表現主義建築の先駆けとされ,外観は重厚感のあるロマネスク・リヴァイヴァル様式,内部は直線的でシンプルなデザインのゼツェッシオン式の影響がみられ,19世紀末の欧州での建築運動をいち早く反映させたものとして,我が国の近代建築史上重要な建造物と言えます。1984年国指定有形文化財(建造物) に指定されている。建物は現在,「もりおか啄木賢治青春館」として公開されています。この建物は中の橋(なかのはし)からすぐの所にあります。






旧第九十銀行本店本館






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啄木の盛岡中学時代の歌

  蓬踏みて叫ばむ友の野にありや、燃ゆる焔の、夕雲の秋。

 
≪盛岡中学校校友会雑誌 第3号(明治35年12月)≫ 「白蘋」名で9首 (その8)

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盛岡の旧町名(上田組町)

2011-10-18 | ぶらり盛岡
盛岡の武家屋敷

盛岡では、江戸後期の文化9年(1812)に盛岡城下の町人・職人街を「丁」の字を使い、これまでの23町から28丁に増やし、文化11年(1814)に、武家屋敷街を明示する武家屋敷小路を定め、明治時代にいたっている。武家屋敷小路としては、

上田組町、上田小路、上田与力小路、上田新小路、下小路、平山小路、帷子小路、新山小路、仁王小路、、日影門小路、大沢川原小路、加賀野小路、餌差小路、大清水小路、鷹匠小路、馬場小路、上小路・・・・などがあった。

このように、町人・職人街は丁(町)、武家屋敷は小路、また足軽(同心)街は組町と呼んでいた。

城下の町割りとしては、盛岡城のすぐ側の内丸には上級武士の武家屋敷、その外側には町人・職人の居住する街がつくられ、それらは城を中心にして同心円状に町割りされた。また、一般の武士が住んだ区域として、仁王小路、上田小路、上衆小路、下小路などの武家屋敷がつくられた。
また、城下への出入口付近には、城下を守るために下級武士の足軽(同心)町がおかれた。<盛岡藩では寛保2年(1742年)に足軽を"同心"と称えている> 盛岡城下の玄関口に設置された同心町には奥州街道に沿う北の上田組丁、南の仙北組丁などがある。


(1)上田組町

上田組町は、奥州街道に沿う、盛岡の北の玄関口で、四ツ家の地蔵さんから、上田のJR山田線の踏み切りを渡り、高松の池の方をさす。









上田地区は、藩政時代には、岩手郡上田村といい、「上田通り」31村のうちに組み込まれ、上田とおり代官所の所管下にありました。盛岡藩では城下の北の関門として,奥州街道口に土手を廻らし柵を設けた枡形(ますがた)を造り,上田惣門とした。この枡形に至る道の両側に5人の組頭のもとに各組30人ずつ、総勢150人の足軽が配置されていました。家はかやぶき屋根の足軽屋敷が建ち並び、家屋はほとんど同型の「ころどや(一軒家)」で、屋敷の境はひば垣でした。「御組丁」とも言いましたが、屋敷内には「ぐみ」の木が多く植えられていたところから、もじって「上田ぐみ町」、また寛保2年(1742)南部藩は足軽を同心と唱えさせたところから「御同心丁」ともいいました。上田組町は、まっすぐ長い一本町で、屋敷並みを過ぎれば、人家はまばらで、東裏には正覚寺(しょうかくじ)があり、西裏には覚山の地蔵尊に通ずる道がありましたが、いずれも広い田圃の中でした。
また、枡形の外側には数軒の茶屋があり,「上田茶屋」と呼ばれた。
上田堤は,盛岡城下の建設に際し河北地域の治水上最も重要な施設であった。4つの堤があったが,現在は中堤・下堤が「高松の池」と呼ばれ,景勝地となっている。
この地域は近代に入ると,盛岡高等農林学校(岩手大学農学部),盛岡中学校(盛岡第一高等学校),県立工業学校(盛岡工業高等学校),盛岡高等工業学校(岩手大学工学部)などが次々と建設され,文教地区として発展していった。



上田通り(JR山田線踏み切り付近)



正覚寺




高松の池



高松の池の平和祈念像「望み」





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啄木の盛岡中学時代の歌

  袖を掩(おほ)へ世の智に迷ふ胸ひめて、歌に秋しる、夕花の蝶。

 
≪盛岡中学校校友会雑誌 第3号(明治35年12月)≫ 「白蘋」名で9首 (その7)

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渋民駅の啄木歌碑

2011-10-14 | 啄木歌碑
渋民駅は玉山区下田にある。下田村は明治22年渋民村と合併し、渋民村になっている。この地に、渋民駅が開業されたのは昭和25年(1950年)で、啄木の時代には「渋民駅」は存在しなかった。啄木が歌に詠んだ 故郷の「停車場」とは、隣村の好摩駅を指している。この歌碑は、玉山村合併50周年記念として、平成16年5月にに建立された。   




IGRいわて銀河鉄道渋民駅



IGRいわて銀河鉄道渋民駅前の駅前公園に、歌人石川啄木の歌碑が建立され、平成16年5月に除幕式が行われた。文字は啄木の直筆ノートから写し取った。歌碑の傍には「雲は天才である」と刻まれた碑が立っている。










なつかしき
故郷にかへる思ひあり、
久し振りにて汽車に乗りしに。

啄木



この歌は、啄木歌ノート「一握の砂以後」(明治43年11月末より)にあり、悲しき玩具に掲載されている。


啄木小説名の碑





この碑は、平成3年12月27日、JR渋民駅前の広場に、この浪漫ロマン的小説名を刻だ碑が建立された。











盛岡の旧町名(山岸町)

2011-10-10 | ぶらり盛岡

(28) 山岸町(やまぎしちょう)・御弓町(おゆみちょう)

江戸後期の文化9年(1812)には盛岡城下の町人・職人街を「丁」の字を使い、23町から28丁となって発展し、明治時代にいたっています。今回は28番目の山岸丁(町)です。

山岸町は国道四号線の東側になり、国道四号から入るとすぐに愛宕町の盛岡市中央公民館、さらに進むと岩手銀行山岸支店があり、銀行の駐車場に山岸町の旧町名由来の看板がある。


 
岩手銀行前の旧町名案内板







中央公民館前バス停  この先が山岸町です




山岸町は野田街道沿いにできた町で,文化9(1812)年に山岸丁となった。山岸町の先には,寛文9(1669)年に御弓組が新規に召抱えられ,足軽同心町の御弓町ができた。枡形(ますがた)があり,盛岡城下北東口の警備の関門であった。
山岸真綿の産地で養蚕業の盛んだったことは,同町の阿弥陀堂跡地に遺されてある文政5(1822)年建立の蚕供養塔が物語る。
山岸町は,遠く閉伊地方から海産物,塩,鉄を牛馬で運んで来る「塩の道」「鉄の道」と呼ばれた野田街道筋の町として栄えた。
宝珠盛岡山永福寺は,盛岡城から東北の鬼門に当たる南部家の祈願寺で,盛岡五箇寺の1つであった。秋の八幡宮例大祭には山岸獅子踊が神輿行列の露払い役を担っている。永福寺はJR山田線の山岸駅の線路を挟んだ前にある。なお、盛岡五ヶ寺とは、永福寺、聖寿寺、東禅寺、報恩寺、教淨寺を指す。





永福寺








盛岡中央公民館は、現在愛宕町ですが、旧町名では「下小路」で、町人街と山岸町を結ぶ長い通りでした。




公民館の池と愛宕山




公民館の茶室・白芳庵









岩手山の初冠雪

盛岡地方気象台は平成23年10月2日朝、岩手山の初冠雪を観測したと発表した。平年より11日、去年より25日早い観測です。





岩手山の初冠雪(10月5日) 





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啄木の盛岡中学時代の歌

  枝にふれて、うせぬる風のゆくへしらに 迷ふて落つる袖の葉か。森。
 
≪盛岡中学校校友会雑誌 第3号(明治35年12月)≫ 「白蘋」名で9首 (その6)

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渋民「大前田」の啄木歌碑

2011-10-06 | 啄木歌碑
渋民駅から啄木記念館の方に歩くと10分ほどで、道路の右側に、この歌碑があります。渋民街の入口です。車で行くと見落としがちです。
この歌碑は、以前この地で「啄木ドライブイン」を経営していた方が、昭和53年4月に建立したもので、碑文は啄木自筆からの集字拡大である。









神無月
岩手の山の
初雪の眉にせまりし朝を思ひぬ

啄木


この歌は、啄木歌ノート(明治41年10月23日)、新渡戸仙岳宛の手紙(明治41年10月26日)にあり、岩手日報(明治41年11月3日)、雑誌明星(明治41年11月号)に発表し、一握の砂「秋風のこころよさに」に掲載した。